北条氏康 関東争乱篇第四十六回

 武田信玄と共に倉賀野(くらがの)城を攻めた氏康だが、本来の目的はこの城を落とすことではなく、厩橋(まやばし)城にいる長尾景虎を誘い出し、決戦に臨むことであった。
 しかし、生野山(なまのやま)の合戦で北条軍に敗北を喫し、兵力に乏しい景虎は自重して城から出てこなかった。
 信玄と氏康は一年後の再会を約して兵を退いた。
 氏康が小田原に戻ったのは年末である。
 小田原城には、もうすぐ新年を迎えるというのんきな雰囲気はない。厳しい戦が続いているのだという張り詰めた緊張感が漂っている。
 景虎に奪われた領地をかなり取り戻したとはいえ、松山城を攻略できなかったせいで上野は手付かずのままだし、武蔵には岩付城、葛西城という長尾方の有力な拠点が残っている。
 絶え間なく戦乱が続いている上に、天候不順も重なって、どこの土地でも不作で、あちこちで飢饉が起こっている。それらの土地では、追い打ちをかけるように疫病も発生している。
 それでなくても農作物の収穫が少ないのに、その少ない収穫物を長尾方の軍勢が奪い去ったことが飢饉に拍車をかけたのである。
 被害状況に応じて氏康は年貢を免除し、国庫から備蓄米を放出した。
 小田原城で連日、重臣たちの評定が行われたのは戦の話し合いをするためばかりではなく、そういう内政面の問題を話し合うためでもあった。
 評定が終わると、氏康は居室に氏政を呼び、評定の内容について打ち合わせをする。その席には亡くなった小太郎の息子・康光を必ず同席させた。
 氏康の目から見ると、氏政は実に頼りない。
 今や北条氏の当主という立場なのに、明確な政治的信念を持っていないので、重臣たちの意見に右往左往し、結局、何も決められないことが目立つ。できるだけ自分は出しゃばらず、氏政に決断させようと考えているが、最後には氏政の方から意見を求めてくるから、仕方なく氏康が話し合いを主導するという格好になる。
(困ったものだ)
 あまりにも氏政が頼りないので、人知れず溜息をついたことは数え切れないほどである。
 とは言え、愚痴をこぼす相手はいない。迂闊なことを口にすれば内紛の種になりかねないからだ。何でも相談することのできた小太郎が亡くなってしまってから、悩みを自分の胸にしまっておくことしかできない。
 そんな頼りない息子だからこそ、自分が元気なうちにしっかり教育しておかなければならない、と考えている。
 評定の後、必ず氏政を呼ぶ。その場に康光を同席させるのは、氏政と共に康光も教育するつもりだからである。いずれ氏政が独り立ちするとき、すなわち、氏康が病や怪我で倒れたり、亡くなったりしたときには、康光が氏政を支えることになるからだ。
「ようやく年貢の話がまとまったな」
「はい。難儀でございました」
 氏康の言葉に氏政がうなずく。
 凶作だから年貢を免除するといっても、支配地のすべての年貢を免除したのでは北条氏も立ち行かなくなってしまうから、収穫物の出来具合や、戦の被害を受けた程度に応じて、どれくらい年貢を減らすか、その地域によって差をつける必要がある。
 自分の支配地の年貢をあまり減らされては困るという重臣たちの思惑も絡んで、各々が自分の不利にならないような主張をするので、なかなか話し合いがまとまらなかった。
 氏政はうまく調整できず、最後には氏康の鶴の一声で決着させた。
「父上のおかげで何とかまとまりました」
 ありがとうございまする、と氏政が恭(うやうや)しく頭を下げる。
「......」
 氏康は複雑な思いである。
(悪い人間ではない。素直すぎるのだ)
 隠居した先代が口を出して話し合いをまとめたことに腹を立て、出しゃばらないでほしい、と苦情を立てるくらいの気骨があれば、かえって氏康も喜んだであろう。
 だが、氏政は氏康を信頼し、すっかり寄りかかっている。
 父親という立場からすれば、そんなわが子がかわいいのは確かだが、北条氏の先代当主という立場からすれば、
(これで家を守っていけるのか?)
 という不安を感じてしまう。
(焦ってはならぬ。わし自身、父上には叱られてばかりだったではないか)
 氏綱からは叱責ばかりされて、誉められたことなどほとんどなかった、それでも何とか独り立ちできた、氏政もきっと独り立ちできるはずだ......そう氏康は自分を納得させる。
「年が明けたら、すぐに兵を出しまするか?」
 氏政が訊く。
「それがよかろう」
「まずは岩付城と葛西城ですな」
「うむ」
 氏康がうなずく。
 松山城を落として上野に雪崩れ込み、一気に上野の支配権を取り戻すという氏康の目論見は崩れた。
 松山城の守りが想像以上に堅かったからである。
 単独で攻めるのは難しいと考え、再び武田信玄が上野に侵攻するのを待って、共同で松山城を攻めようと考える。
 上野攻略を先延ばしにすることにしたので、その間に武蔵に残る長尾方の城を落とそうと考える。まだ多くの城が残っているが、岩付城と葛西城が最も重要な拠点である。このふたつの城を落とすことができれば、それ以外の多くの城や砦は芋蔓式に降伏するであろう。
 しかも、このふたつの城に守られる格好になっている古河(こが)城には、足利義氏に対抗して古河公方(くぼう)を称する藤氏がいる。山内(やまのうち)憲政と近衛前嗣(このえさきつぐ)もいる。
 岩付城、葛西城、古河城の三つを氏康が攻撃目標にするのは当然であろう。
「武田がやって来るまでに武蔵の戦を終わらせなければならぬ」
「はい」
 氏政がうなずく。
「その方(ほう)は、どう考える?」
 氏康が康光に問いかける。
「は」
 康光が絵図面に視線を落とす。
「最初に岩付城に向かうのがよかろうと存じます」
「最も手強い敵を最初に叩くのだな?」
 氏政がうなずく。
「いいえ、そうではありませぬ」
「ん?」
「一度くらい戦うのはよかろうと思いますが、それで決着を付けるのではなく、美濃守が岩付城から動けぬようにするのです」
 康光は、絵図面上で岩付城から葛西城に指を移動させる。
「本当の狙いは、こっちです......」
 岩付城を攻めると見せかけて太田資正を牽制し、資正が岩付城の守りを固めている隙に北条軍の主力は葛西城を攻める。葛西城を落としたら、次に古河城を攻める。本腰を入れて岩付城を攻めるのは、その後がよいのではないか、と康光は言う。
「どう思う?」
 氏康が氏政に訊く。
「悪い策ではないと思います」
 氏政がうなずく。
「わしも賛成だが、ひとつだけ変えよう。美濃守を攻めた後だが、わしは葛西城を、その方は古河城を攻めよ」
「二手に分かれるのですか?」
「そうだ。葛西城にも古河城にも名のある武将はおらぬ。葛西城攻めに時間をかけてしまうと、美濃守が岩付から出てくるかもしれぬ。それはまずいから、できるだけ素早く攻め落としたいのだ」
「なるほど、古河城には関白さまもおられます。城が危なくなれば、美濃守どころか長尾が出てくるかもしれませぬな」
 康光が言う。
「葛西城と古河城さえ奪ってしまえば、岩付城は孤立無援だ。松山城を落とせば、岩付城は放っておいても自落するであろうよ。わざわざ攻める必要もなくなる」
 氏康がうなずく。
 氏政はまだまだ頼りないが、康光はだいぶしっかりしてきたように思える。康光の策が自分の考えていた策とほとんど同じであることに氏康は満足する。
 年が明けて永禄五年(一五六二)正月、氏康と氏政は小田原から出陣し、当初の予定通り、岩付城を目指して進軍した。
 北条軍は周辺を荒らし回り、各地で放火を繰り返したが、資正は挑発に乗らず、城から出なかった。厩橋城に使者を送り、長尾景虎に援軍要請したものの、この頃、景虎は東上野から下野にかけて兵を動かしていた。一度は景虎に従ったものの、景虎が越後に帰るや、再び北条氏に寝返った豪族たちを討伐していたのである。彼らを放置して武蔵に向かえば背後を衝かれる怖れがあるから、景虎としては今一度、彼らを屈服させる必要があるのだ。資正の書状を受け取ったのは、ちょうど赤井氏の拠点・館林城を包囲しているときで、景虎としては動きようがなかった。
 独力で氏康と決戦するには兵力の隔たりが大きすぎるので、やむなく資正は籠城を続けた。
 これを見た氏康は岩付城を攻めず、直ちに葛西城に向かった。途中で二手に分かれ、氏政は古河城に向かった。二月の初めのことである。
 古河城は油断していた。
 北条軍が攻めてくるのは葛西城と岩付城が落ちてからのことであろうし、万が一、それ以前に攻められることがあっても、すぐさま景虎が助けに来てくれるだろうと楽観していた。
 だからこそ、足利藤氏、山内憲政、近衛前嗣という政治的に大きな価値のある三人が在城しているにもかかわらず、守備兵がさして多くなかったのだ。
 それほど堅固な城ではないし、先行きの見通しが甘かったから籠城準備もしていない。
 氏康と氏政が小田原から出陣したことは知らされていたものの、まさか古河城に攻め寄せるとは思っていなかった。実際、北条軍が最初に攻めたのは岩付城である。それが氏康の陽動作戦だとは想像すらできなかった。
 それ故、氏政の率いる三千の北条軍が古河城の近くに現れると、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
 誰よりも騒いだのは近衛前嗣である。
 元々が血を見ただけで顔色が変わるような軟弱な公家に過ぎない。邪魔者は景虎が討伐し、関東の武士は自分の権威に平伏すると期待していたのに、去年の春くらいから雲行きが怪しくなり、この半年ほどは味方が苦戦しているという話ばかり耳にするようになって不安を感じていたところだった。
「まろは、ここにいるのは嫌や。長尾のところに移ることにするわ」
 側近たちに荷物をまとめるように命じた。
「そうおっしゃらず、今しばらく様子を見るのがよろしいかと存じます」
 山内憲政が何とか思い留まらせようとする。
 この憲政とて、かなりの臆病者である。氏康を怖れ、嫡男・竜若丸を置き去りにして、身ひとつで越後に逃げたような根性なしなのである。
 その憲政ですら、あっさり古河城を放棄するのはまずい、ここで踏ん張らなければ古河城も葛西城も奪われてしまうし、それは武蔵の大半を失うことを意味するから、せめて半月くらい籠城して景虎の救援を待つべきだ、と考えた。
 だが、そんな理屈は前嗣には通用しない。
「嫌というたら嫌なんや。まろは戦なんぞ大嫌いなのや。長尾がいるところやないと安心でけん」
 何とか止めようとする憲政を振り切って、前嗣は古河城から逃げ出した。
 それを見て、今度は足利藤氏が動揺した。
 藤氏は、氏康の甥・義氏を蹴落とす格好で、景虎の武力を後ろ盾として古河公方に擁立された。自分が氏康に憎まれており、氏康にとっては邪魔な存在でしかないことを十分理解している。古河城が落ちて北条氏に捕らえられれば、真っ先に処刑されるであろう。
(こんなところにいたら命をなくしてしまう)
 城を完全に包囲されないうちにと、藤氏も近臣だけを引き連れて、ある夜、城から姿を消した。
 藤氏は景虎ではなく、以前から繋がりの深い安房の里見氏を頼って、房総に逃れた。
 哀れなのは憲政であった。
 前嗣は憲政の説得を拒んで逃げ出し、藤氏に至っては、憲政に挨拶もなしに城から落ちた。
 少しでも気骨があれば、
(わしが古河城を守ろう)
 と考えるのだろうが、生憎(あいにく)、憲政にそんな気骨はない。すっかり心細くなってしまい、
(みんなが逃げるのなら、わしも逃げよう)
 即座に決断した。
 この頃、憲政の軍配者・桃風(とうふう)は病の床に就いている。病室に出向くと、
「わしも長尾のところに移ることにした。その方、城に残って指揮を執れ。簡単に城を明け渡してはならぬぞ」
 そう言い放った。
「......」
 もはや起き上がる力も残っていないので、桃風は横になったまま、じっと憲政を見つめる。目脂(めやに)で黄色く濁ったふたつの目から涙が溢れる。
 指揮を執れと言われても、床から離れることもできないのでは指揮など執れるはずがない。
 前嗣と藤氏は武家ではないから、城から逃げ出しても誰も笑いはしない。
 しかし、憲政は武家である。前の山内上杉氏の当主であり、関東管領を務めたほどの男である。前嗣や藤氏のように尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかない。それ故、名代として桃風を残すことにした。かつて越後に逃げるときに竜若丸を厩橋城に置き捨てたのと同じ理屈である。自分が体裁を取り繕って逃げ出すための捨て石なのだ。
 憲政がどんなに無慈悲な人間か知りすぎるほど知っていたであろうが、いざ自分が捨てられる立場になってみると、桃風は言葉を発することもできず、じっと憲政の顔を見つめることしかできなかったのであろう。
 憲政が城を出て三日目、古河城は落ちた。
 すでに近衛前嗣、足利義氏、山内憲政の三人はいない。主のいなくなった城を命懸けで守ろうとする城兵などいるはずがない。北条軍に城を明け渡して命だけは助けてもらおうと考えた。
 開城の一日前に桃風は病没した。
 形だけのこととはいえ、城代という立場にあったものの、敗北の責任を負わされることはなかったわけである。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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