北条氏康 関東争乱篇第二十一回

十六
 この年の暮れ、氏康は小田原城に氏政の弟たちを呼び集めた。
 氏政には弟が四人、妹が七人いる。兄が一人いたが、すでに亡くなっている。十六歳で病死した新九郎氏親(うじちか)である。
 養子を含めれば、もっと子供の数は多くなるが、氏康の実子は十三人であった。
 北条氏の特徴のひとつは、肉親同士での争いが皆無だったことである。
 戦国時代には、親が子を殺し、子が親を殺し、兄が弟を殺し、弟が兄を殺し、叔父が甥を殺し、甥が叔父を殺す......そんな身内同士の殺し合いが珍しくない。近しい身内は、最大の味方にも最大の敵にもなり得るという時代なのだ。
 大きな大名家になると、子供それぞれに乳母がつき、教育係がつく。兄弟同士で顔を合わせることも滅多にないから、血の繋がりがあっても、どうしても感情的に疎遠になる。まして異母兄弟ともなれば、ほとんど他人と同じである。兄弟という実感が得られないのだ。
 北条では、それがない。
 もちろん、子供たちには、それぞれ乳母と教育係がついているものの、彼らに任せきりにするのではなく、氏康夫妻が子供たちの教育に深く関わった。共に学び、共に遊び、父と母から慈しまれたことで、兄弟の絆は非常に強い。
 面白いことに、兄弟の中では氏政が最も才に乏しい。無能とまでは言えないが、取り立てて優れたところもない。凡庸なのである。
 父の氏康が氏政を見る目は厳しく、
「こんな者が北条氏の後を継ぐようでは先が思いやられる」
 と嘆いたと言われるが、実際には、氏政は、それほどの愚か者ではない。この時代の戦国武将を見回せば、氏政は、まだ、ましな方である。
 ただ、氏政の弟たちは、いずれも非凡だったから、どうしても氏政は見劣りしたであろうし、己の後継者に向ける目は、他の子たちに向ける目よりも、遙かに厳しかった。
 まだ二十一歳になったばかりの若輩者で、氏康の目から見れば、愚か者に過ぎない氏政が自分の後を継ぐのは、氏康としては心配で仕方なかったらしく、兄弟たちが力を合わせて氏政を支える体制を取りたかったのであろう。自分の考えを伝えて、兄である氏政を敬って支えるように諭すために弟たちを呼び集めた。

 氏康の三男、すなわち、氏政のすぐ下の弟を氏照という。十八歳である。幼名を藤菊丸という。
 氏康は、氏政よりも氏照を買っていたフシがあり、だからこそ、四年前に足利義氏が元服したとき、氏照だけを参列させている。行く行くは義氏を後見させ、房総方面の北条領を任せようと考えたのかもしれない。北条氏の領国すべてを氏政に宰領させるのは心配なので、半分くらいを氏照に預けるのが安心だというわけである。
 だが、氏政が武田信玄の娘を娶り、二人の間に子供が生まれる頃になると、氏政よりも優れた弟を可愛がることの危うさを自戒したのか、氏康は氏照を養子に出すことを決める。
 養子先は、武蔵南西部に威を張る大石氏である。大石氏に婿入りしたことで、たとえ氏政に万一のことがあっても氏照が北条氏の家督を継ぐ可能性は消えた。内紛の火種を、そもそも火が付いていない段階で、氏康は揉み消したわけである。
 氏照の本拠は由井(ゆい)城から滝山城、滝山城から八王子城へと変わり、本拠が変わるにつれ、北条氏における氏照の重みは増した。政治・軍事・外交のいずれにおいても優れた手腕を発揮した。氏康が予見したように、もし氏照が北条氏に残っていたならば、氏政を凌ぐほどの声望を集め、北条氏の家督を奪おうという野心を抱いても不思議はなかった。それほど、氏政と氏照の器量には大きな差があった。
 家督を巡る競争相手ではなく、氏政の家臣という立場がはっきりしたことで、氏照が妙な野心を抱くことはなくなり、その後、生涯を終えるまで氏政を支え続けることになる。死ぬときも一緒であった。

 氏照の三つ下の弟、すなわち、氏康の四男は氏規である。このとき、十五歳である。
 かつて氏康の四男は氏邦だというのが定説だったが、近年の研究の結果、氏邦は五男で、氏規より三つ下の弟だというのが正しいとわかった。
 氏規は、八歳のときに人質として今川家に送られ、二十歳になるまで駿府で過ごした。
 もっとも人質とはいえ、当主の義元は叔父だし、義元の母・寿桂尼(じゅけいに)は祖母で、二人とも氏規をかわいがったから、駿府での生活は、さほど窮屈なものではなかった。形としては人質だが、実際には今川一門と同様に扱われた。
 だからこそ、氏政の家督継承が公にされたとき、他の兄弟たちと同様に小田原城に駆けつけることができた。義元や寿桂尼からの祝いの品を届ける役目も担っていたはずで、本当に人質扱いされていたのであれば、こうはいかない。
 実際、氏規と今川家の関係は深く、そもそも氏規の「氏」は北条氏の通字ではなく、義元の子・氏真(うじざね)の偏諱(へんき)ではないかと言われている。元服も駿府で行われ、烏帽子(えぼし)親は義元が務めた。元服してからは助五郎(すけごろう)と呼ばれたが、「五郎」は今川家の仮名である。今後も氏真を助けよ、という意味を込めて、義元が仮名を与えたのであろう。
 元服は十五歳のときだが、つまり、その年齢で、すでに義元から氏真を支えてほしいと目をかけられ、仮名を与えられるほど氏規の器量は優れていたということなのだ。
 氏規の器量を見抜いたのは義元だけではない。
 氏規の生涯を語るとき、その生涯において最も重要な出来事は徳川家康との出会いであった。
 氏規が八歳で駿府に送られたとき、たまたま隣の屋敷で暮らしていたのが、当時、松平竹千代と名乗っていた家康で、氏規よりも三つ年上の十一歳であった。
 庶民の子ではないし、二人とも人質の身の上だから、勝手気儘に相手を訪ねることもできないし、好きなときに遊ぶことができるわけではない。隣同士だったといっても、それほど頻繁に会うことができたわけではないのだ。
 恐らく、義元に呼ばれて今川館に出向いたときなどに言葉を交わしたり、何かの祝い事の折に、義元の許しを得て、相手の屋敷を訪ねる程度の交流だったであろう。
 しかし、二人の間には友情が芽生え、その友情は氏規が亡くなるまで続いた。
 子供の頃、一緒に遊んだことがある、という程度のことで、その相手を友人として重んじるほど家康はお人好しではない。氏規の誠実さや人間的な魅力がよほど家康の心に響いたからこそ、生涯にわたって、氏規を親しい友として遇したのであろう。
 北条家に戻ってからは、氏政をよく支え、徳川や今川との強い繋がりを生かし、外交面で手腕を発揮することになる。
 豊臣家が台頭すると、豊臣家との交渉も担うようになり、秀吉からも気に入られた。
 小田原征伐によって北条氏が滅んだとき、氏政や氏照、重臣たちは死罪を命じられたが、氏規は赦免され、そればかりか秀吉の直臣として取り立てられ、河内で所領を与えられた。氏規の子孫は狭山(さやま)藩北条家として長く続き、小田原北条氏の名前を継承していくことになる。

 氏康の五男は氏邦である。このとき十二歳で、まだ元服していない。幼名を乙千代丸という。
 氏政、氏照、氏規の三人は父も母も同じだが、氏邦は母が違う。庶出の異母兄弟なのである。
 氏邦は、この前年の永禄元年、武蔵北部における最大の豪族、藤田氏に婿養子に入っている。妻は七歳年上で、氏邦が元服前だったせいもあり、実際の婚礼は五年後、氏邦が十七歳のときに行われた。
 庶出でもあるし、他家に養子に出されたこともあって、北条氏における氏邦の立場は、他の兄弟たちに比べると、さほど重くなかった。
 しかし、齢を重ねるにつれて重みを増し、四十になる頃には、氏規よりも上、氏照と同じくらいの立場に位置付けられている。武蔵と上野を支配するに当たって、氏邦の果たす役割が大きくなっていたせいである。それだけ非凡だったのだ。

 氏邦の下にも西堂丸という庶出の弟がいるものの、このとき、まだ六歳の幼児だったので、兄弟の集まりには呼ばれていない。

 氏康と氏政が上座に並んで坐り、下座に氏照、氏規、氏邦が控える。
「これからは兄というだけではない。おまえたちの主になる。兄弟が力を合わせて、新九郎を盛り立てていかなければならぬぞ」
 氏康が諭すように言うと、
「心得ております。兄として敬うだけでなく、御屋形さまとして衷心より仕える覚悟でございます」
 年長の氏照が両手をついて頭を垂れると、
「わたしたちも同じ気持ちでございまする」
 氏規と氏邦も恭しく頭を下げる。
「おお、何と頼もしい言葉であることか。よろしく頼むぞ。どうか、わしを助けてくれよ」
 氏政は席を立って弟たちに近付き、それぞれの手を順繰りに取って、よろしく頼むぞ、と何度も声をかける。
 氏政の目には涙が光っている。
 北条氏の家督を継ぐという重圧に押し潰されそうになり、心細くてたまらないのだ。氏政にとっては、本心から弟たちが頼りなのであった。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー