北条氏康 関東争乱篇第十二回
二十一
小田原城に戻ると、すぐさま氏康は小太郎と盛信を呼ぶ。
いずれ氏康の後を継ぐことになる氏政と、氏政の補佐役になる新之助も同席させる。経験を積むことで、多くを学ばせるためである。
「どうだ?」
氏康が小太郎に顔を向ける。
「何かの間違いでは済みませんから、念には念を入れて、しっかり調べてみましたが、やはり......」
小太郎が溜息をつく。
「そうか、やはり、か」
氏康も重苦しい溜息をつく。
古河(こが)城で不穏な動きがあることを風間(かざま)党が探り出したのである。
最初、氏康も小太郎も耳を疑った。
八年前の四月、世に言う「河越の夜襲」で氏康は両上杉軍と古河公方軍を撃破した。扇谷上杉氏は滅亡した。山内(やまのうち)上杉氏は凋落の一途を辿り、今では、すべての領国を失い、当主の憲政は越後に亡命している。
そのとき、古河公方家も両上杉氏と同じ運命を辿ってもおかしくなかった。
しかし、氏康は許した。
古河公方家には、まだまだ利用価値があると判断したからである。
氏康が要求したのは、ひとつだけである。
古河公方・足利晴氏の後継者は嫡男の藤氏と決まっていたが、藤氏を廃嫡させ、自分の甥に当たる義氏を後継者にするよう晴氏に迫ったのである。
晴氏としては否応もない。
逆らえば、殺されるだけである。
命を投げ出してまで意地を張り通すような度胸は、晴氏にはない。
このとき、義氏は古河城から葛西城に移っている。
義氏を、晴氏や藤氏と同じ城に置くことは危険だと氏康が判断したからだ。
義氏は晴氏の後継者となり、二年前に古河公方に就任した。わずか十歳の幼い古河公方の誕生である。
古河公方の座を譲るように、氏康が晴氏に圧力をかけたのである。
当然ながら、晴氏と藤氏は氏康を深く恨んでいる。
二人に恨まれていることは氏康も承知しているが、歯牙にもかけてこなかった。生かしてやっているだけでもありがたく思え、という気持ちだったのであろう。
しかし、晴氏は四十七歳、藤氏もまだ二十代の若さである。世捨て人のように暮らすには、まだ早いから、様々な策謀を巡らせて、何とか、かつての栄光を取り戻したいと思うのであろう。
風間党が探り出したのは、晴氏が北条氏に敵対する者たちと手紙をやり取りしているという事実である。下野(しもつけ)の小山(おやま)氏、下総の相馬氏、安房の里見氏などに密かに使者を送っていた。手紙の内容まではわからないが、敵対勢力との間を使者が行き来しているというだけで、ただ事ではない。
「古河城で謀反が企てられているのは間違いないようだな。さて、これから、どうすべきか?」
氏康が氏政に顔を向け、おまえならば、どうする、と問いかける。
「すぐさま古河に使者を送り、真偽のほどを糺(ただ)すべきかと存じます。その返答如何によって、兵を出し、古河を攻めるのがよかろうと考えます」
「ふうむ、なるほどな。おまえは、どう考える?」
今度は新之助に問う。
「若殿と同じ考えでございますが。ただ、古河に使者を送ると同時に戦支度を始めるべきかと存じます。使者に詰問されたくらいで、謀反を諦めるとは思えませぬ。向こうの戦支度が調わぬうちに古河を攻めるべきかと考えます」
「と、新之助は言っているが?」
また氏康は氏政に訊く。
「そう言われると、その方がよかろうと思います。どうせ戦になると見越しているのであれば、早めに戦支度するべきです」
「おまえたち二人の考えは、わかった。では、こっちの二人にも訊いてみることにしよう。太郎衛門」
「は」
盛信が頭を垂れる。
「考えを言ってみよ」
「何もしませぬ」
盛信が答えると、氏政と新之助が、えっ、という驚き顔で盛信を見る。
「一応、おまえにも訊いておくか」
氏康が小太郎に顔を向ける。
「太郎衛門と同じでございます。何もしませぬ」
「二人とも、どうかしてしまったのではないか? 古河で謀反が企まれているのだぞ」
氏政が言う。
「それは間違いないでしょう。しかしながら、まだ兵を挙げたわけではありませぬ」
盛信が首を振る。
「そうなってからでは遅いではないか」
「いいえ、逆でございます。そうしてもらわなければ困るのです」
小太郎が言う。
「は?」
氏政には、盛信と小太郎が何を言おうとしているのか、さっぱりわからないらしい。
「おまえは、どうだ? まだ、わからぬのか」
小太郎が新之助に訊く。
その視線は、氏政に向けられたものより、ずっと厳しい。そんなことで補佐役が務まるか、と叱責しているかのようである。
「あ、ああ......。そういうことでしたか」
新之助が大きく息を吐き、がっくりと肩を落とす。
「申し訳ありませぬ。御屋形さまのお考えを、何もわかっておりませんでした」
「よいのだ。最初から何でもわかるわけではないし、何でもできるわけでもない。わしらも、そうだった。何度となく過ちを犯した。そこから多くを学んで、次に生かしたのだ。さあ、なぜ、太郎衛門や小太郎が、今は何もせぬと言ったのか、新九郎に説明してやるがいい」
氏康が新之助に向かってうなずく。
「実際に兵を挙げていないときに古河を攻めれば、向こうは何とでも言い逃れができます。敵に送った手紙や敵から送られてきた手紙を見付けたとしても、そんなものは知らぬ、誰かが勝手にやったことだ、偽物であろう、と白を切るでしょう。それでは、重く罰することはできませぬ......」
そこまで新之助が話したとき、ようやく、氏政が、そうか、そういうことなのか、と悔しそうに自分の膝を叩く。
「わかったようだな」
氏康が氏政を見る。
「たとえ謀反を企んだところで、古河に駆けつける者など大しているはずもありませぬ。せいぜい、二千や三千、もっと少ないかもしれませぬ。その程度の謀反ならば、われらは少しも怖れる必要はない。むしろ、知らん顔をしていて、向こうが兵を挙げたら、一気に叩き潰せばよい。そうすれば、向こうは言い逃れなどできないから、こちらの好きなように罰することができる。そうなのですね?」
「うむ、うむ」
氏康が大きくうなずく。時間がかかったとはいえ、氏政が正解に辿り着いたことに満足しているのであろう。
「父上は、あの二人を斬るつもりなのですか?」
氏政が訊く。
「まだ何も考えてはおらぬ」
「若君、御屋形さまは古河の謀反など大したことだと思ってはおられないのです。他のことを考えておられます」
小太郎が口を挟む。
「他のこと?」
氏政が首を捻る。
「里見をどうするか、ということでしょうか?」
新之助が遠慮気味に口を開く。
「よく気が付いた。その通りだ」
小太郎がうなずく。
「古河にいる二人には大した力はない。小山や相馬も、そうだ。あんな者たちが集まったところで何もできはしないのだ。警戒しなければならぬのは、里見のみ。今の里見には古河に兵を送るほどの余裕はないだろうが、われらが古河城を攻めている隙に上総に攻め上って、葛西城を攻めるくらいのことはするかもしれぬ」
「つまり、自分たちのために、体(てい)よく古河のお二人を利用しようというわけですね?」
「うむ。そんなこともわからずに謀反を企むとは、実に愚かしい」
「元々、愚かな御方なのだ。己の愚かさに気が付くだけの賢さがあれば、あのように落ちぶれたりはせぬ。わしも心から敬うであろうよ」
氏康が言う。
二十二
氏康が晴氏と藤氏の謀反について小太郎たちと話し合っている頃、武田晴信は信濃に出陣していた。
最初に手をつけたのは、伊那郡の南部に残っている敵対勢力を掃討することである。天竜川沿いに南下し、周辺の城や砦を虱(しらみ)潰しに攻め落とした。
八月六日には嫡男・義信が初陣を果たし、手柄を立てた。
七日には鈴岡城、十五日には神之峰(かんのみね)城を落とし、伊那郡南部を完全に制圧した。
晴信のもうひとつの目的は、駒ヶ岳の西、福島城を拠点とする木曾義康・義昌父子を屈服させることである。木曾郡を支配下におけば、残るのは北信濃だけになる。
当然、武田の者たちは、福島城を落とし、その勢いのまま一気に北信濃に攻め上るのであろうと予想していた。短期間で伊那郡の南部を制圧した武田軍の実力を以てすれば、そう難しくないはずであった。
しかし、晴信は、本格的に木曾郡に侵攻しようとはせず、福島城も攻めなかった。小競り合い程度の合戦をしただけで、九月の初めには甲府に戻ってしまった。
「誰もが不満を感じているようですな」
「そうか」
「なぜ、木曾を攻めなかったか、その理由を説明すれば納得もするのでしょうが」
四郎左がちらりと晴信の顔を見上げる。
「そんなことができるか。調略が失敗してしまうわ」
晴信が愉快そうに笑う。
一年前、長尾景虎に敗れたことを、晴信も四郎左も忘れていない。
単純に北信濃に攻め込めば、去年と同じように長尾景虎が春日山城から出てくるに違いない。
それでは同じことの繰り返しである。
晴信が武将としても政治家としても優れているのは、己の過ちを素直に認め、失敗から学ぶことのできる柔軟性と謙虚さを持っていることである。傲慢でも独善的でもなく、他人の言葉に真摯に耳を傾けることができる。
晴信が血の気の多い、身勝手な武将であれば、闇雲に北信濃に攻め込んで長尾景虎に返り討ちにされるであろう。
一年前の敗北について、晴信と四郎左は何度となく話し合った。それまで長尾景虎について何も知らなかったので、多くの忍びを越後に放って、長尾景虎について調べた。
その結果、まだ若いものの、戦には滅法強いとわかった。越後国内での戦いが多かったので、その強さが国外にあまり知られなかったのだ。
長尾景虎が武田軍に勝ったのは、まぐれではなかったのである。
これまで一度も敗れたことがないので、戦における長尾景虎の弱点が何なのか、晴信にも四郎左にもわからない。
ただ、長尾景虎にも泣き所があることはわかった。
政治である。
長尾景虎には政治的な調整能力が欠落しており、だからこそ、守護の座を巡って越後が内乱状態に陥った。異様なほど戦が強いから、自分に敵対する者たちを次々に打ち破って、ついに守護の座を奪い取ったが、景虎に人並みの政治力があれば、そもそも、それほど多くの戦をする必要はなかったはずである。
そういう事情がわかると、
「北信濃を攻める前に、まず、やることがある」
と、晴信と四郎左の考えは一致した。
戦いというのは、軍勢を率いて合戦することだけを意味するのではない。政治上の駆け引きを駆使して、相手の足を引っ張り、相手を弱体化させることも立派な戦いである。うまくいけば、合戦などしなくても相手を倒すことができる。
晴信と四郎左は、長尾景虎の最大の弱点、すなわち、政治力のなさを衝こうとしている。
すでに手を打ってある。
晴信が、木曾攻めと北信濃侵攻を先延ばししたのは、調略の実が熟すのを待っているからであった。
早ければ年内には実が熟し、年明けに木曾と北信濃を攻めることができるであろう。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。
〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
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