山の上の家事学校第23回
やはり、土日は、普段より生徒が多いようだった。
栄養学の教室にも十人近い生徒がいた。カロリーも、ビタミンやミネラルもしょっちゅう耳にする単語だが、自分の身体にどのくらいの栄養が必要だなんて、意識したことはなかった。
具体的な数字を聞いてみると、普段の食事ではあきらかに野菜が足りていないし、脂質や塩分は過剰だ。外食で、必要な栄養を取るのはなかなか大変そうだ。
講師は、五十代くらいの女性だった。身体にいいメニューを一から作るだけでなく、コンビニなどで買える手軽な食材を使って、栄養のバランスをとるやり方も教えてくれた。
とはいえ、食事は数少ない楽しみなのだから、言われた通りにするのは簡単ではない。つい、手軽でおいしいものを選んでしまう。
ラーメンのスープは残したほうが身体にいいと言われても、スープを飲み干すことが男らしいのだと考えてしまう。
授業が終わると、休憩を挟んで調理実習がはじまる。
今日の実習はサンドイッチだった。サンドイッチくらいなら、教わらなくても作れるのではないかと一瞬思ったが、作り始めてみると、おいしく作るためのルールがいくつもあった。
水分の多い具を挟むときは、バターや辛子マヨネーズなど油分をしっかりパンに塗って、パンが湿るのを防ぐこと。作った後、ラップに包んでしばらく馴染ませてから切ると、上手く切れること。切れ味のいいパン切り包丁を使うと、仕上がりがきれいなことも知った。
定番のツナサンドや卵サンドだけでなく、しめ鯖と大葉を挟んだサンドイッチなども作った。これは酒を飲んだ後の締めにもよさそうだった。
作り終わったら、全員でサンドイッチをバスケットに詰め、庭に出た。縁側に座る者と、レジャーシートに座る者たちに別れて、めいめいに食事をする。ぼくはレジャーシートの上に座った。岡村先生が、コーヒーを紙コップに入れて、配ってくれた。
つかの間のピクニックだ。ひとりで暮らすようになって、こんなことをしたことなどない。
風が心地よく、新緑が光を浴びてきらきらと輝く。自分で作ったなんの変哲もないサンドイッチが、外で食べるとやけにおいしく感じられる。
こんなふうに時間を過ごすことも忘れていた。
特に、きゅうりのサンドイッチがおいしかった。きゅうりを千切りにして塩胡椒とマヨネーズで和えたものを、薄いパンに挟んだだけだが、しっかり水気を絞ったおかげで、少しも水っぽくない。
きゅうりがこんなにいい香りだなんて、はじめて感じた。
デザートには、いちごと八朔。特別、珍しいものなどないし、準備したのも自分たちだ。それでも、栄養を取るだけではなく、楽しみのための食事という気がした。
職場での昼食は、買ってきたサンドイッチやおにぎりを、大して味わうことなく、口の中に押し込んでいるようなものだ。
こんなふうに、いちごを小さな容器に入れて持って行くだけでも、気分は変わるのかもしれない。
ふと、振り返ると、白木がぼんやりと生い茂る木々を眺めていた。
その顔には感情がなく、心だけどこかに置いてきてしまったように見えた。
「子供のためのヘアアレンジ」の授業は夜の七時からだった。
普段なら、夕食を取っている時間だが、希望者が少ない授業はこの枠になるらしい。
調理実習ではキーマカレーとスープと春野菜の浅漬けピクルスを作った。夜の授業に参加する生徒の分は、残しておいてもらって、後で食べられるらしい。
授業に参加していたのは、三人。ぼく以外は、津田(つだ)という二十代後半くらいの彫りの深い顔をした若者と、八代(やしろ)という三十代の男性だった。講師は美容師だという若い男性だった。
津田の娘はまだ三歳で、八代の娘は七歳だという。八代は慣れたもので、頭と髪だけのマネキンを使って、手早く三つ編みを作り上げた。今日は、編み込みアレンジを覚えるらしい。
ぼくと津田は、初心者ということで、まずは髪に櫛を入れて、ふたつにくくるところからはじめて、三つ編みを教わることになった。
使うのは手だけだから、津田と八代は、自分の娘の話で盛り上がっている。ぼくもときどき相づちを打ち、話に参加する。
ただ、やはりうらやましい気持ちは抑えられない。
妻との仲も良好だろうし、娘も彼らに懐いているだろう。八代は、細いリボンを髪と一緒に編み込んで、まるで妖精のような可愛らしい髪型を作り上げた。
こういうことができる父親なら、きっと娘を喜ばせることができるだろう。
「今度、ピアノの発表会があるので、可愛いヘアアレンジを覚えてきてって言われてるんですよ」
とろけそうな笑顔でそう言う。
津田は不器用で、三つ編みをするのも一苦労といった感じだが、自分からそれを覚えようとしている彼を、尊敬せずにはいられなかった。
ただ、髪をふたつに分けて結ぶだけでも、考えていたよりも難しかった。髪を均等に分け、真ん中にきれいなラインを作り、同じ位置でゴムで結ぶ。
しかも、今はマネキンだから髪を強く引っ張っても文句は言わないが、人間だとそうはいかない。優しく、しかも手早くやりとげなければならない。
授業が終わると、講師は言った。
「一度やっただけだと、すぐに忘れちゃうんで、できたら自分で練習してくださいね」
それを聞いて、少し落ち込んだ。津田と八代と違い、ぼくには練習台になってくれるような存在はいないのだ。理央とは、月に一度しか会えない。
もう少し早く、行動できていればよかったのに。
何度も考えたことを、また考えた。だが、行動しなかったのはぼく自身だ。
ふと、「底つき」という単語が浮かんだ。ギャンブル依存症の取材を続けていたとき、知ったことばだった。
依存症患者が回復に向かうためには、自分が心から望んで治療に取り組むことが必要だ。誰かから言われて、という軽い気持ちでは、治療を乗り越えられない。
そのために大事なのは、「もう八方ふさがりだ」「このままではどうにもならない」と実感することだと聞いた。
優しい身内などがいて、お金を援助してしまうと、結果的に底つき体験が遅れ、回復までの道のりが遠くなることがあるという。
たぶん、ぼくにとって、鈴菜から別れを告げられたことが、「底つき」だったのかもしれない。
必要なことだったのだ、と、自分に言い聞かせる。
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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