北条氏康 関東争乱篇第四十二回

三十五

 甲府で四郎左の家族に会った後、冬之助は小田原に向かった。北条氏の軍配者・風摩(ふうま)小太郎に会うためだ。
「驚きました。まさか養玉(ようぎょく)さんが訪ねて来て下さるとは......」
 小太郎が体を起こそうとするのを、
「そのままでいい。寝ていろ」
 と、冬之助が手で制する。
 小太郎は重い病で床に臥せている。頬が痩け、顔も血の気がなくて真っ青である。
 その顔を見ただけで、
(ああ、こいつも死にかけている)
 冬之助は暗澹とした気持ちになる。
 もっとも、そんな感情を顔に出すほど素直な男ではないから、何も気付かないような平気な顔をしている。
「わしが誰なのかを知れば、驚くのは、おまえだけではないだろうな」
 冬之助がにやりと笑う。
 長尾景虎の率いる十万の軍勢が小田原城を攻撃したのは、わずか半年前である。
 北条氏は滅亡の瀬戸際に追い込まれた。
 その不倶戴天の敵・長尾景虎の軍配者が小田原に現れたことが知れれば、大騒ぎになるであろう。
 小太郎の屋敷を訪ねてきた冬之助は、頭を丸め、道中の汚れで白っぽくなった黒染めの衣をまとっている。供も連れていないから、貧しげな旅の僧にしか見えず、おかげで正体はばれていない。
「捕らえられれば、磔(はりつけ)にされてしまうかな」
「それは養玉さんが何のために小田原にやって来たかによるでしょう。長尾殿の正式な使者として来られたのであれば、こちらとしても丁重に遇することになります」
「そんなはずがあるか。この姿を見ろ。坊主に化けているわけではないぞ。これが今のわしの本当の姿なのだ」
「それは、どういう......?」
「長尾を暇(いとま)乞いしてきた」
「え。他家に移るのですか?」
「ふふふっ、みんなが同じことを訊く。軍配者とは、そういうものだと思われているのだろうな」
「違うのですか?」
「軍配者も辞めた。もう隠居さ。戦に出る気がなくなった。家族もいないし、これまで、さんざん悪事を重ねて、多くの命も奪ったし、仏法で禁じられていることを数え切れないくらいしてきたから、せめて寿命が尽きるまでは読経三昧に耽って、背負っている罪業をひとつでも減らそうか......そんな殊勝なことも考えたが、どうにも経文が好きになれぬ。あんなものの、どこがありがたいのか、さっぱりわからんよ」
「罰当たりなことをおっしゃいますね。昔のままなんですね、養玉さんは」
 小太郎がおかしそうに笑う。
「おれを養玉と呼んでくれるのは、今では、この世におまえ一人だよ、青渓(せいけい)」
「わたし一人? でも、武田には鷗宿(おうじゅく)さんが......」
 小太郎がハッとする。
 何のために冬之助がわざわざ小田原まで訪ねてきたのか、その理由を察したのである。
「死んだのですか、鷗宿さんが?」
「まだ聞いていなかったのか?」
「詳しい話は何も......。そういうことは、もう少し時間が経たないと本当のことはわからないものです。川中島の合戦で武田が勝ったのか長尾が勝ったのか、それもよくわからないくらいですから」
「最初は長尾が勝って、武田が負けた。その次は武田が勝って、長尾が負けた。ふうむ、どっちが勝ったことになるのかな。わしにも、よくわからぬ。ただ、八幡原に無数の死体が転がっていたことは確かだ。あんなに多くの人間が一度に死ぬのを見たことがない......」
 冬之助は、川中島で行われた武田と長尾の戦いの顛末を、ゆっくり小太郎に語る。
 小太郎は、じっと耳を傾ける。
 話を終えると、冬之助は、
「おまえ、かなり具合が悪そうだな。もうやめておくか。何なら、明日、出直してもいいのだし」
「いいえ、大丈夫です。いや、それは違うな。全然、大丈夫ではないんです。はっきり言えば、今夜、あの世に旅立ったとしても不思議ではないくらいです。よくなることはありません。静かに死の訪れを待っているだけですから、明日のことなど考えられません。ここにいて下さい。お願いします」
「おまえがそう言うのなら、わしは構わないが......」
 冬之助がうなずく。
「甲府に鷗宿さんの首を返すことを快く承知した長尾殿は立派な御方ですね。養玉さんを丁重に迎えた武田殿も立派です」
「越後にいるときは、武田殿を欲深き極悪人とばかり思っていたが、実際に話してみると、実にしっかりした御方だった。考えて見れば、鷗宿が命懸けで尽くすくらいなのだから、そんな極悪人のはずがないさ......」
 冬之助は信玄とどんな話をしたのか小太郎に聞かせる。
「鷗宿は幸せ者だよ。武田殿は尽くしがいのある主だったろう。話をしたのは短い時間だったが、よほど鷗宿を信頼し、大切にしていたことがひしひしと伝わってきた。軍配者として悔いのない人生だったろうよ」
「鷗宿さんのご家族には会ったのですか?」
「うむ、会った。そのつもりはなかったが、武田殿に頼まれたのでな......」
 冬之助は四郎左の妻子や岳父・原虎胤(とらたね)に会ったときの話をする。
「あんな不細工な臍曲がりにあんないい家族がいたとは驚きだよ」
「臍曲がりでは養玉さんも負けていないでしょう」
「違いない」
 二人は声を合わせて笑う。
「しかし、鷗宿さんが、この世にいないとは......」
 小太郎が溜息をつく。
「四十二年になるな。覚えているか?」
「はい。三人で誓いましたね。いつか三つ巴の大きな戦をしよう。勝ち残った者が孔明と肩を並べるほどの名人で、この国で一番の軍配者なのだ、と」
「あのとき、わしは十六歳だった」
「わたしが十四歳、鷗宿さんは二十歳でしたね」
「信じられないほど長い道程を歩いてきたんだな、わしらは......」
「そうですね。養玉さん、これから、どうなさるんですか? どこかの寺で仏道修行に励むのですか」
「それはやめた。経文が大嫌いなのに坊主にはなれぬ。足利学校に行くつもりだ」
「え、足利学校にですか?」
「わしのような学問嫌いを教授に迎えてくれるはずもなかろうが、何でもやると言えば、無下に追い払われることもなかろうよ。畑仕事でもさせてもらうさ」
「そうですか、足利学校に......」
 小太郎が小さな溜息をつく。
「いいなあ、できれば一緒に行きたいくらいです。足利学校で学んだ数年間、わたしは幸せでした。あんなに楽しかったことはありません」
「おまえは学問ばかりしていたなあ。まったく何が楽しかったのかね」
「倅の新之助は軍配者には向いていないので、足利学校には行かせませんでしたが、孫の小次郎は、わたしに似ている気がするのです。小次郎が大きくなったら足利学校に行かせるように新之助に言っておきます。養玉さんに教えてもらえるように」
「鷗宿の倅、太郎丸も軍配者になりたいそうだ。まだ七つだがしっかりした子で、よほど鷗宿を尊敬しているらしい。何となく見込みがありそうな気がする。弟の次郎丸は生まれたばかりの赤ん坊だからどうなるかわからぬが、太郎丸は本当に足利学校に来るかもしれぬな」
「小次郎や太郎丸殿が足利学校に行くことになれば、何だか面白いことになりそうじゃないですか。その子たちが一人前の軍配者になるまで、養玉さんには長生きしてもらわないと」
「せいぜい養生することにしよう」
 冬之助がうなずく。
「最後に養玉さんに会えてよかった。小田原まで来て下さって本当にありがとうございます。もう思い残すことはありません。向こうでは四郎左さんが待っていてくれるでしょうし」
「......」
 冬之助が左を向く。目に光る涙を見られたくなかったのだ。

 翌朝、冬之助は小田原を発った。下野の足利学校に行くつもりである。北条氏の通行手形を小太郎が用意してくれたので、安全で快適な旅をすることができる。
 武蔵の権現山城で休んでいるとき、小田原から使者がやって来て、小太郎の死を告げた。享年五十六。
 冬之助は城を出ると、海の方に歩いて行く。
「鷗宿も青渓も逝ってしまったな。また生き残ってしまった。扇谷上杉氏が滅んだときに死に損ね、小田井原の合戦で武田に敗れて捕らえられ、磔にされて殺されるところを鷗宿に救われた。あれほど多くの者が死んだ川中島でも死に損なった。よほど前世の業が深いのか、それとも、この世で不埒なことばかりしてきたせいなのか、わしのような悪人はなかなか死ねないものらしい。いつまで生きなければならぬか知らぬが、寿命が尽きるまで、足利学校で青臭い小僧たちの相手をするか......。おまえたちに会うのは、しばらく先延ばしにする。それまでは、くそ真面目な青渓と、ひねくれ者の鷗宿で、足利学校で学んだことのおさらいでもしているがいい」
 波打ち際で潮風になぶられながら、老いた軍配者は、先に逝ってしまった二人の友に話しかける。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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