山の上の家事学校第4回
三月のはじめ、ぼくは大阪にやってきた。
引っ越し先を探すために、不動産会社に行き、物件を何件か回った。東京に比べると、かなり家賃が安い。特別な条件もないから、職場に近い1LDKにすぐ決めた。
夕方からは、「山之上家政学校」の説明会に行くつもりだった。
慣れない私鉄に乗り、目的の駅で降りて、バスに乗り換える。バスは三十分に一度しかない。決して便利な場所とは言えないなと考える。
住宅街を走った後、バスは広くて新しいトンネルに入った。トンネルは十分くらい続いただろうか。いきなり、のどかな山里のような景色が現れた。
美しい渓谷と、山間に広がる畑。果樹園もある。
たしかに近くはないが、都心から一時間足らずで、こんな景色が見られるのかと思った。
目的のバス停で降りたのは、ぼくと、もうひとり若い大学生くらいの青年だった。
地図をプリントアウトしてきたが、家政学校までは一本道で、地図を見る必要もない。
五分ほど歩いて「山之上家政学校」と書かれた門を見つけた。古い門の閂(かんぬき)を自分で外して、中に入る。門を閉じようとしたとき、さっきの青年が少し後ろを歩いているのが見えた。彼もここにくるのだろうか。
招き入れるのも妙だから、ぼくはそのまま背を向けて歩き出した。
とたんに足下に、白い生き物が飛び出してきた。鶏だった。
生きている鶏を見たのは子供のとき以来という気がする。もちろん、写真や映像では見ていたが、地べたをついばみながら歩く姿に、ぼくは戸惑った。
横を通って突かれないだろうか。おそるおそる通り過ぎようとすると、鶏はなぜか羽根を広げて、こちらに向かってきた。あきらかに威嚇(いかく)だ。
急いで地図に書いてあった母屋(おもや)の方に走った。追い払ったことに納得したのか、鶏はそれ以上追ってこなかった。
ぼくは首を傾げた。家事の学校と言っても、鶏を飼うところからはじめるのは、あまりにも時代錯誤すぎないだろうか。
ようやく母屋に辿り着いて、ぼくはインターフォンを押した。
引き戸が開いて、紫の髪の女性が顔を出した。写真に出ていた人だが、写真で見るよりも小柄に見える。
「いらっしゃい。仲上(なかがみ)さん? それとも、猿渡(さわたり)さん?」
「仲上です」
後ろに建つ大きな民家のように見える学校の中に案内され、玄関脇の洋室に通された。
「ええと、仲上さんは東京の方ね」
「でも、四月から大阪に移動になるんです。もう物件を決めてきましたし、引っ越しの日程も近いうちに決めるつもりです」
女性は時計を見た。
「もうひとりいらっしゃるから、その方が到着したら、説明をはじめましょう。でも遅いわね。バスは三十分に一本しかないから、遅刻しない限りは、ほぼ同時刻に到着するはずなのに」
そう言われて、ぼくはぴんときた。
「あの......若い男性と門のところまで一緒だったんです」
「あら」
女性は目を見開いて、まばたきをした。
「じゃあ、どうしてこないのかしら」
「ええと......くる途中、鶏に威嚇されたんですが......」
女性は、あわてて立ち上がった。
想像通り、青年は庭の真ん中で鶏と向かい合っていた。
「こら! おっぽ! なにしてるの」
おっぽと呼ばれた鶏は、大人しく女性に抱きかかえられた。
「ごめんなさいねえ。いつもは鶏小屋に入れておくんだけど」
青年はふてくされたような顔で、ぺこりと頭だけ下げた。
「わたしは校長の花村(はなむら)です。よろしくお願いしますね」
おっぽは無事、鶏小屋に入れられた。もう一羽鶏がいて、ぼくは「庭には二羽鶏がいる」などと思った。
猿渡と呼ばれた青年とぼくは、学校についての説明を聞いた。
授業は、五人までの少人数制、カリキュラムは一ヶ月前に決められて時間割が配布される。入寮コースの人は、その期間の授業は好きなように受けられる。週末コースの場合は、土日の授業を受けられる。週一や週二のコースだと、決まった時間の授業しか受けられない。どのコースでも、三日前に振替希望を出せば、他の時間の授業に振り替えることができる。
「やはり入寮コースをおすすめしています。生活のための学校ですからね。ここで、洗濯や掃除をして、家に帰ってまたやるのも大変でしょうし、なによりも習慣が身につくことがいちばん大事です」
たしかに週一や週末だけ、こちらに通ってくるのも面倒な気がする。ぼくには時間もあるし、寮に入って、二週間くらいみっちり教えてもらった方がいいかもしれない。
「なにか質問はある?」
花村校長にそう尋ねられたので、ぼくは手を上げた。
「寮というのはどちらですか」
「向かいにあるアパートです。バストイレは部屋の中にありますし、個室だから、一人暮らししているのと変わらないと思うわよ。でも、お風呂はユニットバスだから、学校のお風呂に入る人が多いわね」
「こっちにもお風呂があるんですか?」
「もともと、ここは旅館だったから、広めのお風呂がついているの。掃除の実習をして、授業の後、入りたい人がいたら、お湯を張って入っていいことになっています」
離婚してからは、ユニットバスの部屋で生活していて、シャワーばかりだった。足を伸ばせるような湯船に浸かりたいとずっと思っていた。
二人部屋や三人部屋で過ごすのは気詰まりだが、個室なら寮に入ってもいいかもしれない。
「入寮希望なら、後で寮の方も案内するわね。他に質問は?」
そう言うと、ずっと黙っていた猿渡が口を開いた。
「あの、ここは男性しか入れないんですよね」
「完全にそういうわけではないんですけど、男性のための学校として作られて、運営しています」
「それって、差別じゃないんですか」
花村校長は何度かまばたきをした。柔らかかった雰囲気が、急に張り詰めた気がした。
「差別って、なんの?」
「女性が入れないのだとしたら、女性差別だけど、考え方を変えると、男性だけが家事を学ぶべきだと思っていることで、それは男性差別でもあると思います。女性は勉強しなくても、家事はできるけど、男性は勉強しないとできないと考えているんでしょう」
花村校長は笑みを浮かべていたが、ただ優しく微笑んでいるわけではないことはぼくにはわかった。
それにしても、いったい、この猿渡という青年は、説明会まで聞きに来て、なんでこんなことを言いだしているのだろうか。
「猿渡さんは女子大も差別だと思っているの?」
「思ってますよ。超弩級(ちょうどきゅう)の男性差別です。男子大というのはないんだから」
「じゃあ、男子高は。多くの、進学校の男子高は女性を募集してないわよね」
「それは女子高もあるから、同じことです」
花村校長は話し続けた。
「女子大が生まれたのは、昔の大学が男性中心だったからです。女性が高等教育を学ぶことが難しかったから、女子大という形で、サポートすることが必要だった。うちが、男性中心という形を取っているのも、同じ理由です。女性は、比較的家事を学びやすい環境にある。なんなら家政大学もある。だが、男性はそういう環境にない。あなたは、男女関係なく家庭科が受けられた世代だろうけど、うちにはもっと上の世代の生徒さんもくる。その人たちは、家庭科の授業を受ける権利さえなかった」
ぼくはぎりぎり家庭科を学べるようになった世代だと聞いた。その前は、木工などの授業を受けていたらしいが、木工と料理では、人生における重要さがまるで違う気がする。
「でも、ここで勉強したい女性もいるでしょう」
猿渡はなおも食い下がる。ここが気に入らないなら、別にこなくてもいいのに、なぜそんなことを言うのだ、と、少しイライラした。
「ええ、連絡をいただくこともあるから、その場合は別の家事教室をご紹介することにしています」
「どうしてですか?」
「女性が多くなると、男性が入学するハードルが上がるということがいちばん大きな理由。男性ばかりだからこそ、自分が通ってもいい場所だと思える。あなたはそうじゃなかった?」
たしかに、ここが男性のための学校と銘打たれてなかったら、ぼくはこようとは思わなかったかもしれない。
猿渡が黙り込んだところを見ると、彼もそうだったのかもしれない。
「入学手続きは、今でもいいし、後からでも大丈夫です。この後、校内と寮をお見せするけど、寮に興味がなければ、お帰りになってくださっても問題ありません」
てっきり、猿渡は帰るとばかり思っていた。だが、彼は言った。
「寮も見せてください」
花村校長は驚いた顔をしなかった。笑顔でソファから立ち上がった。
「じゃあ、まずは学校内からね」
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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