北条氏康 関東争乱篇第二十九回

 十月初め、河越城の氏康のもとに驚くべき報告がもたらされた。
 岩付城の太田資正が叛旗を翻したというのだ。
「まさか......」
 氏康は信じられない気持ちだったが、その報告に続いて、岩付城にいた北条兵が続々と河越城に現れたので、謀反が事実だと認めないわけにはいかなかった。
 彼らは資正からの伝言を氏康にもたらした。
 それによると、本当であれば、岩付城にいる北条兵は皆殺しにするべきだが、かつて資正が氏康に降伏したとき、氏康が自分に敵対した者たちを助命してくれた恩を返すために、敢えて誰も殺さず、河越城に向かうことを許す、というのであった。
「まずい、まずいぞ、これは」
 小太郎、氏政、新之助の前で、珍しく氏康はうろたえた。
 無理もない。
 この十二年、資正は氏康に誠実に仕えてきた。国衆として北条氏を支えてきたのである。
 松山城、河越城、岩付城の守りが堅固だったおかげで、武蔵北部は安定した。
 しかも、岩付城は下野と下総にも睨みを利かせられる場所にある。戦略的な要衝なのだ。
 遠からず、長尾景虎が南下してくることを氏康は想定しているが、景虎が武蔵に攻め込んできたとき、それら三つの城が連携して景虎を食い止めようというのが、氏康と小太郎の描いている構想であった。
 資正が寝返れば、その構想が根本から崩れる。
 いや、崩れるだけでは済まない。
 岩付城は河越城の東、松山城の南東に位置しているから、景虎が南下したとき、それに呼応して資正が兵を動かせば、河越城と松山城が一気に危険になる。特に松山城は挟み撃ちにされる怖れがある。
「やはり、あの男、裏切りましたな。許せぬ」
 氏政が拳で板敷きをどんと叩く。
「やはり、とはどういう意味だ?」
 氏康が訊く。
「元々、扇谷上杉に仕えていた男ではありませぬか。父上の恩情で命が助かり、岩付城まで預けられたのに、心の底では裏切る機会を窺っていたのに違いありませぬ。のう、新之助?」
 氏政が新之助を見る。
「白井城や惣社城が次々と長尾に寝返ったのを見て、いずれ太田も寝返るのではないかと心配しておりました。長尾勢には山内の御屋形さまも同行しているようでございますから」
 新之助がうなずく。
「太田殿は山内上杉に仕えていたわけではない。扇谷上杉に仕えていたのだ。扇谷上杉が滅んだから当家に仕えただけのこと。何もおかしなことはない」
 小太郎が口を挟む。
「しかし、その扇谷上杉を滅ぼしたのは北条なのですから、太田が北条を恨むのは当たり前ではありませんか」
 新之助が言い返す。
「それを恨むのは筋違いというものだ。勝った者が生き残り、負けた者が消える。今の世の常ではないか。太田殿を召し抱えたとき、わしと御屋形さまが二人でじっくりと人柄を吟味した。その上で、この男になら岩付城を任せることができると判断した。その判断が間違っていたとは思わぬ」
「しかし......」
「待て。この期に及んで太田を召し抱えたことが正しかったかどうか、そんなことを話しても仕方がない。肝心なのは、これからどうするか、ということだぞ」
 氏康が新之助の発言を遮る。
「すぐに岩付城を攻めましょう」
 氏政が言う。
「攻める? 太田を討つというのか」
 氏康が訊く。
「裏切り者を放置することはできませぬ。厳しく対処しなければ、太田を真似る者が現れましょう」
「岩付城は堅固な城だぞ。そう簡単に落とすことができるのか?」
「簡単ではないかもしれませぬが......」
 氏政が口籠もる。
「城攻めに手間取っている間に長尾が武蔵に攻め込んで来たら、どうするつもりなのだ?」
「すぐに武蔵に入るのは無理でしょう。平井城があるのですから」
「平井城で長尾を食い止められると思うのか?」
「いずれ落ちるにしても、ひと月やふた月くらいは......」
「持ちこたえられるか?」
「そう思いますが」
「そうか。それが、おまえの見立てなのだな。新之助、おまえはどう思う?」
 氏康が新之助に顔を向ける。
「敵がどれくらいの数で攻めて来るかにもよりますが、若殿のおっしゃるように、ひと月くらいは持ちこたえることができると思います」
 新之助が答える。
 しかし、どこか自信を持てないのか、目に落ち着きがない。
「なるほど、では、小太郎にも訊いてみよう」
「恐らく、一日も持たぬでしょう。そもそも戦にはならぬと存じます」
「え」
 氏政と新之助が驚きの声を発する。
「それは、どういう意味なのだ? 戦にもならぬとは......」
 氏政が訊く。
「上野の主立った豪族たちは、競い合うように長尾のもとに馳せ参じております。そうしなければ、長尾に攻め潰されると怖れているのでしょう。平井城には北条の者だけが立て籠もっているわけではありませぬ。半分くらいは上野に領地を持つ豪族の家臣たちです。長尾勢が城に押し寄せれば、その中には自分たちの血縁の者がたくさんいることに気が付くでしょう。となれば......」
「内応するというのか?」
「そこまではわかりませぬが、戦う気持ちはなくすのではないでしょうか。今や長尾の軍勢は二万を超えていると言いますし、それほどの大軍が押し寄せてくればやる気も失せるでしょう。長尾勢に身内がいれば、それを伝手に自分は助かりたいと思うのではないか、と」
「ならば、裏切る怖れがある者たちを城から出して、北条の者だけで城を守ればよいではないか。のう、新之助、そう思わぬか?」
 氏政が新之助に訊く。
「理屈では、それが正しいとは思いますが......」
 新之助の返事は歯切れが悪い。
「どういうことだ?」
「よく考えてみるがいい」
 誰にでも簡単にわかることなのに、なぜ、氏政にはわからないのか、と氏康が溜息をつく。
 飯を食うときに、氏政が汁を何杯も注ぎ足すのを見て、北条家の先行きを氏康が嘆いたという有名な挿話は、こういう氏政の思慮の浅さから生まれたのであろう。
「ふうむ......」
 氏政が腕組みする。
 まだ、わからないらしい。
「難しいことではない。平井城から豪族どもの兵を追い出して、代わりに北条の兵を入れると言うが、その兵をどこから連れてくるつもりなのだ?」
 痺れを切らして、氏康が訊く。
「兵ならば、ここにいるではありませんか」
 氏康が久留里(くるり)から率いてきた軍勢は五千、その後、各地から兵が集まり、七千近くまで増えた。そこから二千ほどを平井城、鉢形城、松山城などに送ったから、今、河越城には五千の兵が残っている。
「どれくらいの兵を送るというのだ?」
「平井城に二千では、どうでしょうか?」
「すると、ここには三千しか残らぬことになるな」
「そうですが、肝心なのは、長尾勢を武蔵に入れぬことなのですから......」
「岩付の太田は、どうするのだ? 攻めるのではないのか」
「もちろん、攻めなければなりませぬ」
「岩付城を攻めるのに三千の兵を連れて行けば、この河越城が空になってしまうぞ」
「いや、それは......」
 氏政が首を捻る。自分の計算が何かおかしいと気が付いたらしいが、具体的に何が間違っているのか、まだわからないようである。
「汝は、ふたつの点で間違っている」
「ふたつ、ですか?」
「そうだ。ひとつは、平井城に援軍を送ること、もうひとつは、岩付城を攻めることだ。小太郎、説明してやるがよい」
 氏康が小太郎に顔を向ける。
「河越城には五千の兵がおりますが、これを動かすことはできませぬ。いや、動かしてはならぬのです。なぜなら、長尾勢が武蔵に攻め込んできたとき、松山城や岩付城と共に長尾勢を迎え撃つための兵だからでございます」
「しかし、岩付城は......」
「黙って聞くのだ」
 氏康がぴしゃりと言う。
「......」
 氏政が口を閉ざす。
「平井城で長尾勢を食い止めようとするのであれば、一千や二千の兵を送っても無駄なのです。どうしても兵を送るというのなら、御屋形さまが五千の兵を率いて行くしかありませんが、そうなれば、長尾勢と決戦になります」
「われらが負けるというのか?」
「負けます。そこで長尾勢に敗れ、御屋形さまの身に何かあれば、北条氏は滅び去ってしまうでしょう。そんな危ない橋を渡ることはできませぬ。それ故、平井城には兵を送らず、あくまでも松山城、河越城、岩付城の三つの城で長尾勢を食い止めなければならぬのです」
「確かに、敵の数は多い。だが、かつて両上杉や古河公方が河越城を囲んだとき、一万にもならぬ軍勢で八万という敵軍を打ち破ったではないか。それを考えれば......」
「相手が違うのだ」
 氏康が拳で床をどんと叩く。
「これまで長尾と手合わせしたことがないから、どれくらい強いのかわからぬ。しかし、武田の強さはわかっている。その武田と互角の戦いを続けているとなれば、長尾は武田と同じくらい強いと考えなければならぬ。それほど強い敵がわれらをはるかに上回る軍勢で押し寄せてくるのだ。まともに戦えば負ける。わしは討ち死にするであろうよ」
「......」
 氏政が言葉を失う。顔からは血の気が引いている。
 まさか、今の状況がそこまで危機的であるとは思っていなかったらしい。
「平井城に援軍は送らぬ、岩付城も攻めぬ......そのお考えはよくわかりました。しかし、太田をこのままにはできぬと存じますが、どうなさるおつもりなのですか?」
 新之助が訊く。
「説得するしかあるまい」
 氏康が答える。
「当家を裏切って長尾に寝返った者を説得しようというのですか?」
 氏政が両目を大きく見開く。
「そうだ。説得するのだ。今のわしらには岩付城を攻める余裕はないし、岩付城が長尾に味方すれば、河越城も松山城も危うくなる。何としてでも翻意させるしかない」
「うまくいくとは思えませぬ」
「そうだとしても、やるしかないのだ。もちろん、ただ説得するだけでは駄目だろう。翻意すれば、今まで以上に厚遇すると説くのだ」
「一度裏切った者を厚遇するのですか?」
「より多くの領地を与えなければなるまい」
「ええっ......」
 氏政が驚愕する。
 本来、討伐しなければならない反逆者に領地を与えようというのだから、その気前のよさに氏政が驚くのも無理はない。
 しかし、裏返して考えれば、そうまでして資正を翻意させなければならないほど氏康が追い込まれているということなのだ。
「噂の類なので、どこまで本当かどうかわからないのですが......」
 小太郎が口を開く。
「ん?」
「美濃守殿とご嫡男の仲は、あまりよろしくないということでございます」
「ほう。いくつだったかな?」
「十九でございます」
「十九か......」
 ふむふむと氏康がうなずく。
 小太郎の言うように、資正の嫡男・源五郎氏資(うじすけ)は十九歳である。氏康の娘を娶り、「氏」の一字を偏諱(へんき)として賜っているほどだから、半ば北条一門として遇されていると言っていい。
 扇谷上杉氏に仕えていた父の資正は、その扇谷上杉氏を滅ぼした北条氏に仕えるという複雑な事情を抱えているが、嫡男の氏資は、そうではない。物心ついたときには、岩付の太田氏は北条氏に仕えていたから、ごく自然に自分は北条氏に忠義を尽くさなければならぬと思っているし、氏康の娘を娶り、偏諱を賜るほど手厚く遇されているから、氏康に対する忠誠心も強い。
「ならば、美濃守だけでなく、息子の方も説得しなければならぬな」
「しかしながら、岩付を牛耳っているのは美濃守殿ですし、頑固な方ですから、ご嫡男の言葉にも耳を貸すとは思えませぬ」
「そうだとしても、彼の者に対するわしの信頼が揺らいでいないと伝えるのは無駄ではあるまいよ」
「はい」
「さて、岩付への使者だが......」
 氏康が新之助に顔を向ける。
「その方、行って参れ。美濃守だけでなく、嫡男にも会って話をしてくるのだ」
「は」
 新之助が畏まって頭を下げる。
「父上、危ないのではありませぬか?」
 氏政が懸念を示す。
「何が危ないのだ?」
「太田は新之助を虜にするかもしれませぬ」
「太田がどうするかはわからぬ。しかし、この役目は、わしの考えをしっかり伝えられる者にしか任せることができぬ。どうだ、新之助、行ってくれるか?」
「お任せ下さいませ」
「これから太田に書状を書く。書き終わったら、すぐに出立してもらう。急いで支度をするのだ」
 氏康がうなずくと、新之助が席を立ち、そそくさと部屋から出て行く。
「その方も下がれ。わしは小太郎と話がある」
「はい」
 氏政も部屋から出て行く。
 後には、氏康と小太郎の二人だけが残る。
「言いたいことがありそうだな」
「新之助には荷が重すぎる気がします」
「心配する気持ちはわかるが、新之助も一人前だ。うまくやり遂げるだろう」
「わたしが行ってはいけませぬか?」
「それができるくらいなら、そう命じている。おまえには、そばにいてもらわなければならぬ。それに、無理をさせたくないのだ。具合が悪いのであろう?」
「大丈夫でございます」
「大丈夫という顔ではないぞ。長生きしてもらわなければ、わしが困るのだ」
「......」
 そう言われると、小太郎も何も言えなくなってしまう。
 長尾軍がどういう動きをするかわからないから、どんな場合にも臨機応変に対応する必要があるが、そのためには、小太郎は氏康のそばにいなければならない。
 体調が悪いのは事実である。
 岩付まで旅して、資正に説得して翻意させるには、気力も体力も必要だが、今の小太郎には、気力はあるにしても体力がない。
 氏康の言うように、新之助に任せるのがいいと頭ではわかるが、それでも息子が虎口に飛び込むような危ない真似をするのを黙って見ていることはできなかった。親心というものであろう。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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