山の上の家事学校第32回

 翌日、取材を一件こなし、会社に行って幅木と会った。
「仲上さん、元気そうやん。顔色いいし」
「そうですか?」
 たしかに、家事学校にいると、三食きちんと食べるし、栄養のバランスも取れる。ビールも買いに行くのが面倒で、一本だけしか飲まないし、夜でかけるところがないから早く寝る。
 朝や、午後の自由時間に散歩したりもするから、まったく運動しないわけでもない。健康にはいい生活と言えるのではないだろうか。
 ふいに、東京の政治部で働いていたときのことを思い出す。
 夜遅くまで飲み歩き、昼はコンビニでサンドイッチやおにぎりを買うか、食べないかだった。夕食を食べないときは、ちゃんと連絡してと言われていたが、三回に一度は連絡を忘れた。そのうち鈴菜は、連絡なしで遅く帰っても、なにも言わなくなった。そのときは、ようやくぼくの働き方を理解してくれたのだと思っていたが、なんのことはない、言っても通じない相手だと思われただけなのだ。
 何時に帰るかわからければ、食事を作るタイミングもわからないし、もう食べないのだと判断することもできない。自分で料理をするようになってから、よくわかる。
 鈴菜と結婚してしばらくは、ぼくが帰るタイミングで、揚げたての天ぷらやフライが出てくることがあった。
 たぶん、ぼくが帰らなかった夜も、そうやって準備された食材や料理はあったのだろう。ぼくは彼女のその気遣いに気づくことすらしなかった。
「そういえば、家事学校のルポ、進んでいる?」
「あ、連休中に進めます。なんだか考え込んでしまって......」
 自分の情けないところをさらけ出すだけではなく、社会のシステムに対する批判も書きたい。そのバランスが難しい。
 あまりに自責的にもなりたくないし、かといって、社会のせいにしすぎるのもどうかと思ってしまう。
「楽しみにしてるから。ちょっと上にも話してみたら、反応もよかったし」
 それは少し驚く。昔よりは増えたと言っても、上層部は古い考えの男性が多い。男性が家事学校に行くなんて、と苦笑されるものだとばかり思っていた。
「やっぱりさあ、自分が年齢を重ねると、老親の現状だって目にするわけだし、パートナーが先になくなるケースや、高齢になってから独り身になって苦労するケースだって、身近になるんとちゃうかなあ」
 幅木はそんなことを言った。
「うちの連れ合いもさあ、最近、地域の自治会に積極的に参加するようになって、どうしてかなと思ったら、定年後、仕事でのつながりがなくなったとき、友達も知人もいなくなるのは怖いから......って言ってたし」
 少し耳が痛い。大阪に越してきてから、職場と家事学校以外の知り合いは作っていない。今すぐ東京に帰るつもりもないのに、どこか、ここは仮の住まいだからと考えてしまっている。
 ぼくは自分の席に戻って、携帯電話を見た。
 待ち受け場面には、パンダを背景に、理央が親指と人差し指をクロスさせて笑った写真が設定されている。
 鈴菜が白浜から送ってくれた写真だった。こんなメッセージと一緒だった。
「パパに写真送るよって言ったら、理央がこのポーズしたの。知っている? 指ハート」
 はじめて知った。どうやら親指と人差し指でハートを作っているらしい。さすがに胸が熱くなった。
 どのくらいの間、大好きなパパでいられるか。たぶん、それはぼく自身の行動にかかっているのだろう。


 家事学校に戻ると、ぼくは校長に、一日休むことを伝えた。
「妹一家が大阪に遊びに来るので、一緒に過ごしたいと思いまして......いきなりすみません」
 花村校長は老眼鏡を少し下げて微笑んだ。
「いいんですよ。ご家族がいちばん大事です」
 そのことばに、ぼくは少し戸惑う。
「家族......ではないです。妹はもう別世帯なので」
「あら、そうかしら。家族なんて曖昧なものですよ。どこまでを家族と考えるかなんて、その人の自由です。英語のファミリーには、きっと妹さんとそのご家族も含まれると思いますけど」
 一族と考えると、別世帯の身内も含まれるだろう。
 妹一家は、一緒に住んでいるわけではないから、家族ではないと思っていたが、広い意味ではそう考えてもいいのかもしれない。
 自分にはもう家族などいないと思っていたが、そういうふうに捉えることもできるのかもしれない。
 少なくとも、会いたいと思ってもらえる間は、家族なのだと。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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