北条氏康 関東争乱篇第四十三回
第三部 松山城攻防戦
一
三月下旬、長尾景虎は十万の大軍を率いて小田原城を攻めたものの、攻めあぐねて兵を退き、鎌倉で山内上杉の家督を継ぎ、関東管領に就任した。
六月下旬、景虎は越後に帰国し、八月には川中島に出陣、九月十日には武田軍と歴史に残る激戦を展開した。
その景虎の動きを氏康は注視している。
北条氏に刃向かった敵は十万とはいえ、真に恐るべき敵は景虎だけである。景虎がいなければ、氏康が警戒しなければならないような敵はいない。
いずれ景虎は越後に帰るとわかっていたから、そのときに備えて、氏康は着々と反撃の準備を進めた。
その反撃は、景虎が帰国した直後に始まった。
景虎のせいで国土は荒廃した。田畑は焼き払われ、多くの農民が連れ去られた。
しかし、小田原城を始め、江戸城や河越城など、北条氏の支配を支える有力な城は健在である。徹底した籠城策を選択し、景虎との決戦を回避したので、北条軍も無傷で残っている。
景虎も景虎に率いられた長尾軍も強い。
それは事実だが、北条軍も強いのだ。
だからこそ、扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏を駆逐し、古河公方(こがくぼう)を抑え込むことができた。領土は増え続け、その支配網は上野、下総、上総にまで及んでいる。
景虎が越後に去ってしまえば、関東には北条軍に対抗できる者はいない。
「北条に反逆した者たちを罰しなければならぬ。当家に弓引いた者たちに、しかも、一度は当家に忠誠を誓いながら裏切った者たちに厳しい罰を与えなければならぬ」
氏康が言うと、
「おっしゃる通りです。裏切り者には生きる道がないのだと思い知らせてやりましょう」
氏政が大きくうなずく。
氏康と氏政が裏切り者と罵り、厳しい罰を与えなければならぬと言うのは、三田氏、藤田氏、太田氏の三家である。
この三家を、氏康と氏政は最も憎んでいる。
三田氏は、古くから山内上杉氏の重臣を務めてきた家柄だったが、没落していく主家に見切りをつけて、北条氏に従うようになった。この当時の当主は三田綱秀である。
今の青梅市にあった勝沼城が本拠で、青梅、奥多摩、埼玉の飯能、狭山あたりを領地としている。北条氏の本領のすぐ外側である。本領と接する領地を支配させるというのは、それだけ信頼が厚いということで、万が一、本領に危険が迫れば、身を挺して本領を守るという重要な役目を担っている。城の守りでいえば、外堀のようなものだ。
にもかかわらず、三田綱秀はその役目を放棄し、掌を返して景虎陣営に馳せ参じた。
それだけに氏康の怒りは凄まじく、兵を率いて小田原城を出ると、道々、兵を増やしつつ、一直線に勝沼城に向かった。
時間があれば、綱秀も防戦の支度をして、二千くらいの兵を集めることができただろうが、氏康の進軍が早すぎて、その余裕がなかった。一千にも足らぬ兵で、十分な食糧を運び込むこともできぬまま籠城せざるを得なかった。
綱秀が期待したのは、景虎と共に小田原城を攻めた武蔵や上野の豪族たちである。彼らが援軍を送ってくれれば、北条軍の攻撃に耐えられると考えた。
が......。
どこからも援軍は来なかった。
誰もが日和見を決め込んでいる。
長尾景虎も強いが、氏康も強い。
これまで幾度となく氏康に苦杯を嘗めさせられ、だからこそ、景虎が関東にやって来るまで、おとなしく氏康に従ってきたのだ。
その氏康が大軍を率いて勝沼城を囲んでいる。
景虎がいれば話は別だが、景虎も長尾軍もいないのに援軍を送ろうとする者はいない。綱秀に対して、そんな義理はないのだ。
包囲が始まって十日も経たぬうちに、水と食糧が乏しくなり、綱秀は降伏の使者を氏康に送った。
景虎に味方したことを詫び、改めて北条氏に仕えたい、自らは隠居し、家督を息子に譲る、それ故、どうか城兵の命を助け、所領を安堵していただきたい......そんな虫のいい懇願であった。
氏康はこの懇願をはねつけ、綱秀と嫡男、それに綱秀の側近たちの首を差し出すように命じた。
綱秀は氏康の強硬姿勢に驚き、
「ふざけるな」
と、氏康の要求をはねつけた。
しかし、城内に不穏な空気が漂うのを感じ、夜になるのを待って、家族とわずかな近習だけを引き連れて城から落ちた。
翌日、勝沼城は開かれ、城兵は命を助けられたものの綱秀に対する氏康の怒りは収まらず、三田氏の領地を北条氏の本領に組み込んでしまった。
綱秀は各地を転々として北条氏に抵抗を続け、二年後に辛垣城が攻め落とされたときに死んだ。それによって三田氏は滅亡したが、実際には勝沼城が落ちたときに滅亡したも同然であった。
次いで、氏康は藤田氏の討伐に向かった。
武蔵北部を地盤とし、大きな勢力を持つ藤田氏を味方にするために氏康は五男・氏邦を養子に入れたほどである。氏邦の養父にあたる康邦は氏康のために大いに尽くしてくれた。
六年前に康邦が亡くなったとき、氏邦は八歳だったので、氏邦が元服するまで重臣たちの合議制で藤田氏の方針を決めることになった。
長尾景虎が侵攻してくると、重臣たちは北条氏を見限り、景虎に味方することを決めた。手土産に氏邦の首を景虎に差し出そうとした。
氏邦は近臣たちに守られて、危うく難を逃れた。
当然、氏康は激怒する。
勝沼城を落とすや、直ちに大軍を率いて藤田氏の本拠・花園に向かった。
藤田氏からは矢継ぎ早に使者が送られてきて、慈悲を賜りたいと氏康に嘆願する。
氏康は、それらの嘆願をことごとくはねつけて花園に入る。
すでに氏邦を裏切った重臣たちは逃げ去っていた。
氏康の怒りの凄まじさは、重臣たちの領地を虱潰しに攻撃し、本人と家族を捕らえるまで追及の手を緩めなかったことである。捕らえられた者たちは、ことごとく斬られた。彼らを匿ったり、逃亡に手を貸した者も同罪に処すという布告が出たせいで、ひと月も経たないうちに、すべての者たちが捕らえられ、斬られた。
この苛酷な処置のおかげで、北条に敵対する勢力が藤田氏から一掃された。
氏邦は当主として藤田氏に戻った。
氏康と氏政が厳しく処罰すると誓った三家のうち三田氏と藤田氏は片が付いた。
残るのはひとつ、太田家である。
太田家の当主・資正(すけまさ)を氏康は決して許さないつもりである。
二
太田資正の本拠は岩付城である。
景虎が攻め落とした松山城も預かり、岩付城と松山城のふたつを拠点としてはいるものの、普段、資正がいるのは岩付城なのだから、資正を打倒するのなら、氏康が向かうのは岩付城であるべきであろう。
しかし、実際に氏康が向かったのは松山城である。
資正に対する怒りだけで行動するのであれば、氏康は岩付城を攻めたであろう。
松山城に矛を向けたのは戦略的な意味合いからである。
三田氏と藤田氏に対する氏康の苛酷な仕置きを目の当たりにして、武蔵の豪族たちは雪崩を打ったように氏康に平伏し、景虎に味方したことを詫びた。見せしめの効果が利いたのである。一度は裏切ったという負い目があるから、彼らはそれまで以上に北条氏に忠勤を励まざるを得なくなった。
依然として強硬に北条氏に敵対するのは岩付の太田氏くらいになってしまったので、一時は景虎に制圧された観のあった武蔵の支配権を、氏康は取り戻すことに成功した。
氏康とすれば、武蔵の次は上野を取り戻さなければならない。岩付城を落として鬱憤晴らしするより、上野一国を奪い返す方が、はるかに重要なのだ。
景虎がいなくても氏康に刃向かおうとするほど気骨のある上野の豪族といえば長野業正(なりまさ)くらいだが、その業正は齢七十を過ぎて死の床についており、もはや戦に出られる状態ではない。
業正以外には、独力では何もできない者ばかりだから、氏康が大軍を率いて乗り込めば、武蔵の豪族たちと同じように上野の豪族たちも氏康に膝を屈するであろう。
それ故、氏康は藤田氏の反北条勢力を一掃すると、直ちに北上を開始した。
そこに立ちはだかるのが松山城なのである。武蔵から上野に入る要所に位置しており、これを放置して上野に入ろうとすれば、背後を衝かれる怖れがある。それ故、まずは松山城を落とさなければならない。
松山城は天然の要害で、その堅固さが有名だが、氏康は、松山城を落とすことをそれほど難しいとは考えていなかった。いかに城が堅固だとしても、肝心なのは、城を守る者の器量である。資正がいるのなら話は別だが、資正は岩付城におり、松山城にはこれといって名のある武将はいない。氏康が大軍で包囲すれば、震え上がって開城するのではないか、と予想した。
しかし、氏康の見通しは甘すぎた。
永禄四年(一五六一)十月に始まった松山城攻防戦は、氏康が攻めあぐね、三度にわたって包囲攻撃を繰り返したものの、結局、決着が付くのは一年半ほども先の永禄六年の二月になる。
戦略的に重要な場所にあるとはいえ、松山城攻防戦は局地戦に過ぎない。
にもかかわらず、日本の戦史史上、この攻防戦は決して省くことのできない特異な戦いである。
それまでに行われた城攻めの攻防戦とはまるで違った画期的な側面がいくつも現れたからである。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。
〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
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