北条氏康 関東争乱篇第二十三回

 八月二十六日、長尾景虎は春日山城から出陣した。
 いつもの景虎であれば、わずかの小姓だけを引き連れて城から飛び出し、それを兵たちが追いかけ、景虎が指示した場所で集結するというやり方をするが、今回は違う。
 すでに城下に八千もの大軍が集結している。
 その大軍を率いて、堂々と出陣しようというのだ。
 なぜ、こんな儀式張ったやり方をしたのかといえば、この戦に上杉憲政を同道させるからであった。
 北条氏に逐われ、憲政が上野から越後に逃れてきたのは八年前のことである。その間、景虎の顔を見るたびに、まるで念仏でも唱えるかのように、
「いつ上野に出陣してくれるのか。早くしてもらいたい」
 と懇願を繰り返した。
 景虎の気を引くために、上杉の家督と関東管領職を譲りたいという申し出をした。
 去年の春、景虎は上洛し、将軍・足利義輝から上杉の家督継承と関東管領就任を許された。
 それを踏まえ、ついに景虎も腹を括って、関東遠征を決めた。
 すぐに関東に出陣できなかったのは、後顧の憂いを断つために、まず越中に兵を入れる必要があったからである。
 富山城を本拠とする神保良春は、これまでも景虎が信濃に攻め込み、越後を留守にするたびに、越中と越後の国境付近で兵を動かし、場合によっては春日山城を攻めるぞという不穏な動きを見せていた。
 武田と手を結んでいたのである。
 神保良春には、越後全体を奪い取るほどの力はないが、国境を越えて攻め込み、頸城(くびき)郡を荒らし回る程度の力はある。
 景虎が越後を留守にして、守りが手薄になっているときであれば、本当に春日山城を脅かされる怖れもある。
 景虎は神保良春など歯牙にもかけていないが、だからこそ、そんな男に春日山城を奪われるなど、絶対に許すことはできない。
 関東に遠征するとなれば、長期間、越後を留守にすることになる。神保良春にうろうろされたのでは落ち着いて北条氏と戦うことができないから、まず、神保良春を打ち負かしてやろうと考えた。
 この年の三月二十六日、景虎は三千の兵を率いて越中に攻め込んだ。国境付近には神保良春が同じく三千の兵で待ち構えていたが、一撃で神保軍を粉砕した。
 恐怖した神保良春は兵たちを置き去りにし、わずかの近習を連れて戦場を離脱した。
 景虎の凄まじいところは、敗走する神保軍を追い越して富山城に殺到したことである。足軽などに用はない、狙うのは神保良春の首ひとつだけだ、という強い意思の現れであった。
 景虎に率いられた騎馬隊の行軍速度が速すぎるために、神保良春が富山城に入った直後、景虎も富山城に乱入した。馬鹿な話だが、門番たちは、神保良春に続いて城に近付いてきた景虎の騎馬隊を味方だと勘違いして門を閉めなかったのである。
 城内は大混乱に陥り、神保良春は鎧を脱ぐ暇さえなく、裏門から逃げ出した。それを知った景虎は富山城に火を放ち、直ちに良春を追撃した。
 神保良春は増山城に逃げ込んだ。付き従う近習は、たった三人だったという。
 景虎は味方が追いつくのを待って、増山城を攻撃した。攻撃は昼夜を分かたず、間断なく続けられた。
「降伏しなければ、城を丸焼きにして皆殺しにする」
 そういう内容の矢文が城内に放たれ、怖れをなした者たちが夜に紛れて城から逃げ出した。
 ついに神保良春は白旗を掲げ、景虎に膝を屈した。
 景虎は、わずか五日で越中を制した。
 神保良春は景虎の前に引き出された。
 景虎は神保良春の首を刎ねるつもりだったが、額を地面にこすりつけて這いつくばり、
「お許し下さいませ」
 と哀願する神保良春を見ているうちに気が変わった。
「以後、決して武田に合力せぬと誓うか?」
「誓えば、どうなりまする?」
「命を助けよう」
「他には?」
「何もない。それだけでよい」
「ならば、誓いまする」
「武田に合力せぬと誓うのだな?」
「はい、武田には二度と合力いたしませぬ」
「その言葉を忘れるな」
 景虎は神保良春を許し、春日山城に戻った。
「おおっ、戻ってくれたか」
 憲政が満面の笑みで景虎を迎えた。
 内心、
(そう簡単に越中を制することができるのか)
 と、憲政は疑心暗鬼だった。越中で手間取れば、関東遠征がまた先延ばしになる。越中などどうでもいいから、さっさと上野に向かってくれ、というのが憲政の本音だった。
 景虎の不在中、憲政は溜息ばかりついていたのである。そこに景虎が戻って来たのだから、憲政が喜ぶのは当然であった。
「支度が調い次第、関東に向かいまする」
 そう景虎は約束し、遠征の準備を始めた。
 関東で年を越すつもりだったし、引き連れていく兵の数も多くなりそうだから、準備には時間がかかった。
 八月になって、ようやく準備が調い、この日の出陣を迎えた。
 景虎は行軍の先頭をゆるゆると騎馬で進んでいく。
 すぐ後ろには冬之助がいる。
 冬之助は越中には出陣していない。
 景虎が、
「おまえは来なくていい」
 と言ったからだ。
 神保良春など、わし一人で片付けてくる、おまえには他にやってもらいたいことがある、というのである。
 景虎が関東に兵を入れるのは初めてだ。上野との国境付近で小競り合い程度の戦をしたことはあるが、本格的に攻め込むのは、これが最初になる。地理にも疎いし、どういう城があるのかもよく知らない。城の守りが堅いかどうか、その城を守る者が戦上手なのかどうかもまったくわからない。知らないことばかりなのである。
 景虎が冬之助に命じたのは、情報収集と上野に攻め込むに当たっての戦略を練ることであった。どういう進路で進み、どういう順で城を落としていくべきか、その下調べをしろというのである。軍配者としての冬之助の力量を認めているからこそ、そんな重要な仕事を任せたのだ。
(ついに上野に戻るのだ)
 冬之助も感慨深いものがある。
 越後に来て、初めて景虎に会ったのが天文十七年(一五四八)の年末だから、かれこれ、十二年も前のことになる。家督を相続したばかりの景虎は、わずか十九歳の若者だった。
 河越城を巡る攻防戦で北条氏に敗れ、冬之助の主家・扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏は滅亡した。
 冬之助の気持ちとしては、主家に殉じたかったが、死にきることができず、どういう運命のいたずらか越後に根を生やし、今では景虎の信頼の厚い軍配者になっている。
 冬之助とすれば、若い頃からの宿敵である北条氏にいよいよ一矢報いるときが来たという思いなのである。
 冬之助がちらりと後ろを振り返る。
 遠くに憲政の姿が見える。
 馬首を並べているのは桃風(とうふう)だ。
(馬鹿な奴らだ。のんきな顔をしおって)
 かつて冬之助は桃風のせいで命の危険にさらされたことがある。憎んでも憎み足りない仇敵なのだ。
 桃風とて馬鹿ではないから、冬之助の感情を理解している。
 憲政と共に越後で暮らすようになってから、冬之助の目に留まらぬように、あたかも憲政の影のように息を潜めて生きてきた。あまりにも地味なので、冬之助も桃風の存在を忘れてしまいそうになったほどだ。
 北条氏に上野を奪われて越後に亡命し、山内(やまのうち)上杉の家督と関東管領職を景虎に譲ったことで、憲政の政治生命は終わったと言っていい。
 とすれば、憲政の軍配者である桃風も死んだも同然のはずである。
 が......。
 そうではなかった。
 死んだ振りをしていただけなのである。
 どこで耳にしたのか、冬之助が上野の諸城に関する情報を集めていると知るや、桃風もせっせと同じことを始めた。
 景虎が戻ってからは、憲政が景虎に会うときには必ず同座し、物知り顔に上野の情勢を語っているという話も耳にしている。
 冬之助は別に腹も立たない。
 桃風の言葉に耳を貸すほど景虎は愚かではないと思っているし、もし景虎が桃風を重んじるようなら、それは仕方がないと達観している。
 主家である扇谷上杉氏が滅んだとき、冬之助も何かを失った。心にぽっかりと大きな穴が空いたのである。出世したいとか、功名を立てたいとか、財産がほしいとか、そういう世俗的な欲望がきれいさっぱりなくなってしまった。人を羨んだり嫉妬することもなくなったから、桃風の卑俗な行動を知っても、心が波立つことはない。
 ひとつだけ腹立たしいことがあるが、それは自分のためではなく景虎のために腹を立てているのである。
 関東管領でもなく、山内上杉の当主でもなくなった憲政は過去の人である。政治的にも軍事的にも何の力もない。そうであれば、景虎と共に上野に出張ってくる必要はない。越後に残って戦況を見守ればいいのだ。
 にもかかわらず、やたらに張り切って軍勢に同道し、桃風も怪しげな動きを見せている。
 それは何を意味するのか?
 自分自身が無欲であるために、冬之助は欲深い者たちの魂胆を見抜くことができる。
 越後で憲政は立派な屋敷をもらって厚遇されているが、それだけでは満足できないのであろう。
 上野に戻りたいという気持ちは、冬之助もわからないでもない。
 しかし、戻るにしても、景虎が上野を北条氏から奪った後で、せいぜい、どこかに小さな城をひとつもらって静かに暮らす......その程度のことを望むのが普通ではないか、と思うのだ。
(国主に返り咲くつもりでいるな)
 小さな城どころか、恐らく、憲政は上野一国を景虎からもらうつもりでいるのに違いなかった。
 さすがに山内上杉の家督を返してくれとか、関東管領に戻りたいとは言えないだろうが、上野の国主に任じてほしいというくらいのことは言うのではなかろうか。
 景虎は都にいる将軍や天皇にも顔が利くし、関白・近衛前嗣(このえさきつぐ)は景虎を慕って、もうすぐ越後に下ってくることになっている。
 景虎がその気になれば、憲政を上野の国主に任じてもらうのは、さして難しいことではない。
 そう考えると、桃風が熱心に上野の情勢を調べているのも、景虎のためではなく、自分たちのためではないのか、と勘繰りたくもなる。
(御屋形さまは欲がなさすぎるのだ)
 無欲な冬之助の目から見ても、景虎は無欲なのである。現に神保良春を打ち破って越中を支配することが可能になったのに、あっさりと神保良春を許してしまった。そんな景虎だから、上野を征した後、憲政に泣きつかれたら、上野を与えてしまうのではないかと心配になるし、景虎の無欲につけ込もうとする憲政と桃風の貪欲さに腹が立つ。
(好きにするがいい。御屋形さまは欲のない御方だが、愚かではない。それに欲深い者が大嫌いなのだ)
 これまで越後で謙虚な振りをしていた憲政と桃風が本来の貪欲さをむき出しにしたとき、景虎がどんな反応をするだろう......そう考えて、冬之助はにやりと笑う。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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