北条氏康 関東争乱篇第十九回
十三
年が明けると弘治四年、二月二十八日に改元されて永禄元年(一五五八)となる。
四月、足利義氏の鶴岡八幡宮参詣と小田原訪問は予定通りに行われた。春になっても天候不順が続き、疫病が収まる気配もなかったが、氏康は無理を重ねて盛大に義氏を迎えた。
ふたつの行事は成功裡に終わり、北条氏と氏康の威信は大いに高まった。
が......。
当然ながら、その反動は大きかった。
北条氏の国庫は空になり、それを埋める当てもないという有様だったのである。
五月中旬、義氏の出立を見送ると、氏康は直ちに家臣一同に向け、今まで以上に倹約に努めるように指示した。家臣たちに倹約を要求するだけでなく、氏康自身が範を示した。
これまでも贅沢とはほど遠い生活をしてきた氏康である。その上、倹約しようとすると、もはや、大国の領主の暮らしとは思えないほど質素なものにならざるを得なかった。食事は一汁一菜が基本で、肉や魚は三日に一度しか口にしない。飯にしても、麦に稗(ひえ)や粟を混ぜて食べるのが普通で、白米は何かの祝い事でもなければ食べない。できるだけ他国に米を売って銭に替えるためである。
とは言え、いかに貧相な食事とはいえ、食うものがあるだけましであった。領民たちは食うや食わずで、一部の地方では、またもや飢饉が発生しているのだ。
もはや、倹約に努めるだけでは、どうにもならないほど北条家を取り巻く状況は深刻であった。
幸いというべきか、北条の領国だけでなく、その周辺国でも似たような状況であり、そのせいか、この年は関東で大きな戦は行われていない。他国に兵を出す余裕がなかったからである。
永禄から、元亀・天正へと続く時代は、関東だけでなく、日本全国で大がかりな戦乱が絶え間なく続くことになるが、その最初の年は不気味なほど静かであった。まさに嵐の前の静けさなのである。
どの大名も戦をする余裕がないのでおとなしくしていたせいだが、飢餓が深刻になれば、今度は逆に積極的に戦を始めるのが歴史の教えるところだ。自国に食うものがなければ、他国から奪うしかないからである。
十四
これまで三度にわたって川中島で激突した武田と長尾ですら、この年は干戈を交えていない。
永禄二年(一五五九)二月、武田晴信が出家した。
法性院機山信玄という。
以後、晴信は法号の「信玄」を名乗るようになる。
『論語』に諭され、以前から、四十になったら出家しようと考えていたが、心に迷いもなくなり、人生における大目標も定めたので、予定よりも一年早く出家したのである。
その大目標とは、自分の力で戦国時代を終わらせ、世の乱れを鎮めること、すなわち、天下平定である。我欲を捨て、その大目標に全身全霊を捧げるための出家なのであった。
長尾と和睦して以来、武田軍は北信濃における軍事行動を控えている。
もちろん、何もしていないわけではない。占領地の実効支配を進め、甲斐との同化政策を進めている。
それが信玄のやり方なのである。新たな領地を獲得しようとするときには、総力を挙げて敵地に攻め込み、その攻勢が一段落すると、矛を収めて占領地の民政に力を入れる。軍事行動と民政を交互に繰り返すことが武田の支配力を強めることになると知っているのである。
つまり、長尾との和睦を重んじて軍事行動を控えているわけではなく、和睦の成立如何にかかわらず、しばらくの間、民政に力を入れる予定だったのだ。
和睦など屁とも思っていない証拠に、信玄は川中島で海津城の整備を進めている。民政が軌道に乗れば、すぐさま北信濃全域の制圧を目指して軍事行動を始めるという強い意思の現れであった。
景虎とて馬鹿ではない。
信玄の腹の内を見抜いている。
短気な景虎とすれば、すぐさま兵を動かして、海津城を攻めたいところだが、それを思い留まらなければならない理由がある。
上洛を控えているのだ。
六年ぶり、二度目の上洛になる。
前々から上杉憲政は、
「上杉の家督と関東管領(かんれい)職を汝に譲りたい」
と申し出ているが、
「自分のような者には畏れ多すぎまする」
景虎の方が固辞している。
憲政も越後に亡命して、かれこれ七年以上になる。
その間、北条氏は着々と支配地を広げ、今では上野のほとんどを支配しようという勢いである。
このままでは、もはや上野に戻ることはできぬと憲政は焦り始めた。
頼みの綱の景虎は、上野ではなく、憲政にはどうでもいい北信濃にばかり兵を出している。
何とか景虎の目を上野に向けなければならぬ、と覚悟を決め、改めて景虎に家督相続と関東管領職への就任を要請した。
景虎も、以前のように強くは固辞しなかった。
ここ数年、無敵と怖れられる武田軍と互角に渡り合ってきたことで自分の軍事的な才能に自信を持ち始めており、武田など何する者ぞ、北条など何する者ぞ、という気持ちがある。
ただ、軍事力だけでは、どうにもならぬこともあると思い知らされた。権威が必要なのである。
今の景虎は越後国主に過ぎない。
信玄は信濃守護職だから、本来、景虎は信玄が信濃で何をしようと口を出せる立場ではない。
氏康は、われこそは関東管領であると称している。
その後ろ盾となっているのは古河公方・足利義氏である。関東管領なのだから、上野を支配するのは何の問題もないという理屈なのだ。
そんな理屈はおかしい、でたらめだ、と景虎としては声高に叫びたいが、越後国主という立場では、犬の遠吠えにしかならない。
いくら戦が強くても、政治力において信玄や氏康に劣っている、と景虎もようやく自覚するようになったのである。
(わしが関東管領になればよいのだ)
そうすれば、信玄の信濃の仕置きに口を出すこともできるし、武蔵や上野における氏康のやり方に異を唱えることもできる。
いや、それどころか、関東管領を私称する不届き者として氏康を討伐することも可能になる。
上杉の家督を継ぎ、関東管領職に就けば、好きなときに、思うがままに信濃にでも上野にでも攻め込む大義名分を手にすることができるのである。
そのためには都に行かなければならない。
氏康は古河公方によって関東管領に任じられたと喧伝している。そんなものはでたらめだ、自分こそが真の関東管領であると景虎が主張するには古河公方よりも、もっと大きな権威によって関東管領に任じられる必要がある。その権威とは都にいる室町幕府の将軍・義輝である。
四月三日、景虎は五千の大軍を率いて上洛の途についた。
二十七日に都に入ると、すぐさま義輝に謁見を許され、五月一日には参内して正親町(おおぎまち)天皇に拝謁することもできた。
関東管領職の移譲についても簡単に決着した。
いっそ都で就任式を行ってはどうか、自分が介添えしようとまで義輝は言ってくれたが、景虎は婉曲に断った。
「なぜじゃ? 遠慮はいらぬのだぞ」
「関東管領への就任は鶴岡八幡宮の神前で披露するのが習わしであると心得ておりまする故」
そう景虎が答えたから、義輝は驚いた。
鎌倉は長尾と敵対している北条氏の支配地である。
景虎の鎌倉入りを許すはずがない。
「小田原の許しを得るつもりはございませぬ」
「では?」
「上野も武蔵も相模も、元はと言えば、上杉の支配国でございまする。それを奪い返し、堂々と鶴岡八幡宮の神前に立つ覚悟でございます」
「おお、何と頼もしい言葉よ」
義輝は感嘆し、諸国を見回しても、長尾景虎ほど頼もしい武将はおるまいと感心した。
そう思ったのは、義輝だけではない。
関白・近衛前嗣(さきつぐ)も感心した。
前嗣の妹は義輝に嫁いでいるから、二人は義兄弟の間柄である。
義輝から景虎の人柄を事細かに聞き、
(今の世の中で頼りにでけんのは長尾はんだけや)
と思い定め、景虎の宿舎を訪ねた。
「あんたが越後に帰るとき、まろも一緒に行ってもええやろ? 嫌と言うたら許さんからな」
と頼み込んだ。
景虎は、関白の訪問に恐懼(きょうく)し、
「承知いたしました」
と平伏したまま顔も上げずに答え、前嗣が関東に下った折には関東公方に据えるという約束までした。
それは、氏康の奉じる足利義氏を廃することを意味している。氏康が黙っているはずがないから、当然、長尾と北条が衝突することになる。
景虎は関白に向かって、北条氏の討伐を公言したわけである。
越後に同道すると約束したものの、後になって、この話を知った義輝が慌て、前嗣を強く慰留したため、景虎と共に越後に下ることはできず、結局、前嗣の越後行きは翌年の九月に先延ばしになる。
十月初め、景虎は帰国した。
十月二十八日には関東管領就任を祝う祝賀の儀が行われた。越後の豪族だけでなく、関東八ヵ国の大名や豪族たちが祝いに駆けつけたり、名代を送ったりした。武田氏と北条氏は景虎の関東管領就任を認めず、この祝賀を頭から無視した。
その結果、祝いに駆けつけたのは武田や北条に圧迫されている者ばかりということになり、ごく自然の成り行きで、この祝賀の儀をきっかけに、景虎を中心とする反武田、反北条の勢力が結集される形になった。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。
〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
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