北条氏康 関東争乱篇第三十四回

十五

「なるほど......」
 景虎が大きくうなずく。
 小田原城がいかに巨大で、しかも、堅牢なのか、冬之助が事細かに説明したところである。
 しかし、景虎の表情には、さしたる驚きもない。
 かえって冬之助の方が、
(御屋形さまは、どうなされたのであろう)
 と怪訝な顔になったほどだ。
「何か策を思いつかれたのでしょうか?」
「策? いや、別にないようだ」
「では......」
「おまえの言いたいことはよくわかった。おまえほどの軍配者が、小田原城を攻め落とすことはできぬと言うのだから、それが正しいのであろうよ」
「ならば......」
「まあ、待て」
 景虎が片手を挙げて、冬之助の発言を制する。
「たとえ小田原城を攻め落とすことが難しく、無理攻めすれば手痛いしっぺ返しを食うことになるとしても、それでも、やはり、一度は攻めなければならぬのだ。ここまで来て、城の守りが堅そうだから攻めるのを止めると言えば、わしを笑う者もいるだろう。そんなことは我慢できぬ。わしは小田原殿に鉄槌を下す。今まで犯してきた悪事の報いを受けさせるのだ。小田原城がおまえの言うように堅牢ならば、じっと閉じ籠もっていれば、小田原殿は安泰だろう。それでも構わぬ。小田原殿はわしを怖れて城から一歩も出ることができなかった、何という臆病者よ、と世間の者たちは小田原殿を嘲笑うであろう。それでよい。城を落とすことができなくても、わしは小田原殿に勝つのだ。そうして、わしは鎌倉で山内上杉の家督を継ぎ、関東管領に就く」
「そこまでお考えならば、これ以上、何も申しませぬ」
 景虎が短気で血の気が多いことは、冬之助も承知している。小田原城を攻めあぐねて腹を立て、執拗に総攻撃を続けるような事態になれば、城を落とすどころか、城方に反撃されて負けることもあり得ると危惧していた。
 しかし、意外にも景虎は冷静で、一度は小田原城を攻めるものの、無理攻めはせず、すぐに鎌倉に取って返すという考えを持っていることがわかった。
 それならば、冬之助がとやかく言うことはない。景虎の言うように、一度は小田原城を攻めることは、軍事的にはあまり意味がないとしても、政治的には大きな意味を持つはずであった。北条氏康を屈服させた武将として、景虎の名前が天下に知れ渡ることになるはずである。

十六

「やはり、長尾景虎はやって来たのう」
「はい」
 氏康の言葉に小太郎がうなずく。
 小太郎のそばには息子の新之助が付き添っている。もはや一人では氏康の前に伺候できぬほど弱っているからである。
 三月下旬、長尾景虎率いる九万六千の大軍が小田原近郊に現れ、小田原城を包囲した。
 景虎は酒匂(さかわ)川の畔に本陣を置いた。
「配下の者たちが何度も偵察に来て、どれほど小田原城が守りを固めているかよくわかったはずなのに、それでも攻めるつもりらしい」
 ふんっ、と氏康が鼻で嗤う。
「十万の軍勢があれば、どんな城でも容易に落とすことができるという自信があるのでしょう」
 小太郎がうなずく。
「本当に大丈夫なのかのう。確かに城の守りは堅い。それでも敵は十万だ。どこか一箇所でも突破されて城に入り込まれたら終わりだぞ」
 氏政が懸念を口にする。
「おっしゃりたいことはわかります。ただ、わたしが思うに、弾正少弼殿は城攻めは得意ではありません。野戦になれば、武田殿ですら苦戦するほどの強さを見せますが、城攻めでは、これといって目立った成果を上げたことはないはずです。一度か二度は総攻撃を仕掛けてくるでしょう。城攻めに苦戦し、兵を退くような動きを見せるかもしれませんが、それは、われらを城から誘き出すための罠です」
「何が何でも野戦に持ち込もうという腹か?」
「はい。それ故、われらは絶対に城から出てはならないのです。敵は大軍であるが故に、日々の食糧の調達に苦労しているはずです。どうせ長く滞陣することはできぬのです」
「それはわかるが......」
 氏政が氏康に顔を向ける。
「しかし、一度くらい弾正少弼殿と手合わせしないと、父上の名に傷がつくのではないでしょうか」
「名だと?」
 氏康が驚いたように氏政を見つめる。
「おまえは、そんなものが大事だと思うのか?」
「武士にとって己の名より大切なものはないと存じます」
「なるほど、一介の武士であれば、そうであろうよ。しかし、北条家の当主にとっては名より大事なものがあるのだ。領民の暮らしを守っていくこと、それこそが最も大事なことで、他はどうでもよいのだ。それがおじいさまや父上の教えだ。おまえも胸に刻むがよい。わしは名より実を取る」
 何の迷いもなく氏康が言い切る。

 その翌日、景虎は小田原城への攻撃を開始した。
 九万六千の軍勢が一斉に襲いかかったのである。
 景虎は自ら軍勢の先頭になって馬を走らせる。
 兜を被らず、頭を白の五條袈裟で包んだ裹頭(かとう)姿で、騎乗しているのは黒光りする漆黒の駿馬だ。
 これだけでも目立つのに、鎧も派手で、金箔を貼った札を紅の糸で綴り合わせた大袖がついている。日の光を浴びると、きらきらと光るので遠くからでもよく見える。鎧の上には、萌黄色の緞子(どんす)に「竹に飛雀」を縫い取りした具足羽織を着ている。
 敵からも味方からも、景虎がどこにいるか一目瞭然という格好なのである。
 そんな派手な姿で陣頭に立ち、休みなく馬を走らせながら兵を叱咤する。
 総大将が倒れれば戦況が一気に逆転するというのは、この時代の戦の常識で、例えば、桶狭間の戦いでは、絶体絶命だった織田信長が今川義元を討ち取ることで勝利を手にしている。
 それ故、普通、総大将が最前線に出ることはあり得ない。最後尾の安全な場所に本陣を置くのが常識なのである。
 その常識は景虎には通用しない。
 誰よりも小田原城に近い場所で、誰よりも目立つ格好で、平気な顔で馬を走らせる。
 当然ながら、北条兵は弓矢や鉄砲で執拗に景虎を狙う。景虎を倒せば勝てるのだ。
 ところが、まったく当たらない。
 かすりもしないのである。
 常々、
「わしは毘沙門天の庇護を受けている」
 と公言しているし、景虎の武威を怖れる者たちは、
「弾正少弼殿は毘沙門天の化身であろう」
 と畏服(いふく)しているが、この日の北条兵たちも、
「なぜ、こんなに近くにいるのに当たらないのだ?」
「矢が降り注ぎ、銃弾を浴び続けているのに、まるで矢や銃弾が弾正少弼殿を避けているようだ」
「まさしく毘沙門天の化身なのではあるまいか」
 と動揺した。
 北条兵が萎縮するのと対照的に、長尾兵は景虎の指揮に鼓舞され、小田原城に殺到する。
 ついには外堀を越えて、小田原四門のひとつ、蓮池門に殺到した。
 四門のうちでも最も重要な門なので、ここには重臣筆頭・松田憲秀と長老・大道寺周勝(かねかつ)が守りを固めていた。
 二人は門を固く閉ざし、ひたすら弓矢と鉄砲で敵の攻撃を防いだ。
 門の外には敵兵が密集しているから、狙いなど定めずに矢を射たり鉄砲を撃てば、誰かに当たるという状況である。
 にもかかわらず、精神的には明らかに北条兵が押されている。目を瞑って撃っても誰かに当たるほどなのに、景虎には当たらないからである。景虎に対する怖れが北条兵の気力を萎えさせたのだ。
 だが、怖れを感じているのは北条兵だけではなかった。
 景虎が率いる九万六千の軍勢も景虎を怖れ始めている。
 なるほど景虎は不死身かもしれないが、他の者はそうではない。
 蓮池門の前で立ち往生して身動きが取れなくなった兵たちは、次々に北条兵の餌食になっている。
「このままでは御屋形さま以外の者は皆殺しにされてしまうのではないか」
 と心配になってきた。
 暗くなってきたので、ようやく景虎は兵を退くことを命じた。結局、猛烈な攻撃を仕掛けたにもかかわらず、景虎の兵はただの一人も小田原城に足を踏み入れることができなかった。
 夜が明けると、蓮池門の前には前日の戦いで死んだ者たちの死骸が山のように積み重なっている。
 その死骸の山を、長尾方も北条方も不安そうな目で見つめる。
 長尾方とすれば、またもや無謀な総攻撃を命じられ、自分も死ぬのではないかと怖れ、北条方は、死骸の山が大きくなっていけば、それを足がかりにして門を乗り越えられてしまうのではないかという怖れである。双方共に普通ではあり得ないような怖れを感じていたわけである。
(何ということだ......)
 朝日に照らされる死骸の山を、冬之助は呆然と見つめる。
 正確な数はわからないものの、少なくとも一千、もしかすると、二千くらいの兵が蓮池門の前で死骸になったのではなかろうか。
 大変な数である。
 九万六千のうちの一千や二千だと思うから大したことがないような気がするが、たった一日の戦いでこれだけの戦死者が出るというのは異常事態である。
 昨日と同じように単純な突撃を繰り返せば、今日も同じくらいの死者が出るであろうし、こんなことを五日も続けたら、全軍に動揺が走り、収拾が付かなくなる、と冬之助は危惧する。
(御屋形さまは、どうなさるのか?)
 昨日から景虎とは話をしていないので、景虎の考えがまったくわからない。
 それもまた普通ではあり得ないことで、総大将と軍配者は本陣にいて、戦況に応じて柔軟に対応策を相談するものだが、何しろ、景虎が最前線に出てしまうので、冬之助は景虎と意思疎通ができない。
 戦の後は、
「今日は疲れた。わしは寝る」
 と、大酒を飲んで、さっさと寝てしまった。
 冬之助は、やきもきしながら一晩過ごした。
 今日も総攻撃するという考えなら、何としてでも止めようと思っている。
 やがて、景虎が現れる。
「お」
 思わず、冬之助の口から声が洩れる。
 景虎の出で立ちが昨日とは違うのである。
 地味な軽装である。戦をしようという姿ではない。
「冬之助」
「は」
「鎌倉に行くぞ。城攻めは終わりにする」
「よきお考えでございます」
 冬之助が頭を垂れる。
「わしは先に行く。おまえは後からゆっくり来ればいい。万が一、小田原殿が城を出て追ってきたら、すぐに知らせろ。戻ってくる」
 景虎が白い歯を見せて笑う。
(御屋形さまは、まさしく戦の神であられる)
 背後から朝日を浴びて微笑む景虎の姿を見つめながら、冬之助は心から感動する。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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