北条氏康 関東争乱篇第十四回

第二部 川中島


 武田晴信が信濃における勢力圏を着々と広げても、氏康が里見氏を討伐するために久留里(くるり)城を包囲しても、越後の長尾景虎は、まったく動く気配がなかった。
 氏康には、その理由がわからなかったが、晴信にはわかっていた。
 だからこそ、去年の九月、景虎に奪われた北信濃にまで悠然と兵を出したのである。
(今の長尾は信濃に兵を出すことなどできぬのだ)
 晴信は笑いが止まらない。
 なぜなら、景虎が身動きが取れない状況を作ったのは晴信自身なのである。
 その理由とは何か?
 越後中部・刈羽郡佐橋庄を領する北条(きたじょう)高広が謀反し、景虎は、その対応に苦慮していたのである。北条高広に働きかけ、謀反に踏み切らせたのが晴信なのだ。
 ちなみに、この北条家は、小田原の北条(ほうじょう)氏とは何の関係もない。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝の側近である大江広元の孫・毛利経光が地頭として越後に赴任し、そのまま土着して北条を称したのが始まりだというから、長い歴史を持つ由緒ある名家なのだ。
 同族である安田氏と共に長尾氏に忠勤を励み、為景・晴景・景虎という代々の当主に尽くし、長尾氏による越後支配を実現させた陰の功労者といっていい存在だ。
 だからこそ、北条高広の謀反は、景虎にとって寝耳に水、驚天動地の衝撃であった。
「わしは信じぬぞ」
 景虎は使者を送り、春日山城に伺候することを北条高広に命じた。責めるつもりはなく、直に顔を見たら、すべて不問にするつもりだった。
 しかし、使者は戻らず、北条高広からは何の返事もない。
「何かの間違いであろう。よく調べよ」
 景虎は、事を荒立てることなく、あくまでも穏便に解決しようとした。
 ところが、十二月五日、北条高広が兵を挙げ、越後の豪族たちに檄を飛ばした。長尾氏を糾弾する内容であった。
 もはや、景虎も庇いようがない。
 翌日、春日山城で重臣会議が開かれた。
 直江実綱、本庄実乃(さねより)、大熊朝秀(ともひで)といういつもの三人だけでなく、柿崎景家、色部勝長、斎藤朝信(とものぶ)、安田長秀らも集まった。それほど重大な話し合いだということであった。冬之助も下座に控えている。
 直江実綱と本庄実乃は、できれば、事を丸く収める方策を見付けたいという穏健派であり、激情家の柿崎景家は、すぐにでも佐橋庄に兵を差し向けて北条高広を討つべしと主張する強硬派である。
 大熊朝秀は苦い顔で黙りこくっているし、それ以外の者たちも、どうしたらいいかわからないという顔で途方に暮れている。
 穏健派と強硬派の主張が平行線を辿って結論が出ないので、最後には景虎の決断を仰ぐことになる。
「北条の呼びかけに応じた者はいるのか?」
 景虎が訊く。
「今のところ、そのような不届き者はおらぬようですが......」
 本庄実乃が首を振る。
「ならば、そのうちに北条も目が覚めるであろう。長秀」
「は」
 安田長秀が畏まる。
「汝と北条は同族だ。言葉を尽くして、過ちを諭してやるがよい。心を改めて、わしのもとに顔を出せば、この罪を咎めるつもりはない。そう伝えよ」
「御屋形さま、何を申されるのですか!」
 柿崎景家が叫ぶ。
「わしは北条を、わが一族同様に思っている。そのような者たちに刃を向ける気にならぬ」
 そう言い残して、景虎は席を立ち、広間から出て行く。
 景虎がいなくなると、重臣たちは、それぞれの考えを口にする。安田長秀の説得工作がうまくいくとは、誰も考えていない。
(なるほど、面白いものだ......)
 冬之助が面白いと思うのは、なぜ、北条高広が謀反したのか、その理由を誰も口にしないことだ。
 その理由が重臣たちにわからないわけではなく、むしろ、わかりすぎるほどにわかっており、皆の胸にも大なり小なり北条高広と同じような蟠(わだかま)りが澱んでいるからこそ、それを口にできないのだろうと冬之助は察した。
 その理由とは、兵役と年貢の重さである。
 景虎が越後統一を完成させたのは、三年前の天文二十年(一五五一)の八月、同族の長尾政景を降伏させたときだが、そこに至るまでの十年以上、越後は内乱状態だった。その長い戦いで、国土は荒廃し、豪族たちは疲弊した。
 本来であれば、統一した後は戦を控え、民政に力を注ぎ、国力の回復に努めるべきであったろう。
 しかし、景虎は真逆のことをした。
 上洛を計画し、その費用を捻出するために年貢を重くした。
 更に高梨政頼と村上義清の請いを入れて北信濃に出兵した。短期決戦で武田軍を撃破し、川中島周辺の城や砦を取り戻した。
 そこまではよかった。国外に兵を出して勝てば、その戦利品で兵が潤うからであった。
 それが、この時代の常識だ。
 ところが、景虎は何の見返りも求めなかった。武田と戦ったのは正義のためであり、欲のためではない。これは義の戦だから何も求めぬ......それが景虎の理屈であった。
 景虎に従って戦った者たちからすれば、
(冗談ではない)
 と、はらわたが煮えくり返る思いであったろう。
 食糧も武器も自弁で、わざわざ越後から遠征して武田軍と命懸けで戦ったにもかかわらず、手ぶらで帰らなければならぬとは、どういうことなのか......そんな不満が軍中に燻(くすぶ)った。
 北信濃から帰国すると、その直後、景虎は上洛した。将軍・義輝から、上野を取り戻せば、関東管領職と山内上杉の家督を継ぐことを許すと約束され、感激に震えた。大喜びで越後に戻ると、
「年が明けたら上野に兵を出すぞ」
 と誇らしげに宣言した。
 それに待ったをかけたのが、長尾家の財政を預かる大熊朝秀である。金がない、という。
 金がないのなら百姓から取り立てればよい、というのが景虎の考えで、すぐさま増税を命じた。
 豪族は悲鳴を上げ、百姓は年貢の重さに耐えられず、逃散する者が続出した。
 直江実綱は、
「このようなやり方を続ければ、百姓どもが飢えてしまいます。上野に出陣することも大事でしょうが、民を愛することも領主としての大切な務めでございまするぞ」
 と何度となく諫言した。
 しかし、景虎の心には、まったく響かなかった。
 軍事には異様に強いが、政治や経済に関しては無知で、景虎の頭には民政という観念がない。
 もっとも、その点に関しては、この時代のどの大名も似たようなもので、民をいたわることが結果的に国力を増すことに繋がるという近代経済学の初歩を実践していたのは、北条氏と武田氏くらいのものであった。
 それにしても景虎の無知と無関心は並外れており、実綱の言葉を耳にしても、
「飢えて死ぬ者が多いのであれば、よその国から奪ってこなければならぬな」
 と、つぶやいただけである。
(もう限界だ。あの男にはついていけぬ)
 たまたま誰よりも早く北条高広が挙兵したが、越後国内を見渡せば、誰が兵を挙げてもおかしくないくらい不穏な空気が漂っていたのである。
 それがわかっているから、重臣たちは謀反の理由を口にしようとしない。それを口にすれば景虎を非難することになるし、本心では誰もが北条高広に同情する気持ちを持っていたからだ。
 冬之助一人が醒めた目で越後の内紛を眺めている。
 さっさと、この問題を片付けて、上野にでも北信濃にでも兵を出してもらいたいと願っている。
 軍配者である冬之助は常に戦を求めている。


 安田長秀の説得工作は、うまくいかなかった。
 北条高広は長秀の言葉に耳を貸さず、防備を固めて城に籠もっている。
 景虎にも重臣たちにも不思議なのは、孤立無援の北条高広が、なぜ、強気な姿勢を崩そうとしないのか、ということであった。
 籠城というのは、援軍がやって来る当てがあって初めて成立する策である。その当てもないのに籠城したところで立ち枯れるのがオチなのだ。
 年が明けて、その謎が解明された。
 北条高広から武田氏に宛てた書状を持つ使者が捕らえられたのである。
 恐るべき謀略が明らかになった。
 北条高広が越後を混乱状態に陥れ、その隙を衝いて武田軍が北信濃に侵攻し、高梨政頼や村上義清を打ち破る。その勢いに乗って武田軍は越後に攻め込み、北条高広を中心とする反乱軍と協力して春日山城を南北から攻め、長尾氏を滅ぼしてしまう。その後、武田軍と反乱軍が越後を分割支配する......そんな密約である。
 その事実を直江実綱から知らされた景虎は、
「まことか」
「はい」
「信じられぬ」
 呆然とし、しばし黙り込んだ。
 その後も北条高広の裏切りに関する報告が続々と届く。
 ついに景虎は、
「出陣じゃ! 裏切り者を攻めるぞ!」
 と吠えるように叫んだ。
「わしに忠義を尽くそうと思う者は、身ひとつで佐橋庄に集うように触れよ。裏切り者に手を貸し、武田に与しようとする者は領地に留まって武具の手入れをするがよい。わしに遠慮することはない。好きなようにして構わぬ。明日の夜明け、佐橋庄に顔を見せぬ者は、すべてわしの敵である。北条一族を皆殺しにした後、わしが直々に相手をする。越後に裏切り者の住む土地はないと思うがよい」


 翌朝、景虎の呼びかけに応じて佐橋庄に五千の兵が集まり、北条城を包囲した。
 この城は、さして堅固ではない。
 立て籠もっているのも七百人ほどで、しかも、三割は女子供である。これでは籠城も難しい。
 景虎が命令すれば、五千の軍勢が城に殺到し、日暮れまでには城内にいる者たちを皆殺しにしてしまうであろう。
 何度か城の者とやり取りした末、北条高広は安田長秀に伴われて景虎の前に罷(まか)り出た。自分の命と引き換えに城にいる者たちの助命を願おうとしたのである。
「武田は現れぬようだな」
「よく知りもしない相手の甘い言葉に踊らされた愚か者でございます」
「悔やんでおるのか」
「できることならば、道を踏み外す以前に......いや、武田から誘いを受けた日に戻り、使者の首を落として御屋形さまに進上したい気持ちでございます......」
 北条高広は涙ながらに、時折、嗚咽を洩らしながら景虎に謝罪し、自分はどうなってもいいから、自分に従って城に籠もった者たちの命を助けてほしいと嘆願した。
「愚か者め。汝に罰を与えるぞ。覚悟せよ」
「はい」
 高広が目を瞑って姿勢を正す。景虎に斬られるつもりでいるのだ。
 景虎は青竹を振り上げると、高広の左肩をぴしっと強く打つ。
「たった今、汝の悪心を斬ったぞ。これで汝の心に棲みついた魔物は退散した。忠義者の北条高広に戻ったぞ。どうだ?」
「......」
 高広は、ぽかんと口を開けたまま固まっている。
「これが、汝に与える罰だ。心して受け止めよ」
「うっ......」
 高広は地面に突っ伏して、号泣する。
 重臣たちも貰い泣きをしている。
 冬之助だけは冷静に、こんな曖昧な形で謀反の幕引きをしたことで、
(これから先、また同じようなことが起こるのではなかろうか。御屋形さまの優しさが仇にならねばよいが......)
 と危惧せずにはいられなかった。


 天文二十四年(一五五五)三月初め、武田晴信は木曾郡の制圧を目指して出陣した。
 いきなり敵の本拠である福島城を攻めるのではなく、周辺の村や砦を攻めた。じわじわと包囲網を狭めていこうというのだ。
 木曾攻めを開始して一ヶ月ほど経ったとき、晴信のもとに、三千の長尾軍が北信濃に入ったという知らせが届いた。
「長尾景虎というのは、わからぬ男よのう。武田が高梨を攻めようとしているのであれば、それを助けるために兵を出すのもわからぬではないが、わしらは木曾にいる。高梨や村上には何も手出ししていないではないか」
 知らせを聞いた晴信は不機嫌そうに顔を顰める。
「考えられるとすれば......」
 四郎左が口を開く。
「何だ?」
「武田にそそのかされた北条高広が弾正少弼(だんじょうしょうひつ)殿の足許で謀反を起こしたことへの意趣返し」
「馬鹿な。そんなことの仕返しに兵を出すというのか。それでは、まるで子供ではないか」
「案外、そうなのではないでしょうか」
「何がだ?」
「つまり......」
 短気で分別がなく、道理をわきまえず、たやすく情に流され、気分次第で重い罪を許したり、軽い罪を重く罰したりする。そういう領主は珍しいかもしれないが、そういう子供なら、いくらでもいる。そんな男だから、雪解けの季節になるや、武田憎しの一念から前後の見境もなく北信濃に出てきたのではないか......そう四郎左は言う。
「信じられぬな。わしは、そんな男を相手にしなければならぬのか」
「道理の通じない相手ほど厄介なものはありませぬ。これから、どうなさいますか?」
「木曾攻めは先延ばしにして北信濃に向かう」
 晴信の決断は早い。
 放置すれば、二年前のように好き放題に城や砦を落とされるのではないか、と危惧しているのだ。
 四月六日、晴信は五千の兵を率いて北信濃に向かった。途中で加わった兵もいるので、四月二十五日に川中島に着いたとき、武田軍は七千を超える大軍になっていた。
 晴信は、犀川と千曲川に挟まれて広がる八幡原の東側、大塚砦に本陣を置いた。
 一方の長尾軍は犀川の北、善光寺の東側に位置する横山城を中心に布陣している。
 両軍は犀川を挟んで対峙する格好になったが、大塚砦と横山城は一里半(約六キロ)も離れているので一触即発という状況ではない。
 世に言う第二次川中島の戦いは、こうして幕を開けた。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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