北条氏康 関東争乱篇第二十八回

 十四年前、山内上杉氏、扇谷上杉氏、古河公方の三者が手を結び、河越城を包囲した。関東管領・山内憲政と古河公方(こがくぼう)・足利晴氏の呼びかけに応じて、関東の豪族たちが競い合うように参集した。
 関東管領や古河公方には、それだけの権威があったのだ。
 今回は、それを上回っている。
 関東管領と現職の関白がいるのだ。関白の権威は、古河公方のそれをはるかに凌駕している。
 すなわち、長尾景虎には巨大な政治的権威という後ろ盾がある。
 しかも、景虎自身が軍事的な天才である。
 十四年前は、八万という途方もない軍勢が集まったものの、それを統御することのできる武将がおらず、いたずらに河越城の包囲を続けるだけで、北条氏を打ち負かす機会を失った。
 景虎であれば、そんな愚かな真似はしないはずであった。
 遠からず、景虎の軍勢は三万になるという。
 景虎が南下を始め、北条方の城を落としていけば、勝ち馬に乗ろうとして関東各地から続々と兵が集まるだろうから、十四年前と同じように八万、いや、もしかすると、もっと多くの軍勢に膨れ上がるかもしれない。
 長尾景虎は、いつも五千くらいの兵力で、無敵と怖れられる武田晴信と互角の戦いを繰り広げているのである。その景虎が八万を超える軍勢を指揮することになれば、この世で立ち向かえる者はいないであろう。景虎の振り上げた拳で北条氏は叩き潰されてしまうに違いない。戦の素人でも簡単にわかる道理である。
「御屋形さまは北条のやり方を憎んでおられ、北条に刃向かって打ち負かされた者が立ち直るのに力を貸そうと考えておられる。上野や武蔵から北条勢を追い払ったら、かつて、その地を領していた者に返して下さるはずだ」
「まさか、そのようなことを......」
「物欲というものがまったくない御方なのだ。ご自身を毘沙門天の使いだと信じておられる。毘沙門天に代わって、この世に正しき道を行うために戦うのだ、とな」
「で、では......」
「さよう。扇谷上杉氏の再興もかなうであろう」
「......」
 資正の顔が赤くなっている。興奮で血がたぎっているのだ。
「力を貸してくれぬか、源五郎殿?」
「そのために先生は、わざわざ、ここまで来て下さったのですか、わたしを誘うために?」
「使者に手紙を持たせてもよかったが、わし自身が、自分の口で源五郎殿に話さねばならぬと思ったのだ。今の源五郎殿の立場を知っておるからのう」
「お恥ずかしい限りですが、わたしは北条に膝を屈し、今では北条に仕えている身なのです。かれこれ十二年にもなります」
「それを責めるつもりはない。そうなるにあたっては、難しい事情があったのであろうと察する」
「かつて、わたしは主家が滅ぶのを目の当たりにしました。今度は主家を裏切らなければならぬのでしょうか」
 資正の表情が苦悶に歪む。
「勘違いしてはならぬ。わしと源五郎殿の主家は扇谷上杉以外にはない。扇谷上杉が滅んでしまったから、わしは長尾に、源五郎殿は北条に仕えている。だが、扇谷上杉が再興できるのであれば、そのために力を尽くすのは当たり前ではないか?」
「どうすればいいのか、すぐには返事ができませぬ。明日まで待っていただけないでしょうか?」
「構わぬよ。いくらでも考えるがいい。その上で、これからも北条に仕えたいというのであれば、わしは何も言うまい。わしを斬って、わしの首を小田原に送ればよい」
「まさか、そのような......」
「そういう覚悟でここに来たということだ」
「......」
 資正の顔からはだらだらと汗が流れ落ちている。
 無言で冬之助に一礼すると、資正が部屋から出て行く。
 後には冬之助一人が残される。ふーっと大きく息を吐くと、横になって天井を見上げる。長い話し合いをしたせいで、どっと疲れを感じる。
「源五郎殿は、どうするであろう......?」
 冬之助は資正がどういう人間かよく知っている。
 利で動く人間であれば、今の状況を見て、
(長尾に味方した方が得だ)
 と考えて、あっさり北条を見限るであろう。
 資正は、そういう人間ではない。
 己の信念に従って行動する男なのである。
 だからこそ、落日の扇谷上杉氏に最後まで忠義を尽くしたのだし、扇谷上杉氏が滅亡した後は、扇谷上杉氏に仕えていた者たちが新たな主人に仕えるようになっても、扇谷上杉氏を再興するために孤軍奮闘したのだ。
 その資正の心意気に感動し、冬之助は資正が松山城を奪い返すのを助けた。
 松山城を手に入れたのを足がかりに、資正は岩付城をも手に入れようとしたが、信頼していた者たちに裏切られ、氏康に屈した。
(そのとき、わしがそばにいれば......)
 そう考えると、冬之助は忸怩たる思いにとらわれる。
 憲政と桃風(とうふう)に信濃に追いやられ、武田軍に捕らえられたりしなければ、冬之助は軍配者として資正を支えることができたであろうし、冬之助がいれば、松山城と岩付城を易々と氏康に奪い返されることもなかったはずであった。
 不運だったと言うしかない。
 それから十二年が経ち、もはや扇谷上杉氏の再興を口にする者など、どこにもいない。それを本気で考えている者がいるとすれば、冬之助と資正の二人だけであろう。
 冬之助の目から見れば、資正というのは忠義を絵に描いたような男なのである。それほどの忠義者が北条氏に仕えたのだから、よほどの覚悟があったことは冬之助にも想像できる。
 自分が足を運んで説得すれば、資正も北条と手を切って味方になってくれるだろう......そう高を括っていたが、実際に資正と話してみて、それほど簡単ではなさそうだと冬之助にもわかった。
(さて、どうなるか......)
 これからも北条に忠義を貫くと決めれば、資正は冬之助を斬るかもしれない。氏康は大喜びするであろう。
(それなら、それでよいわ)
 本当なら、十三年前、武田軍に捕らえられたとき、磔にされて殺されていたはずなのである。
 ここで資正に斬られても何の不満もない。
 それが人生というものだろうと達観している。
 とうの昔に自分の命など捨てているのだ。
 ふと、
(あいつ、どうしているだろう)
 と思い出したのは、冬之助を救った四郎左のことである。
 武田の軍配者・山本勘助の名前は、今では世間に鳴り響いているが、もう六十一歳の高齢である。
 四つ年下の冬之助が老いを実感するくらいだから、四郎左も老けたに違いない。
(小太郎も、いい年齢だ)
 風摩(ふうま)小太郎は冬之助より二つ年下だから五十五歳である。
 三人が足利学校で共に学んだのは、もう四十年も昔のことになる。
「あの頃は、青渓(せいけい)は青臭い小僧だったな。鷗宿(おうじゅく)は臍曲がりで嫌な奴だった。それは今も変わらないだろうが」
 くくくっ、と冬之助の口から忍び笑いが洩れる。
 軍配者として腕を磨き、いつか戦場で相見えようと誓ったが、今のところ三人揃って同じ戦場に身を置いたことはない。
 冬之助が扇谷上杉の軍配者だったとき、北条氏とは何度か戦い、勝ったこともあれば負けたこともある。今のところ小太郎とは互角である。
 景虎に仕えるようになってから、武田氏とも何度か戦っているが、やはり、勝ったり負けたりの繰り返しだから、四郎左とも互角である。
 今回、冬之助は長尾の軍配者として関東に戻ってきた。今度こそ小太郎とは決着が付くかもしれない。
 北条氏を倒して越後に戻れば、次は信濃で武田氏との決戦に臨むことになるであろう。
(この二、三年のうちにケリをつけなければ、わしらの寿命が持たぬわ)
 とは言え、それも資正次第である。
 資正が北条氏に忠義を尽くすと決めれば、明日の朝には冬之助の命はないのだ。
(それもまた一興か......)
 まあ、なるようにしかならぬわ、と冬之助は目を瞑る。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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