山の上の家事学校第38回
大型連休が終わると、猿渡は、無事にカリキュラムを終え、京都に戻っていった。
ぼくもとりあえずは、自分のマンションに帰る。部屋はきれいに掃除され、アザラシを描いたクッキーの箱がテーブルの上に置かれていた。海遊館のお土産だろう。
ぼくはまだしばらく、予定のない土日を山之上家事学校で過ごすつもりだ。まだ覚えたいことはたくさんあるし、この場所のことももう少し見ていたい。
ぼく自身の変化も、記録に残さなければならない。
自宅に帰ってから、ぼくは集中して、連載記事の一回目を書き上げた。
離婚に至るまでの自分の行動、ひとりになってからの孤独と荒れていく生活。いくらでも書けることはあったが、そこは早々に切り上げる。書きたいのは家事学校のことだ。
大人でいるつもりで生活にちっとも向き合ってこなかったことを痛感し、学ぶことで新しい楽しみを知る。弁当作りや、服を繕うことも楽しみになるのだと、はじめて実感したことなどを書いた。気づけば連載一回分を夢中で書き終えていた。
いつのまにか、深夜三時を回っていた。早く寝ないと明日の出勤に差し障る。
ただ、疲れていても、仕事をやり終えた後の心はいつも軽やかだ。
原稿は幅木にも気に入ってもらえ、ウェブに掲載されることになった。
ウェブは読者の反応が、SNSなどでダイレクトに返ってくるから、少し緊張する。炎上するようなテーマではないと思うが、保守的な価値観の男性から見れば、情けないと思われるかもしれない。
掲載日の朝、そんなことを考えていると、鈴菜からメールがあった。
「元気? 次に理央と会う日、また考えておいて」
鈴菜は先月から参考書を作っている出版社に就職し、フルタイム労働をしていると言っていた。休日出勤もときどきあるから、理央に会いたいなら早めに知らせてほしいと言われていたのだ。
ぼくは思い切ってメッセージを送った。
「家事学校に行っていると言う話はしただろう。それについて、ウェブで取り上げることになって、体験談を書いたんだ。今日掲載されたから、読んで忌憚のない意見を聞かせてくれないかな」
「いいよ。リンク送って」
ぼくは、すぐに連載ページのURLを鈴菜に送った。
鈴菜はいつでも行動が早い。普段ならメールの返信もすぐにあるし、家でも友達からメッセージが届くと、即座に返事を書いていた。
だが、その日、なかなかメッセージはこなかった。たぶん、仕事が忙しいのだろうと、ぼくは考えることをやめた。
仕事を終え、家に帰り、野菜と肉を炒めて食事をとった後、さすがに返事が遅すぎることに気づく。
忘れられているのか不安になって、またメッセージを送った。
「あれ、どうだった」
今度はすぐに返事がきた。
「読んだけど......幸彦に合ってたんだね。よかったねって感じ」
あまりに冷ややかなことばに、驚く。なにか気に触ったのだろうか。
電話をしていいか確認して、電話をかける。電話に出た鈴菜の声はひどく疲れ切っていた。
「よかったよ。それでいいでしょう」
「そうは読めなかった。なにか言いたいことがあるのなら言ってほしい」
鈴菜は少し黙った。ようやく口を開く。
「幸彦は、家事の楽しみは誰にでも平等に与えられるって書いてたけど、全然平等じゃない。そりゃあ、わたしだって、結婚して幸彦と一緒に暮らすようになったとき、家事って意外と楽しいなと思ったことがある。おいしいものを工夫して作って、部屋を自分好みに整えて、居心地良くする。楽しかったよ」
彼女の声はかすかに震えていた。
「でも、理央が生まれたらそんな余裕なんてなくなった。片付けてもすぐ散らかるし、やることは無限に出てくる。しかも、黙っていても食事が出てきて、洗濯物がきれいになっていて、部屋が片付いているのを当たり前だって思っている同居人もいる」
「それは......悪かったと思っている」
だから、彼女はぼくと別れ、自分ひとりで生きることを選んだのだろう。
「そのときは、自分が社会から断絶していることが苦しかった。好きだった仕事にも復帰できず、友達と会うのにさえ、気を遣っていたことが息苦しかった。ずっと傷ついていた」
もう一度謝った方がいいのだろうか。だが、彼女は続いてこんなことを言った。
「今は、フルタイムで働いて、理央の面倒は夕食までお母さんが見てくれている。でも、今もわたし、傷ついてる。毎日夜遅く帰って、理央のごはんを作ってやれないことも、理央と一緒にいる時間がどんどん短くなっていることも。ただただ苦しい。子供と一緒に笑っているお母さんの映像を観るだけで、わたし、なにをしているんだろうって思う。この世でいちばん大事な存在と、一緒に夕食をとる代わりに、遅くまで会社で残業しているの。罪悪感ばかりが募るの。セーターを繕って、それが楽しいって思っている時間なんてない」
ぼくは息を呑んだ。彼女がそんなことで苦しんでいるとは思わなかった。
「戻ってくればいい」
ぼくは思い切って言った。
「もう一度、やり直そう。ぼくも今度はちゃんとやる。前みたいに、仕事を理由に家のことをおろそかにしたりはしない」
ぼくはまだ理央と、そしてなにより鈴菜を愛している。
電話の向こうで沈黙が続いた。その沈黙が怖くて、ぼくは話し続けた。
「フルタイムの仕事じゃなくても、前のようにライターでやりたい仕事だけやっていればいいじゃないか。そうしたら、理央とも一緒にいられる」
「そう言うことじゃない」
冷たい声が返ってくる。
ああ、この声には覚えがある、と、思った。離婚協議の最中、必要な連絡事項のみで、電話を切っていた彼女の声だ。
「わたしは、そういうことが言いたいんじゃない。幸彦にはきっとわからない」
ぼくは、自分がなにか致命的な間違いを犯してしまったことに気づいた。
だが、なにが間違いなのかわからない。また一緒に暮らせば、鈴菜の願いは叶えられるのではないだろうか。仕事もして、理央との時間も取れる。
それとも、たとえそうでも、ぼくとはもう一緒に暮らしたくないということなのだろうか。
「ぼくは......そんなにきみを失望させたのか......」
「去年の話なら、返事はイエスだけど、今わたしが言っているのは、そういう問題じゃないの」
「わからないよ......」
鈴菜ははっきりと言った。
「そうでしょ。だから言ったの。幸彦にはわからないって」
そのまま電話が切られるかと思ったが、鈴菜は最後にこう言った。
「理央と会いたいなら、希望日をメッセージで知らせて。なるべく摺り合わせるようにする」
通話の途絶えた携帯電話を手に、ぼくはその場から動けなかった。
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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