北条氏康 関東争乱篇第三十二回

十三

「どうしたのでしょう、遅いですな」
 氏政が小首を傾げる。
「うむ」
 生返事をして、氏康は板敷きに広げた大きな絵図面を見つめている。
 武蔵と相模を描いた絵図面で、北条方の主要な城も記入されている。長尾景虎も似たような絵図面を使っているが、それは足利学校で学んだ軍配者は同じようなやり方で絵図面を拵えるからで、景虎の絵図面は冬之助が、氏康の絵図面は小太郎が拵えたのである。
「風摩(ふうま)さまがいらっしゃいました」
 小姓が声をかける。
「来たか」
 氏康は疲労の滲む細面の顔を上げる。
 小太郎が部屋に入ってくる。一人ではない。息子の新之助に肩を借りて支えられている。もはや、一人では歩くのも困難なほど弱っているのだ。
「おまえ......」
 小太郎の顔を見て、氏康が絶句する。血の気が引いて真っ青な顔をしている。ひどく具合が悪そうだ。
「病を患うおまえに無理ばかりさせるのう。すまぬ」
 小太郎の体調がすぐれないことは氏康も承知している。本当ならば、屋敷で静かに養生しなければならないのだが、北条家が未曾有の危機に瀕している今、小太郎の知恵が氏康の頼りであった。小太郎にも氏康の気持ちがわかるからこそ無理をして登城したのである。
「お気遣いは無用でございます。このようなときのために軍配者はいるのですから」
 板敷きに腰を下ろすと、肩で大きく息をしながら、小太郎が絞り出すように言う。
 小太郎の隣に新之助も坐る。注意していなければ、小太郎が倒れてしまうかもしれないからだ。
「長尾景虎が松山城を出たぞ」
 氏康が言う。
 年明けに長尾軍に包囲された松山城は、ひと月ほどで落ちた。城攻めで大いに活躍したのは太田資正である。
「河越城を素通りし、深大寺城も小沢城も無視して、今は当麻(たいま)に陣を敷いているそうだ」
 絵図面を指差しながら、氏康が説明する。
「その数は?」
「十万らしい。十一万という者もいる」
「ふうむ......」
 落ち窪んだ目で小太郎が絵図面を見つめる。
「大袈裟すぎるのではないでしょうか。十万などと、とても信じられませぬ」
 氏政が首を振る。
「信じられぬことは、往々にして起こるのだ。十五年前、山内上杉、扇谷上杉、古河公方の軍勢が河越城を囲んだとき、その数が八万と聞いて、わしは耳を疑った。しかし、本当だった。だから、長尾景虎の元に十万の軍勢がいると聞いても、わしは驚かぬ」
 氏康が言うと、氏政が、難しい顔で、はい、とうなずく。
「数では、とても太刀打ちできませぬな。せめて、武田や今川が援軍を送ってくれると助かるのですが......」
 新之助が溜息をつく。
「他家を当てにしても仕方がない。自分たちで何とかするしかないのだ」
 小太郎が言う。
「治部大輔殿が生きておられれば......」
 氏政が無念そうに言う。
 こういう事態になってみると、去年の五月、今川義元が織田信長によって桶狭間で討ち取られたことが大きな痛手であった。今川家では混乱が続いているため、北条に援軍を送る余裕などないのである。頼みは武田だが、甲府からやって来た援軍は三百に過ぎなかった。たとえ援軍が三千だったとしても焼け石に水だったろうが、それにしても武田からの援軍が三百と知って、氏康は言葉を失った。
 もっとも、その代わり、信玄は側面からの強力な支援を約束した。
 ひとつは、越中の一向衆徒を扇動して越後を南から脅かすことであり、もうひとつは、信玄自身が軍勢を率いて北上し、越後への侵攻を企てることである。越後が脅かされれば、景虎も急いで帰国しなければならないだろうという読みであった。
 何の援助も期待できない今川家に比べれば、信玄の申し出はありがたかったが、直接的に十万の長尾軍の脅威にさらされている氏康とすれば、どうしても物足りなさを感じてしまう。
「長尾軍は当麻に布陣しているという。わしらは、どうすればよい? おまえの策を聞かせてくれ」
 氏康が小太郎に促す。
「わたしの考えは、とうに決まっております。しかし、それが正しいのかどうか、本当にそれでいいのかどうか......いくら考えてもわからないのです」
「構わぬ。申せ」
「では......」
 小太郎がごくりと生唾を飲み込み、大きく深呼吸する。
「長尾には勝てませぬ」
「勝てぬか......」
 氏康が小さな溜息をつく。
「向こうは十万、こちらは必死に掻き集めても二万そこそこ......。まともにぶつかっては勝てそうにないのは確かだが、戦は数だけで決まるのではない。おまえも承知しているではないか」
「恐らく、御屋形さまの頭には、河越の夜襲で十倍もの敵を打ち破ったことが残っているのだと思います。他の者たちも、そうかもしれません。だからこそ、強気な考えを口にする者が多いのでしょう。しかし、河越の勝利を思い出すべきではありません。忘れるべきなのです。あのときは、相手の大将が愚かで傲慢で、しかも、戦が下手だったから勝つことができたのです。今度は違います」
「長尾景虎は違うというのか? 血の気が多く、気が短く、気位が高いというぞ。山内殿(憲政)とよく似ている気がするが」
 氏康が小首を傾げる。
「いろいろ欠点はあるのでしょう。だからこそ、たびたび謀反が起こるのでしょうし、国主の座を捨てて高野山に登ろうともするのでしょう。しかし、戦の強さは疑いようがありませぬ。まだ三十そこそこの若さだというのに数えきれぬほどの戦を経験し、負け戦がほとんどございませぬ。わたしの知る限り、長尾殿が敗れた相手は武田殿のみ。長尾殿と武田殿は勝ったり負けたりを繰り返しているように見えますが、よくよく調べてみると、武田殿は決戦を避けているような気がします。長尾殿と直接戦うことを避け、長尾殿が越後に引き揚げるのを待って、守りの手薄な北信濃の敵城を攻めるようなやり方ばかりしているのです」
「長尾景虎は戦が強いから、まともに戦うことを避けているというのか?」
「はい。武田殿も稀代の名将。にもかかわらず、そこまで執拗に決戦を避けようとするほど、長尾殿は強いのです。昨年の春には、わずか数日で富山城の神保殿を降伏させました。八月に関東に入ってからも、向かうところ敵なしと言っていい強さです。これは本物です。武田殿であれば、こちらが十万、長尾殿が二万でも決戦を避けようとするのではないでしょうか。ましてや、今はこちらが二万、向こうが十万なのですから、戦いようなどありませぬ」
「なるほど、それがおまえの考えか。武田を真似て、長尾とは戦わぬというのだな? そうなると、籠城か......」
「北条が生き延びる道は、それしかありませぬ」
「ふうむ、籠城なあ......」
 氏康が首を捻る。理屈では納得できても、気持ちとしては悔しいのであろう。
 小太郎が、ごほっ、ごほっ、と咳き込み、慌てて両手で口を押さえる。掌に血がこびりついている。新之助が差し出した手拭いで血を拭う。
「小太郎......」
 氏康の表情が歪む。もう長くはないのだな、と悟ったような顔である。
「気になさいますな。大したことはありませぬ。籠城するからには、中途半端なやり方ではいけません。長尾殿の率いる十万は、言うなれば寄せ集めで、北条を憎む者ばかりです。われらが城に籠もれば、彼の者たちは町や村を焼き、畑を踏み荒らし、百姓をさらうでしょう。男たちは殺され、女は慰み者にされるでしょう。生きて捕らえられた者たちは奴隷として連れ去られることになります。小田原が地獄絵図になるのです」
「何もかも奪われ、焼き尽くされるのだな。長尾がやりたい放題するのを、わしらは指をくわえて見ていることしかできぬのか」
「腹立ち紛れに城から出れば、それこそ相手の思う壺。覚悟を決めて城に籠もらなければなりませぬ。できるだけ多くの者たちを城に入れ、城に入りきらぬ者たちは山へ逃がしましょう。家を焼かれても、財物を奪われても、命さえあれば、また手に入れることができます。家など、また建てればいいだけのことです。たったひとつしかない命を、一人でも多くの命を救うことだけを考えるべきです。傍目には臆病な振る舞いに見えるかもしれません。北条は負けたと笑われるかもしれません。しかし、北条が生き延びることが、最後には長尾に勝つことになると信じております。亡くなった早雲庵さまは、民が幸せになれる国を作りたいとおっしゃって、伊豆と相模を支配なさいました。北条の仕置きを他国にも広めることが、より多くの民を救うことになるのだとお考えになって、武蔵や上総にまで出陣なさいました。ここで意地を張って、北条が滅びるようなことになれば、伊豆、相模、武蔵、上総、それに上野の民は昔のように牛や馬よりもひどい暮らしを強いられることになるのです。北条家さえ残っていれば......」
「もう言うな」
 氏康が片手を挙げて、小太郎の発言を制する。
「御屋形さま......」
「おまえの言うことは正しい。妙な意地を張って、北条家を滅ぼすことはできぬ。意気地なし、弱虫、腰抜け、卑怯者......そう罵られても構わぬ。わしが耐えることで、民の暮らしと命を守ることができるのであれば、そうしよう」
「ありがたきお言葉でございます。皆には、わたしから説明いたします」
「それは、いかん」
 氏康が首を振る。
「今は誰もが殺気立って、威勢のいいことばかりを口にしている。籠城を口にした者もいたが、それも敵と戦って、どうにもならぬと判断したら籠城すべしという考えで、真っ当な策に聞こえたが、周りの者たちからは口汚く罵られた。最初から負けることを考えてどうするのだ、籠城などを考えていたら兵が弱腰になってしまう、とな。そういう者たちの目から見れば、おまえの考えは、もっと弱腰に見えるだろう。何しろ、最初から戦わぬというのだからな。しかも、城に逃げ込むことのできぬ者は山へ逃がしてしまい、あとは敵の好き放題にさせろという。血の気の多い者ならば、おまえを殺そうとするかもしれぬ。おまえを死なせるわけにはいかぬから、わしの口から籠城を皆に告げる。まさか、わしを殺そうとはするまいからな」
「こんな大変なときに、わたしのためにお心を煩わせて申し訳なく存じまする」
「いや、そうではない。わしも籠城しかないのではないかと考えていた。しかし、敵と一戦も交えずに籠城するのでは武門の名を汚すことになるのではないか、世間から笑われるのではないか、家臣たちからも蔑まれるのではないか......そんな心配をしていた。見栄を張ることばかり考えて、本当に大切なものが何なのか、それを忘れていた。北条の領地に暮らす者たちが平穏に幸せに暮らすことだけが大切なのだ。その暮らしを守るためには北条が滅びることはできぬ。たとえ家名が恥辱にまみれようと、そんなことはどうでもいい。おまえが思い出させてくれた。礼を申すぞ」
「とんでもないことでございます」
「おじいさまがおまえを軍配者としてわしのそばに残していってくれたのは、この日のためだったのかもしれぬな。おじいさまが生きておられれば、きっと、おまえと同じことを言ったに違いない。いや、もっと厳しく、わしを叱ったかもしれぬな」
 ふふふっ、と氏康が笑う。
「いいえ、御屋形さま、それは違います」
「何が違うのだ?」
「早雲庵さまは、御屋形さまの心の中に生きておられます。早雲庵さまが目指したものを、御屋形さまは立派に受け継いでおられます。わたしの目には、御屋形さまと早雲庵さまのお姿が重なって見えまする」
「それは嬉しい言葉だ。おじいさまも、わしらと同じように考えるということだな?」
「はい。そう思います」
「ならば、もう迷うまい。どのように世間に嘲られようと、自分たちの信じる道を進むだけのこと。世間の者たちは北条が負けたというであろうが、何年か経てば、本当に勝利したのが誰か、きっと明らかになるはずだ」
 氏康は、ふと氏政と新之助を見て、怪訝な顔になる。二人が泣いていたからだ。
「おまえたち、なぜ、泣いておる?」
「父上と小太郎の、いや、青渓(せいけい)先生の強い絆に心が震えたからでございます。北条家と北条家の領地を守るために、お二人がどれほど悩み苦しみ、必死に生き延びる術を考え抜いたか......。それに比べて、わが身の何と浅はかなことかと恥ずかしくなります」
 袖で涙を拭いながら、氏政が答える。
「それでよいのだ。今はまだわしがいる。小太郎もいる。しかし、いずれ、わしらはいなくなる。そのときのために学ぶがよい。わしがおじいさまや父上から多くのことを学んだように、おまえも学ぶがよい。そうすれば、おまえは国を保っていくことができるはずだ。そばで新之助も支えてくれよう」
「はい」
 氏政がうなずく。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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