山の上の家事学校第22回

 翌朝、ぼくは昨日買ったパンを持って、学校に向かった。学校の厨房には豆から淹れるコーヒーメーカーがあり、いつでも飲みたいときに作って飲んでいいことになっている。常備してある豆もおいしく、すっかりそれを飲むのが楽しみになっていた。
 玄関の引き戸に手を掛けたとき、後ろから声を掛けられた。
「仲上さん?」
 振り返ると、荷物を抱えて、白木が立っていた。爽やかな笑顔で、こっちも自然に笑顔になってしまう。
「これからコーヒー淹れるの?」
「淹れます。白木さんもいかがですか?」
「うん、俺は校長に挨拶してから行くよ」
「わかりました」
 厨房に入ると、すでに堀尾がカウンターに座ってコーヒーを飲んでいた。
 挨拶をして、コーヒーメーカーをセットする。家ではインスタントしか飲まないから、朝食においしいコーヒーを飲むのもひさしぶりだ。
「さっき、白木さんと会いましたよ」
 黙っているのも妙な気がして、そう堀尾に言う。
「あ、そうなんだ。声が聞こえたから、そうかなと思った」
 コーヒーメーカーからいい香りが漂いはじめる。淹れたてのコーヒーの香りは格別だ。
 また玄関が開く音がして、がやがやと声が聞こえる。
 土日だけ授業を受けにやってくる生徒は、案外多いのかもしれない。確かに、仕事を休んでまでくる方が特殊なのかもしれない。
 白木が厨房にやってきたのは、ぼくがコーヒーをカップに入れ終えるのとほぼ同時だった。
「ああ、堀尾さん、おはようございます」
 白木は笑顔で堀尾に挨拶すると、ぼくからコーヒーカップを受け取った。
 カウンターに自然と三人並ぶ形になる。ぼくは買ってきたパンを食べ始めた。
 白木がぼくに尋ねた。
「娘さんはどうだった? 陰性のまま切り抜けられた?」
 ぼくは答える。
「無理でした。でも、軽症で後遺症もないようなので、それはほっとしています」
「仲上さんの娘さん、コロナになったんですか?」
 堀尾にそう尋ねられて、ぼくは頷いた。
「先に元妻の両親と元妻が感染して、娘だけ陰性だったので、彼女を預かるために急いで帰ったんです」
「大したことなかったなら、よかったですね」
「ありがとうございます」
 白木がコーヒーカップを口に運びながら言う。
「でも、元奥さんから頼りにされているんですね。離婚しても、いい距離感でやっていられているのは、人徳ですよ」
 ぼくはあわてて、否定した。
「そんなことないです。今回はたまたま、そうなったと言うだけで、本当に頼りないと思われています」
 結果的に、それなりに頑張った手応えはあるが、もし鈴菜が他に頼るところがあれば、ぼくに連絡が来ることはなかったはずだ。
 白木はふうっとためいきをついた。
「もし、離婚しても互いを尊重したいい関係のままでいられるなら、その方がいいと思うんですよね。うち、最近、なんかギスギスしていて」
 ぼくはぎこちなく笑った。そんなふうに言えるのは完全に他人事だからだ。
「本当にいい関係のままだったら、離婚なんてしませんよ」
 白木ははっとした顔になった。
「すみません。なんかイメージだけで言いました。でも仲上さん、温和だし、揉めるような人に思えなくて」
 そう、それは正しい。ぼくと鈴菜は大喧嘩をしたわけではなかった。ぼくはただ、へらへらとしながら、彼女のことばを聞き流し、彼女を絶望させた。離婚を切り出されてからも、ぼくは完全に白旗を揚げ、彼女の言うがままに受け入れた。
 でも、それがいいことだったとは、少しも思えないのだ。
「ぼくも、白木さんが自分の家族とギスギスしているような人とは思えません」
 今、この場にいるのは、無理につきあいを継続しなくてもいいし、面倒くさいことを分け合わなくてもいい、ただの知人だ。見えないものもたくさんある。
 だが、堀尾は別の意味に受け取ったらしかった。
「俺もそう思うなあ。白木さんで不満だなんて、奥さん、要求水準が高すぎるんじゃないの?」
 白木は、一瞬顔を強ばらせて、だがすぐに笑顔になった。
「いやあ、こう見えて、家ではダメ男なんですよ。叱られてばかりです」
 彼のことばに既視感を覚えた。
 ぼくも過去に何度も言った。「叱られてばかりなんです」と。
 そう言って、尻尾を丸めたふりをしながら、自分のポジションから動くことはなかった。
 聞いた相手は、勝手に妻が厳しいのだと判断してくれる。なぜ、叱られたのかには言及されないままで。
 気に入っているベーカリーのパンなのに、喉に詰まるような気がした。
 和室に生徒が集まりはじめたらしい。話し声や笑い声が聞こえる。
 今日の最初の授業は、栄養学だ。大学の家政学の先生が、出張授業にきてくれるという。
 ぼくはコーヒーを飲み干して、洗い場に行き、カップを洗った。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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