山の上の家事学校第21回
この前と同じ部屋に入り、キャリーバッグから着替えを出す。
学校の風呂に入るのは気持ちがいいが、また堀尾たちと顔を合わせるのも気まずい。今日は部屋にあるユニットバスでシャワーを浴びよう。そう考えていたとき、インターフォンが鳴った。
立ち上がって、ドアを開ける。鷹栖が立っていた。
少し驚く。ぼくになんの用だろう。
「ビール、お好きでしたよね。飲もうと思って買ってたんですが、結局飲まずに明日帰るし、荷物になるので、よろしかったらいかがですか?」
レジ袋の中に、缶ビールが二本入っている。
「いいんですか? 帰ってお飲みになれば......」
そう言うと鷹栖は首を振った。
「家では飲まないことにしているんですよ。強くはないですし、なにかあったときに対処できないので」
「なにかあったとき?」
彼は少し寂しそうな顔をして、息を吐いた。
「妻が認知症でしてね。普段は機嫌良くしていますが、ときどき手がつけられないほど荒れることもあります。目を離している隙に出て行って、タクシーをつかまえてしまい、神戸港で見つかったこともあります。酔った状態で、そういう事態に対処できるほど酒に強くないんですよ」
ぼくは息を呑んだ。いろいろ聞かなくても、その生活が苛酷であることは想像できる。
「ときどき、ショートステイを利用して、山之上家事学校にきているんです。こんなことになるまで、家事はほとんどできませんでしたから。勉強ついでに、ちょうどいい息抜きにもなっています」
思わず言った。
「頭が下がります」
鷹栖は笑って、否定するように手を振った。
「近所の人や、親戚も、娘も、『よくやっている』と褒めてくれます。でも、思うんですよ。もし、わたしが妻の方で、認知症の夫をショートステイに出して、なにかを習いに行ってたら、同じように言ってもらえるのかな、と」
答えられない。同じはずはない。褒めるどころか、悪く言う人もいるはずだ。特に鷹栖と同世代の人たちの中には。
少しも公平でない。鷹栖は、そのことに気づいている。
「ご自宅で介護を続けられるんですか?」
「いつまでも、というわけにはいかないでしょうね。病状はどんどん進んでいきますし、娘もグループホームに入れた方がいいと言っています。ただ、まだ、わたしがひとりでいることに耐えられそうにない。半世紀もずっと一緒でしたから......」
ぼくが鈴菜と暮らした期間の何倍だろう。その時間を思うと、胸が痛くなる。
「妻が元気だったときに、もっといろいろしてやればよかったと思っています。料理も作ってやればよかったし、しんどそうなときは、家事を替わってやればよかった。それどころか、病気になってしばらくは、妻を叱りつけさえしました。きちんと家事をやっていないと言ってね」
その悔恨があるから、鷹栖は介護を続けるのだろうか。
彼は、ふいに笑顔になった。
「別にすべてひとりで抱え込んでいるわけではないのですよ。さっき言ったようにショートステイもしょっちゅう利用しているし、昼間は介護士さんにきてもらっています。行き詰まらないように利用できるものは、全部利用しています」
それを聞いて、少し安心した。だが、それでもその生活が穏やかなものだとはとても思えない。
波間を行く小さな船。ぼくの頭にはそんなイメージが浮かんだ。波の穏やかな静かな日があったとしても、暴風雨に翻弄される日も、命の危険を感じる日もあるだろう。
簡単に慰めが言えるはずもない。
ふいに、鷹栖が悪戯っぽい顔で笑った。
「仲上さん、先ほど白木さんの話を聞いたとき、妙な顔をされていましたね」
「妙な顔?」
「なにか含みのあるような。その場の空気に異を唱えたいような......」
ぼくは驚いて鷹栖を凝視した。
「すみません。長年教師をやっていたので、ひとりひとりの表情の変化に注目する癖があるんですよ。学校の外では、あまりいい趣味ではないと思っていますが」
どう答えるべきか考えたが、鷹栖は堀尾たちの会話に同調していなかったことを思い出す。
「いやあ、片方の話だけ聞いて、『鬼ヨメ』とか決めつけるのはどうかと思っただけです。他人に見せる顔と、家族に見せる顔が違う人だっていますし」
鷹栖は深く頷いた。
「本当にそうです。わたしもそう思います」
そう言った後、こう付け加えた。
「ぼくは、仲上さんが白木さんからなにか話を聞いたのかと思いました」
鷹栖は鋭い。やはり、それは教師として人間観察をしてきたからだろうか。
「白木さんからはなにも聞いていません」
ぼくが幅木から聞いた話が、本当にあの白木のことかどうかもわからない。だから慎重に答える。
鷹栖は話を続けた。
「以前、白木さんから相談にのってほしいと頼まれたことがあるんですが、なかなかタイミングが合わなくて......少し気に掛かっていたのです」
「白木さんはなにか悩んでいる......?」
「ええ、そうだと思います。仲上さんは白木さんと気が合うようだったし、彼が自分の心情を吐露できるような時間があれば......と思いました」
ぼくが話を聞くと言えるような立場ではない。鷹栖に相談したいと言ったのも、人生の先輩だからだろう。白木と同世代のぼくに代わりが務まるとは思えない。
鷹栖ははっとしたように、身を正すと頭を下げた。
「お疲れのところ、長々と話をしてしまいました」
「いえ、お話しできてよかったです。ビールありがとうございました」
「では、また機会があれば」
そう言うと、鷹栖は自分の部屋に戻っていった。
その背中を眺めながら思う。彼と妻との生活が、少しでも平穏に続くようにと。
ひとつわかったことがある。
白木だって、今のままでいいと思っているわけではない。もし、ただ自分を肯定して、妻を一緒になって責めてほしいと思っているなら、鷹栖のような人に相談しようとするはずはない。
堀尾のような男性はどこにでもいる。彼らに愚痴って、慰めてもらえばいいのだ。
鷹栖に相談しようとしたからには、白木の中にも、自分を変えたい気持ちがあるのではないだろうか。
楽観的な発想かもしれない。だが、ぼくはそう考えてしまう。
まだ家事学校にきたばかりで、なにもわからないぼくを優しく気遣ってくれたのは白木だ。独りよがりで自分勝手なだけの人だとは思えない。
先ほどの鷹栖のことばを思い出す。
(彼が自分の心情を吐露できるような時間があれば......)
簡単なことではない。自分のこととして考えてもわかる。本当の自分の気持ちを誰かに話したことがあるだろうか。
鈴菜が理央を連れて出て行ったとき、しばらくそれを人に話すことができなかった。一ヶ月ほど、母にも和歌子にも隠し続けた。最終的に、鈴菜が直接母に連絡を取ったことにより、真実がばれた。
それだけではない。大人になってからは、一度も正直な気持ちを誰かに話したことなどない気がする。母や和歌子には犬が尻尾を丸めるように、自虐的に話し、男友達には、愚痴の形にして吐き出した。
そのどちらも、本当の自分の気持ちにはほど遠いことに、今になって気づく。
本当は、寂しくて心細かった。うまくいかなかった運命を恨み、なにをやっても鈴菜に許してもらえると甘く考えていた自分を責めた。
寂しい。そう考えたとたんに、涙があふれた。
ぼくは、よそよそしい匂いの布団に顔を埋めながら、しばらく泣いた。
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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