北条氏康 関東争乱篇第四十回

三十

(まだか、まだなのか......)
 四郎左は本陣の周りを落ち着かない様子で歩き回る。さして離れていないところに「毘」の旗が見える。長尾兵の顔を見分けられるくらいの近さだ。
 遠くで大きな叫び声が聞こえる。
 手近にいる小姓をつかまえ、
「あっちで何が起こったのだ?」
 と訊く。
「味方です。味方がやって来ました」
「間に合ったか」
 四郎左がふたつの拳をぎゅっと握り締めたとき、「毘」の旗が動き出すのが見えた。
(突撃するつもりだな)
 四郎左は景虎の意図を察する。幔幕の中に戻ると、槍を手にする。ずっしりと重い。
(わしには無理かな)
 一瞬、不安になるが、騎馬武者を相手にするのに刀は役に立たない。槍でなければ相手の体に届かないからだ。
「勘助!」
 本陣の奥に坐っている信玄が呼ぶ。
「ここに坐れ。軍配者は主の横に控えているものだぞ。軍配者が武器を手にして戦うのは、自分から負けを認めるようなものではないか」
「お許し下さいませ。じっとして、おられませぬ」
 信玄に一礼して、四郎左が表に出ようとしたとき、本陣に乱入してきた騎馬武者と鉢合わせになる。信玄の小姓が斬りかかるが、返り討ちにされてしまう。
(長尾景虎......)
 頭を白い袈裟で覆っているから、すぐに相手が景虎だとわかった。
「御免」
 四郎左が槍を繰り出そうとするが、扱い慣れていないせいか、汗で手を滑らせてしまう。握り直そうとしたとき、景虎と自分の間に別の騎馬武者が割り込んでくる。咄嗟に相手の顔を見る。
「養玉(ようぎょく)か」
「鷗宿(おうじゅく)、おまえ、こんなところで......」
 互いに相手の顔を見つめ合い、一瞬、動きが止まる。
 冬之助の後ろから本陣に走り込んできた長尾兵が四郎左の腹を槍で突く。
「うっ」
 両手で槍をつかみながら、仰向けにばったり倒れる。そこに何人もの長尾兵が乱入してくる。
「天に代わって、汝を誅する!」
 景虎の声が聞こえる。
 冬之助も本陣の奥に馬を進ませようとする。
 しかし、信玄の小姓たちが邪魔をする。
 景虎の姿を探すと、すでに本陣を離れ、善光寺方面に馬を走らせている。景虎の性格を知っているから、もう戦うことを諦めたのだな、とわかる。信玄はどうなったのか、四郎左はどうなったのか、それを確かめたかったが、そんな余裕はない。もたもたしていると武田兵に囲まれてしまいそうだ。
 冬之助は馬の腹を蹴り、景虎の後を追う。

 武田軍の別働隊が到着したことで形勢は逆転、長尾軍は善光寺を目指して敗走し、それを武田軍が追撃した。この追撃戦で、武田軍はおびただしい数の長尾兵を討ち取った。
 武田軍は犀(さい)川の手前で追撃を中止した。別働隊には余力があるものの、長尾軍も善光寺に五千の後詰めが無傷で残っている。
 それに武田軍の本隊は多くの武将たちが討ち死にし、信玄や義信も負傷するという壊滅的な状態だ。別働隊が為すべきことは長尾軍との戦いを続けることではなく、死傷して八幡原に置き去りにされている者たちを収容して海津城に運ぶことであった。
 この日の合戦で、両軍合わせて数千の死傷者が出たと伝えられている。日本の歴史上、稀有な激戦だったと言っていい。

三十一

 九月十日の夜、長尾景虎は髻山(もとどりやま)の麓に急拵えした本陣で首実検を行った。
「次なる首は、武田の軍配者・山本勘助殿」
 呼び出しと共に、この儀式の進行を受け持つ役人が首桶を運んでくる。
 景虎の正面には、首を載せる台が置かれている。
 役人は、首桶に一礼してから、恭しい仕草で首を取り出し、台の上に置く。首は、こびりついた泥や血をきれいに洗い流され、髪も整えられている。
「......」
 景虎は、しばらくその首を見つめてから、ちらりと横にいる冬之助の顔を見る。黙っているので訝しく思ったのだ。
 冬之助は、無表情にうつむいたまま口を閉ざしている。
「うむ。見事だ。この首を取った者には広い領地を与えるぞ。その場所は......まあ、春日山城に戻ってから沙汰するとしよう」
 景虎が言うと、役人が一礼して首を桶に戻して下がる。その後も延々と首実検が続いたが、終始、冬之助は無言だった。

 その夜、冬之助は景虎の寝所を訪ねる。
「お休みのところ、申し訳ございません」
「構わぬ。何となく、おまえが現れるような気がしていた」
「お願いがございます」
「申せ」
「お暇をいただきたいのでございます」
「ほう」
 景虎が目を細めて冬之助を見つめる。
「他家に移るのか?」
「いいえ、他家で軍配者になるつもりはありませぬ。二度と戦に出ることもなかろうと思います」
「軍配者をやめるというのか。坊主にでもなるつもりか?」
「それも悪くないと思っています」
「どうやら本気らしいな」
「はい」
「ならば、無理に引き留めることはするまい。坊主になりたいのであれば、越後に戻ってから、どこか空き寺を探してやろう。いや、そんなけちくさいことを言わず、春日山の近くに新しく寺を造ってやってもいいぞ」
「ありがたきお言葉ではございますが、寺よりも、もっとほしいものがございます」
「何なりと申せ。長い間、おまえには世話になった。おまえは無欲だったから、これまでろくに褒美もくれてやったことがない。望みのものを与えよう」
「ほしいのは、ただひとつ。山本勘助の首でございます」
「何だと? そんなものを、どうするのだ」
「甲府にいる家族の元に返してやりたいのでございます」
「ふうむ......」
 景虎が小首を傾げる。
「山本勘助の首を武田に返すのは構わぬ。誰かに届けさせよう。それでは駄目なのか?」
「わがままばかり申しますが、どうしても自分で届けたいのです」
「ならば、首を届けたら越後に戻ってくればよいではないか」
「身に沁みる、ありがたいお言葉ではございますが、もう戦に出る気持ちにはなれぬと存じます」
「おまえと山本勘助は足利学校で共に学んだ仲だったそうだが、そのせいなのか?」
「嫌な男でしたが、いつも気になって仕方のない男でもありました。?宿と......山本勘助と戦場で腕比べをするのが楽しみで、今まで生きてきたのだと山本勘助の首を見て悟りました。山本勘助が死んだのでは、もう戦をする気にはなれないのです。あの男は......あの男は、わたしの大切な古い友だったのでございます」
 冬之助の目から涙が溢れる。

三十二

 景虎の許しを得たので、冬之助は四郎左の首を受け取って寝所に戻る。夜が明けたら甲府に向けて発つつもりでいる。
 桶から首を出すと、用意しておいた台の上に置く。
 いくらきれいにしたとはいえ、汚れがついていないというだけで、実際の生首というのはかなり見苦しいものだ。皮膚がどす黒く変色し、顔の肉がたるんでいる。腐敗を防ぐために塩漬けにしてあるが、それでも何日か経つと肉が崩れて腐臭を発するようになる。冬之助が甲府行きを急ぐのは、いくらかでも生前の面影が残っているうちに、この首を家族の元に届けてやりたいと思うからであった。
「何という醜い面なんだ。生きているときも不細工だったが、死んでしまったら、もっと不細工になったな」
 茶碗ふたつと酒を用意してある。
 茶碗に酒を注ぎ、ひとつは首の横に置く。
「いい戦だったな」
 四郎左に向かって茶碗を持ち上げると、冬之助が酒を飲む。
「軍配者として、あれほど大きな戦に臨むことができたのだ。これ以上、何も望むことはない。たまたま、わしは生き残ったが、戦場で死んでも悔いはない。おまえも同じ気持ちだろう?」
 また茶碗に酒を注ぐ。
「武田信玄、長尾景虎......二人とも素晴らしい名将だ。それほどの名将の元で軍配者として腕比べをすることができた。実に愉快だ。おまえが死んで、おれは悲しいが、それでも愉快でたまらぬ。足利学校で学び、数多の戦場を生き抜き、軍配者として腕を磨いてきたのは、あの戦いのためだったのに違いない。春に小太郎と戦い、秋におまえと戦った。わしらの宿願はかなった。もう思い残すことはない。だから、わしは軍配者をやめる」
 ふーっと大きく息を吐くと、
「何とか言ったらどうなんだ、この醜男が」
 口では悪態を吐きながら、冬之助の顔は優しく、目は潤んでいる。
 夜更けまで、冬之助は四郎左を相手に独り語りを続けた。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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