北条氏康 関東争乱篇第二十四回

 景虎は三国峠を越えて上野に入った。
 最初に長尾軍の前に立ちはだかるのは沼田城である。
 沼田城を落としてしまえば、厩橋(まやばし)城まで長尾軍の進軍を妨げるような大きな城はない。厩橋城の西にある箕輪城の長野業正(なりまさ)は景虎に合力したいと申し出ているから、厩橋城を攻めるときには業正も兵を率いて駆けつけるはずであった。
 沼田城の守将は沼田康元である。康元は北条綱成の次男で、まだ二十歳を過ぎたばかりの若武者だが、父親譲りの猛将だ。
 春先から、
「越中を攻めた後には上野に行く」
 と、景虎は公言していたから、上野にある北条方の城は守りを固め、長尾軍の来襲に備えていた。
 とは言え、それほど大きな戦力で守っているわけではない。彼らの役目は、氏康や氏政がやって来るまで長尾軍を食い止めることだから、最前線に位置する沼田城にしても、城兵は一千にも足りないくらいだった。
「なあに、貝のように蓋をして、城に閉じ籠もっていればいいのだ。そうすれば、ひと月やふた月くらいなら持ちこたえることができる。わしらが長く持ちこたえることができれば、小田原の御屋形さまは余裕を持って兵を集めることができる。御屋形さまがやって来る頃には長尾の兵は疲れ切っているだろうから、わしらの勝利は疑いなし」
 沼田康元は先行きを楽観していた。こういう性格も父親譲りであったろう。
 康元は、長尾軍は沼田城を攻める前に、まず兵力を分散して沼田城周辺の小城や砦を攻め、それらを落としてから沼田城に攻め寄せるだろうという見通しを立てた。どんな小さな城でも、攻め落とすには三日くらいはかかる。そんなことを繰り返していれば、すぐにひと月くらい経ってしまう......それが康元の読みだったから、沼田城はひと月やふた月は楽に持ちこたえることができると考えたのである。
 が......。
 そうはいかなかった。
 景虎は兵力の分散などしなかった。小城や砦などには目もくれず、真っ直ぐ沼田城に向かい、八千の兵で城を囲んだ。
 沼田城は周辺にある小城よりは大きいが、河越城ほどに大きくはないし、いかに守りを固めたといっても松山城ほど堅固でもない。城の周囲に空堀を巡らせ、木柵で城を囲っているという程度の守りなのである。
 それでも二千くらいの敵が押し寄せてくるのであれば、
(いかようにでもやりようはある)
 と、沼田康元は様々な策を練っていた。
 しかし、敵は八千である。
 見渡す限り、城の周囲に敵が満ちている。あたかも敵の中に城が浮かんでいるかのようであった。
 景虎は兵を小出しにして城を攻めるようなやり方をせず、城の四方からいきなり総攻撃を仕掛けた。
 一千にも足りぬ兵がすべての敵に対処できるはずがない。
 何とか、日が暮れるまで持ちこたえたのは康元の力量であったと言っていい。
 持ちこたえはしたものの、兵たちは疲労困憊し、木柵は今にも倒されそうな有様で、もう一度、同じような攻撃をされたらひとたまりもないのは明らかであった。
 夜が明けると、長尾方から使者が来た。
 使者の口上は、
「城を明け渡して立ち退くのであれば、城兵の命は助ける。しかし、あくまでも戦うというのであれば、城兵を皆殺しにする」
 というものであった。
「......」
 康元は腕組みし、目を瞑って考える。
 やがて、目を開けると、
「承知した。城をお渡しする。城内は散らかっているので、皆で急いで掃除をし、きれいにしてから出て行く」
 と使者に告げた。
 昼近く、城の正門を開け、騎馬の康元が先頭になって城兵が城から出てくる。
 康元は馬を止めると、
「沼田康元、長尾弾正少弼(だんじょうしょうひつ)殿に降伏し、この城を明け渡す。どうかお受け取り下され。但し、降伏するのは、自分であって小田原におられる御屋形さまではない」
 と大きな声で言う。
 すると、長尾兵の中から騎馬武者が出てきて、
「よう申した。潔い武者ぶりを誉めてやろう。昨日の戦はなかなか見事であったぞ」
 景虎である。背後に控える兵が大きな「毘」の旗を携えている。
「ありがたきお言葉でござる」
 康元は景虎に一礼すると、少しも慌てる様子がなく、城兵を率いてゆっくりと城から遠ざかっていく。
(大したものだ)
 離れたところから見守っている冬之助が感嘆する。
 沼田康元もよほど肝が据わっているし、景虎も度量が大きい......そのことに感動すら覚える。
 城を渡せば城兵の命を助けるなどというのは、ただの口約束に過ぎない。そんな口約束を真に受けて、城から出たところを襲われれば、それこそ皆殺しの憂き目に遭いかねないのである。
 にもかかわらず、康元は景虎の約束を信じ、平然と城から出てきた。よほどの度胸がなければできることではない。
 一方の景虎にしても、わざわざ城兵を助命する必要などなかった。
 昨日の戦いで、すでに城方の敗北は明らかで、もう一度、猛攻を仕掛ければ城は簡単に落ちたであろう。城を落として城兵を処刑するか、捕虜にすれば北条方に大きな打撃を与えることができたであろう。たとえ城を奪っても、城兵を助ければ、彼らはまた長尾に刃向かってくるに違いないのだ。
 だが、景虎は、敵に生き延びる機会を与えた。
 ある意味、自分の言葉を信じるかどうか試したと言っていい。
 康元は信じた。
 だから、康元も城兵も助かった。
 もし景虎の言葉を疑ったら、皆殺しにされていたであろう。命を賭けた、ぎりぎりの駆け引きだったわけである。
(さすが地黄八幡の倅だ)
 冬之助は康元に感心し、景虎の度量の大きさにも改めて驚かされた。

 北条氏にとって、沼田城は越後と上野の国境に位置する守りの要と言っていい城である。
 その城があっさり落とされた衝撃は大きく、その周辺にいる豪族たちを動揺させた。
 その影響は、すぐにはっきりした形で表れた。
 沼田城の南にある白井城の長尾憲景、白井(しろい)城の南にあって、厩橋城と指呼の間にある惣社城の長尾景総(かげふさ)が景虎の元に出向いて、降伏を申し出た。
「どうか承知してもらいたい」
 降伏を仲介したのは、憲政である。
 元々、長尾憲景も長尾景総も憲政の家臣だった。憲政が越後に亡命してから、北条氏に仕えるようになったという経緯がある。
「そうおっしゃるのであれば降伏を受け入れましょう」
 景虎はうなずいた。
 そのやり取りを傍らで見ていた冬之助は、
(甘いことをなさる)
 と渋い顔である。
 冬之助も政治は苦手だが、こう簡単に二人の降伏を承知すれば、この二人は景虎ではなく、憲政に感謝するであろうし、憲政が景虎に大きな影響力を持っていると思いかねない。
 もちろん、憲政も、それが狙いで仲介にしゃしゃり出たのだ。越後に亡命し、ほとんど政治生命を絶たれていた憲政は、景虎の武力を背景に、再び息を吹き返そうとしているわけであった。
 実際、景虎の脅威にさらされている上野の豪族たちにしても、景虎のことを何も知らないから、どう接していいかわからない。
 その点、憲政は旧主である。景虎よりも、よほど馴染み深いし、対応しやすい。
 憲景と景総が何の咎めも受けず、ごくあっさりと所領も安堵されたのを見て、厩橋城から沼田城の間にある小城や砦の豪族たちは雪崩を打ったように景虎の元に参陣した。
 箕輪城の長野業正が、最初、
「厩橋城を攻めるときには合力致します」
 と申し出たのは、内心では景虎の実力を信じ切っていなかったせいである。
 景虎が沼田城攻めで足止めされて時間を食えば、その間に氏康が大軍を率いて駆けつけ、越後勢を上野から駆逐するかもしれないという懸念を抱いていた。迂闊に景虎に与(くみ)すれば、景虎を追い払った後、氏康に箕輪城を攻められるかもしれなかった。
 それを警戒して、厩橋城を攻めるときには、という言い方をしたわけである。
 しかし、今や景虎の実力は明らかである。
 厩橋城の北は景虎の勢力圏となった。
 これを見て、
(あまり悠長なこともしておられぬわ)
 大慌てで長野業正も景虎の元に馳せ参じた。
 このとき業正は七十という高齢であった。長男の吉業(よしなり)が河越の戦いで戦死したため、三男の業盛(なりもり)が嫡男の地位にあり、すでに日常の政務は業盛が取るようになっていた。
 しかし、業盛はまだ十七歳の若さで、外交には不慣れだったから、景虎や憲政との対応を任せるのは不安だったらしく、業正自身が駆けつけたのである。
「よう来てくれたのう、信濃」
 憲政が機嫌良く声をかける。
 業正は景虎に会いにきたわけだが、上野の豪族たちが景虎に謁見するときは、常に憲政が同席した。
 しかも、憲政が景虎よりも上座なのである。
 山内上杉氏の家督を継ぐにあたり、形だけのこととはいえ、景虎は憲政の養子になるという体裁を取った。
 律儀な景虎は、どんなときでも憲政を義父として敬う姿勢を崩さないから、景虎に対して頭を下げる者は、必然的に憲政にも頭を下げることになる。
 長野氏は、代々、山内上杉氏に仕える名門だが、剛毅な業正は、相手が主だからといって言いなりになることはなく、政治や軍事を家臣任せにして遊興に耽ってばかりいる憲政にたびたび諌言(かんげん)している。憲政もそんな業正を煙たがったから、憲政が上野にいる間、二人の間は冷え冷えとしていた。
 業正にとって、憲政に頭を下げるなど、さぞ不愉快なことであったろうが、景虎に従う以上、憲政を蔑ろにはできなかったから、
「御屋形さまもご無事で何よりでございました」
 渋い顔で憲政に挨拶した。
 景虎は満足そうにうなずいている。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー