北条氏康 関東争乱篇第三十八回
二十六
九月十日寅刻(午前四時)、武田軍の本隊八千は海津城を出る。その二刻(四時間)前に、妻女山に向かう別働隊一万二千が出発している。
別働隊が長尾軍を攻撃するのは卯刻(午前六時)と決めてあるから、長尾軍が妻女山(さいじょさん)から下ってくるのは辰刻(午前八時)頃と信玄は予想し、それまでに八幡原に布陣するつもりでいる。
予想外だったのは、あたりに立ち籠める深い霧だ。
長尾軍が千曲川を渡るのは雨宮の渡しか、矢代の渡しのどちらかで、篠ノ井(しののい)付近に布陣して待ち伏せれば、長尾軍に不意打ちを食らわせることができると考えた。遅くても辰刻までに布陣を終えていたかったが、霧のせいで予定が狂った。急がなければ、辰刻まで篠ノ井に到着することは難しそうだ。
しかし、急ごうにもまったく視界が利かないので、ゆるゆると進むしかない。
どこかから馬のいななきが聞こえた。
「始まったのか?」
信玄がつぶやく。別働隊が攻撃を開始したと思ったのである。
「それにしては近いような......」
馬首を並べている四郎左が小首を傾げる。
「しかし、空耳とも思えぬ。一頭や二頭の馬のいななきではない。人の声も聞こえるぞ」
太陽が昇るに従って、少しずつ気温も上がり、八幡原を覆っていた乳白色の濃い霧が薄らいできた。
そのとき前方から、
「敵だ」
「敵がいるぞ」
という叫び声が聞こえてきた。
「敵だと? 何を勘違いしている。こんなところに敵などいるはずが......」
信玄が言葉を飲み込む。前方に真っ黒な塊が見えた。無数の軍兵が密集している。その中に「毘」や「龍」や「日の丸」という長尾の軍旗が翻っている。
「......」
信玄が言葉を失う。
(なぜ、長尾がここにいる? 妻女山にいるはずではないか。飯富(おぶ)や馬場と戦っているはずでは......)
そのとき、ハッと気が付く。妻女山の方からは何も聞こえてこない。とっくに戦いが始まっているはずなのに、妻女山は静まり返っている。
つまり、妻女山には別働隊が戦うべき相手がいないということだ。長尾軍は妻女山ではなく、ここ八幡原、信玄の目の前にいる。戦闘態勢を整えて、武田軍を待ち構えていたのだ。
(馬鹿な......)
待ち伏せするつもりが、逆に待ち伏せされていた。こんな馬鹿な話があるか、と信玄が唇を噛む。
「御屋形さま」
四郎左に袖を引かれて、信玄が我に返る。
「皆に下知を。敵が来ますぞ」
「よし、皆の者、広がれ。ここに陣を敷くぞ。急げ、急げ」
信玄が叫ぶ。事前に入念に打ち合わせをしてあるから、兵たちも無駄のない動きをする。十二段構えの鶴翼の陣形だ。鶴が翼を大きく広げたように横に大きく展開して敵を包み込もうとする戦法である。
信玄の本陣は、陣形の中央、最も奥まった場所に置かれる。本陣の左に信玄の弟・信廉(のぶかど)が、右に嫡男・義信が、後ろ備えは跡部勝資(あとべかつすけ)である。この三隊が信玄を守る役目を負う。
左陣に飯富源四郎、中陣に典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)と穴山信君(あなやまのぶただ)、右陣に内藤昌豊と両角(もろずみ)昌清が展開する。
信玄は、内心、
(まずいことになった)
と悔やんでいる。
鶴翼陣は、妻女山を下ってくる長尾軍を包囲殲滅するには適しているが、すでに戦闘態勢を整え、しかも、密集隊形を取っている敵と戦うにはまったく適していない。横に大きく広がっているため陣形に厚みがなく、敵に中央突破されやすいという弱点があるのだ。
にもかかわらず、鶴翼の布陣を命ずるしかなかった。この期に及んで他の陣形を組もうとすれば、兵たちが混乱するだけである。
(耐えるしかない......)
この布陣を崩さずに時間を稼ぐしかないと信玄は覚悟する。一刻(二時間)耐えることができれば、別働隊が八幡原に駆けつけるであろう。別働隊の到着が間に合うかどうか、勝敗の行方は、その一点にかかっていると言っていい。
「御屋形さま......」
四郎左が表情を歪ませて信玄を見る。長尾軍を挟み撃ちにすることを献策したのも、鶴翼の陣形を取ることを勧めたのも四郎左である。長尾軍に裏をかかれたことを誰よりも口惜しく思い、誰よりも責任の重さを痛感している。
「情けない顔をするな。この策に皆も賛成した。わしも、そうだ。おまえのせいではない。長尾景虎が一枚上手(うわて)だったというだけのことだ。まだ負けたわけではない。戦いは、これからだ。武田の強さを思い知らせてやろうではないか」
「今なら、まだ......」
「言うな」
信玄がぴしゃりと言う。
「それを言ってはならぬ。長尾景虎も、それを考えているに違いない。見よ、『毘』の旗はどこにある? 先鋒ではない。後ろの方に控えているだろう。いつも真っ先に敵陣に飛び込むような男が、なぜ、今日に限って、あんな後ろに控えていると思う? わしが少しでも退く素振りを見せたら追撃しようと待ち構えているのだ。自分の手でわしの首を挙げるためにな。だが、そうはならぬ。わしは本陣を動かぬ。わしのために必死で戦おうとしている家臣たちを見捨てるはずがないではないか」
「は」
四郎左ががくっとうなだれる。
(献じた策を敵に読まれ、それで弱気になって、御屋形さまに海津城に退くことを勧めようとした。何という間抜けだ。長尾軍は、わしらが現れるのを手ぐすね引いて待ち構えていた。御屋形さまが海津城に退却するかもしれぬと考えて、その手当てもしているに決まっているではないか。そもそも、突然、目の前に長尾の大軍が現れて、誰もが弱気になっているときに御屋形さまが退こうとすれば、総崩れになるに決まっている。そんなこともわからぬとは......。何を血迷っているのだ。おまえが為すべきことは、わが身を楯として御屋形さまをお守りすることであろうが。逃げることなど考えていては長尾にやられてしまうぞ。しっかりせぬか、山本勘助!)
二十七
長尾軍が妻女山を下り始めたのは前夜の亥刻(午後十時)過ぎである。それほど早く下山を始めたのは自分たちの動きを武田方に知られたくなかったからだ。
松明(たいまつ)を手にして下山すれば、すぐ武田方に気付かれるから、月明かりだけを頼りに、真っ暗な山の中を手探りするように下山せざるを得なかった。足を滑らせて谷底に転落しないように注意深くゆっくり下山する必要があったので時間がかかった。
雨宮の渡しで千曲川を渡ると、篠ノ井で隊列を整え、景虎は兵たちに腹拵えをさせた。八幡原に立ち籠める霧は、武田軍には不運だったが、長尾軍には僥倖だった。
「武田は一万には足りぬようだな。七千、いや、八千ほどはいるか。どう思う、冬之助?」
景虎が冬之助に訊く。
「わたしも、そう思います」
「ということは、一万以上の武田軍が妻女山の上で悔しがっていることになるな。愉快だぞ、実に愉快だ」
ふふふっ、と景虎が笑う。
「戦いを避け、こそこそ逃げ回った揚げ句に小細工を弄し、当てが外れて、わずか八千の兵と共に、信玄はわしの前にいる。さぞ、心細い思いをしていることであろうよ......」
景虎が右手を、さっと振ると、傍らにいた長尾兵が法螺貝を吹き始める。それを合図に、前方で鬨(とき)の声が上がる。長尾軍の先鋒が突撃を敢行したのだ。
先頭を行くのは柿崎景家の率いる二千である。それに北信濃の豪族たち、村上義清、高梨政頼らの軍勢が続く。
柿崎隊と最初に遭遇したのは典厩信繁の部隊だったが、たちまち柿崎隊に切り崩され、二町ほども後退する。
時間が経つにつれ、双方の疲労が激しくなってくる。そうなれば、兵力で優っている方が圧倒的に有利になる。新手の兵を次々に投入できるからだ。
景虎は、まず柿崎隊を中心とする五千で武田軍を攻め、柿崎隊の疲労の色が濃くなると、次に直江実綱の指揮する五千を投入し、柿崎隊を退かせた。景虎自身は手許に三千の兵を残し、信玄の本陣に突撃する機会を窺っている。
一方、後詰めのない武田軍は、ひたすら戦い続けるしかない。
柿崎隊に切り崩されながらも、何とか踏みとどまっているところに新手の直江隊が攻めかかってくる。ここで総崩れとなってもおかしくなかった。何とか持ちこたえることができたのは火力の差である。信玄の本隊には鉄砲足軽五百人が加わっている。長尾軍の十倍以上である。五百挺の鉄砲が長尾軍の波状攻撃をギリギリの瀬戸際で食い止めた。
しかし、それも時間の問題である。
卯刻(午前六時)過ぎに始まった戦いが巳刻(午前十時)に近付く頃には、武田軍の陣形はずたずたに分断され、信玄の本陣を守っているのは、わずかに飯富源四郎隊と穴山信君隊に過ぎない。あとは信玄の小姓たちである。その数は一千を超える程度で、しかも、立っているのもやっとという疲労した兵たちである。すでに典厩信繁、両角昌清、三枝守直、初鹿野(はじかの)源五郎という名のある武将たちが討ち死にしており、信玄の嫡男・義信も負傷して後方に下がっている。武田軍は満身創痍と言ってよかった。
「勘助」
信玄が傍らの四郎左に顔を向ける。
「いよいよ、わしらも刀を手にして戦うときがきたようだ。おまえ、刀を持てるだろうな?」
「年寄りと思って馬鹿になさいますか」
四郎左が肩を怒らせる。本気で怒っているわけではない。信玄が死を覚悟したことを察し、黙っていると涙が出てきそうだから虚勢を張ったのだ。
「来るぞ」
信玄の表情が引き締まる。
合戦が始まってから、長尾軍の後方で静かに翻っていた「毘」の旗が大きく揺れている。ついに長尾景虎が動いたのである。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。
〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
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