北条氏康 関東争乱篇第七回

十四

 この年の暮れ、氏康の部屋で、氏康と小太郎(こたろう)が向かい合っている。
「何とか年内に元服させることができたな」
「これで、ひと安心でございますな」
「うむ」
 去年の三月、氏康の嫡男・新九郎氏親(うじちか)が病で亡くなった。十六歳だった。
 今川、北条、武田の三国同盟締結のため、氏親は武田晴信の娘と結婚することになっていたが、氏親の死で、三国同盟の先行きに暗雲が立ち込めた。
 両家の話し合いで、氏親の代わりに、次男の松千代丸が晴信の娘と結婚することになったが、結婚そのものは延期せざるを得なかった。結婚するには、まず松千代丸を元服させ、氏康の後継者という地位を公に認知させる必要があるからだ。
 その元服の儀式がようやく行われ、松千代丸は新九郎氏政(うじまさ)となった。
 新九郎という仮名は、初代・宗瑞(そうずい)以来、北条氏の当主が引き継ぐものとされているから、氏政は後継者の地位を確実に得たことになる。
 更に京都の幕府に要請して、氏政を相伴衆(しょうばんしゅう)に任じてもらった。これは、文字通り、室町将軍の食事に相伴できる身分である。実際に将軍に近侍するわけではなく、あくまでも形式的な身分に過ぎないが、これは大名が得られる最高の家格である。
 元服の儀式を終え、相伴衆の地位を得たことで、ようやく晴信の娘と結婚できる態勢が整った。
 氏政は十五歳、妻となる娘は十一歳である。
「何とか、来年のうちには婚儀を挙げることができそうだ」
 氏康がほっとしたように言う。
「めでたきことでございます」
 小太郎がうなずく。
「かえで丸......いや、新之助にも、これまで以上に松千代丸を支えてもらわなければならぬな」
 以前から、氏康と小太郎は、小太郎の長男・新之助を氏政の相談役にしようと話し合ってきた。そういう腹積もりで、小太郎も新之助を教育してきた。
「まだまだ力不足でございます。松千代丸さまが後継ぎと決まったからには、今まで以上に厳しく学ばせなければならぬと考えております」
「それは、わしも同じだ。代替わりするには、まだ間があるだろうから、何とか、今のうちに松千代丸を北条の主として恥ずかしくない人間にしなければならぬと思っている」
 氏康は三十九歳である。隠居する年齢ではないから、氏政に家督を譲るのは、ずっと先になる。その時間を使って、氏政を鍛えようという考えなのだ。裏返せば、氏康の目から見て、それほど氏政が頼りないということでもある。
「今川や武田と末永く手を携えていくことができるかどうかも松千代丸次第だからのう」
「はい」
「して、どうだ、何か都から知らせてきたことはないか?」
 氏康が話題を変える。
「弾正少弼殿は都を後にしたそうでございます」
「ようやく越後に帰るか。長かったのう」
 氏康がうなずく。
 十月下旬、長尾景虎は兵を率いて上洛した。
 名所旧跡を見物し、堺に足を運んで鉄砲の買い付けを行った。堺から高野山(こうやさん)に足を伸ばし、奈良見物をして都に戻った。
 都における何よりの収穫は天皇と将軍に拝謁したことであり、
「世の乱れを鎮めてほしい。頼りにしておるぞよ」
 と、後奈良天皇に言葉をかけられて、景虎は感激に震え、膝に涙をこぼした。
 将軍・義輝からは、関東管領職への就任と山内上杉の家督を継ぐことの内諾を得た。
 十分すぎるほどに満足して、景虎が帰国の途についたのは十二月の半ば過ぎで、二ヶ月に及ぶ長旅であった。
 そういう景虎の動きを、小太郎は風間(かざま)党を使って探らせ、氏康に事細かく報告した。
 それまで大して気にも留めていなかった景虎の動きに、なぜ、氏康が神経を尖らせるようになったかと言えば、この年の九月、北信濃で長尾景虎と武田晴信が干戈(かんか)を交え、晴信が惨敗を喫したからである。
 その後、十年以上にわたって繰り返される武田晴信と長尾景虎の死闘、いわゆる川中島の戦いの一回目である。
 川中島における景虎の勝利は、周辺諸国の諸大名に衝撃を与え、景虎が天才的な武将であることを喧伝することになった。
 氏康も衝撃を受けた一人である。
 去年の夏、景虎は兵を率いて上野に攻め込み、厩橋(うまやばし)城周辺を荒らし回った。
 氏康は大軍を率いて上野に入ったが、景虎がさっさと兵を退いてしまったので、直接、手合わせすることはなかった。
 景虎が国主となって日が浅く、二十歳そこそこの若者ということもあり、氏康は景虎が憲政の味方をしても、さして警戒もせず、それほど気にもしていなかった。
 景虎が兵を退いたのも、北条軍と戦うことを怖れたのだと考えた。
 率直に言って、氏康は景虎など歯牙にもかけていなかったのだ。
 ところが、景虎は晴信を負かした。
 たまたま運が味方して、まぐれで勝ったというのではない。恐るべき大胆さで武田軍を翻弄し、虚空蔵山(こくぞうやま)城付近の戦いでは、晴信の命が危険にさらされるほど武田軍を追い込んだのである。
 その戦いの詳細を知るにつれ、氏康も小太郎も、
(これは侮れぬ相手だ)
 と、景虎を見直し、景虎の動静に注意を払うようになったのである。
 晴信と景虎の戦いは北信濃で行われたが、氏康にとっても他人事ではない。
 都で将軍から関東管領への就任と山内上杉の家督相続を承認されたとなれば、いずれ景虎が上野に攻め込んでくるのは火を見るより明らかだからだ。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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