山の上の家事学校第10回
はじめての車でハンドルを握るのは少し緊張する。しかも、ぼくはもう自分の車を手放してしまい、たまに仕事で乗るだけだ。
とはいえ、家事学校のまわりは畑ばかりであまり車も走っていない。道は整備されているから、落ち着いて運転できる。
後部座席で、岡村先生は猿渡に説明をしていた。
「これからお二人には、手分けして今日の夕食の買い物をしてもらいます。なにを買えばいいかは、これから渡す買い物リストに書いてありますが、スーパーの商品は流動的だから、それがない場合もあるし、高い場合もある。その場合は自分で考えて代用になる品を選んでください。レジを通す前に、一度、見せてもらうけれど、それが正解かどうか判断するという話ではないので、安心して」
「つまり、好きなものを買ってもいいってことですか?」
猿渡の質問に先生は笑った。
「もちろん、後で問題が発生しそうな場合は、変更させてもらうけど、それはあくまでもこちらの事情ですからね。買い物には完全な正解や不正解もない。その場の状況に合っているか、合ってないか。慣れているか、慣れていないかというだけのことです」
「正解や不正解はない?」
「そう。まあ、あるとしたら、砂糖と塩を間違えたりすることだけど、それは単なる失敗です。たとえば、高くておいしい牛肉があるとして、それを買うのが正解の家庭もあるし、不正解の家庭もある。もちろん、その家ごとに違うだけではなく、その日が誰かの誕生日なら、見切り品の安い肉より、高級品を買う方が正解になる場合だってあります。いくら安くて質のいい魚が売っていても、調理に手がかかるのなら、くたくたに疲れているときに買うのは不正解です。安いからといって、家族が嫌いなものを買うのはいい結果にならない」
そのくらい当たり前だ。そう言うのは簡単なことだ。だが、こうやって言語化してみると、単なる買い物といっても、買い物リストを渡されてスーパーに行くのと、自分で主体的に選んで買い物するのとでは、全然違うことに気づく。
そこには大した差はないとどこかで思っていた。
到着したスーパーは、新しくて大きかった。駐車場も広いから、近隣の人々が車でまとめ買いをしにくるのだろう。
空いている駐車場の出入口に近い場所に車を停めた。キーを抜いて運転席から出ようとすると、二枚の紙を渡された。
「猿渡くんにはさっき渡したから、仲上さんもそれ読んで」
一枚目は料理のレシピ。今日の午後、作ることになっているものだ。鰺の南蛮漬け、コールスローサラダ、蕪とベーコンの煮物と、蕪の葉と薄揚げの味噌汁。
二枚目は買い物リストだ。鰺、玉葱、にんじん、ピーマン、蕪、薄揚げ。種類は少ないが、七人分とあるから、なかなかの量だ。
「調味料と、サラダの材料は猿渡くんに頼んであるし、ベーコンは塊のが冷蔵庫にあるから大丈夫。仲上さんはそれを買ってきてください」
子供じゃないのだから、このくらいできると思う一方、七人分の買い物などしたことがないことにも気づく。
とりあえず、やってみるしかない。
まず、メイン食材を手に入れたい。入り口近くにある野菜のコーナーは後回しにして、鮮魚コーナーに向かう。
日常的にスーパーは行くが、鮮魚コーナーを覗くことは少ない。たまに贅沢したい気分のとき、刺身パックを買うくらいで、調理が必要な魚のコーナーなど普段は素通りだ。
しばらくうろうろした後、鰺を見つける。小ぶりのが三尾入ったパックだ。七人前だと七尾必要なはずだが、三パック買うと九尾になってしまう。かといって、六尾なのも困る。
これが正解がないと言うことなのだろう。悩んだ結果、多い方がいいだろうと三パックをカゴに入れる。その後、野菜コーナーに戻った。玉葱、にんじん、ピーマンはすぐに見つかった。蕪を探して、うろうろした後、やっと見つけたが、葉はついていない。
たしか味噌汁に、蕪の葉を使うと書いてあったはずだ。だとすれば、味噌汁の具に使う野菜が他にいる。
ぼくは味噌汁の具なら豆腐とわかめが好きだが、自分だけで決めていいのかという不安もある。とりあえず、一度先生のところに戻ることにする。
岡村先生はサッカー台のところで待っていた。カゴを見せながら、説明する。
「蕪が、葉の付いてないものしかなくて。味噌汁どうしましょう」
「ああ、なんでもいいですよ。仲上さんはどうしたい?」
「豆腐とわかめとか......平凡ですか?」
「いや、平凡なのは問題ないですけど、昨日、豆腐とわかめだったから、別のものの方がいいですね。今日は青物が少ないから、小松菜と揚げとか、韮と落とし卵とか、どうだろう」
韮と卵の味噌汁など食べたことはないが、おいしそうだ。
「韮と卵いいですね。じゃあ、薄揚げはなしですか?」
「そうですね。代わりに卵を一パックかな。後は、レジを通っていいですよ」
そう言って渡されたのは、スーパーのカードだ。
「電子マネーがチャージされてるからそれで支払って。レシートを忘れずにもらってください」
特に注意されなかったということは、鰺は三パックで問題なかったらしい。
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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