北条氏康 関東争乱篇第三十一回

十二

 長尾景虎は厩橋(まやばし)城で新年を迎えた。
 永禄四年(一五六一)である。
 ひと月以上、景虎は戦らしい戦をしていない。
 下野方面に出陣はしたものの、戦をするためではなく、下野の豪族たちに出陣を促すための示威行動だった。それは、うまくいった。下野の豪族たちが続々と景虎の元に参陣し、景虎の軍勢は日毎に膨れ上がった。
 しかも、同じ頃、冬之助が単独で岩付に赴き、太田資正(すけまさ)を説得して味方にすることに成功した。
 景虎自身は戦をしていないが、戦が起こっていないわけではない。景虎が出馬するまでもなく、景虎の傘下に加わった豪族たちが、
「ここは、われらにお任せ下さいませ」
 と北条方の城を攻めているのである。
 景虎が越後から率いてきた長尾軍本隊は八千ほどに過ぎないが、上野と下野の豪族たちが雪崩を打ったように味方についたため、今や、その数倍の兵力を抱えるまでになっている。たとえ長尾軍が動かなくても、それを遙かに上回る軍勢が北条方の城を包囲するのだから、上野に残っていた北条方の城は次々と落ちた。
(狐狸の類に騙されているのではないか)
 と、景虎が首を捻っても不思議はない。
 今までこんな奇妙な戦をしたことがない。
 自分は何もせず、ただ本陣にじっと控えているだけなのに、次々に敵方の城が落ちる。何もかも面白いようにうまくいくのだ。
 勝ち戦が続くと、勝ち馬に乗り遅れてはならぬとばかりに、また新たな豪族たちが味方に加わるから軍勢は更に膨れ上がる。その数は十万にも達しようとしており、どこまで増え続けるか景虎にもわからない。その空前の大軍の頂点に景虎が君臨しており、景虎の指図ひとつで、どうにでも動く。
 一月中旬を過ぎた頃、景虎はようやく腰を上げ、厩橋城を出て、二十二日には松山城を包囲した。
 松山城は天然の要害であり、守りやすく攻めにくい城である。
 しかも、城に立て籠もっているのは北条兵のみだ。
 今までは地元の兵と北条兵が半々くらいで守る城ばかりで、そういう城に降伏勧告すると地元の兵が動揺して内部分裂し、城が自落することが多かった。
 今度は、そうではない。降伏勧告を無視し、貝のように蓋をして、じっと城に立て籠もった。
 それを見て、
(そう簡単には落ちそうにないな)
 と、景虎は判断する。
 別に焦りはない。
 これまでが順調すぎたのだ。初めて歯応えのある敵と出会っただけのことである。
 景虎と冬之助は今後の作戦について話し合うことにした。
「北条も、なかなか、がんばるではないか」
 景虎は面白がっている。
「ここで、あまり時間をかけるのは、よろしくないと存じます......」
 松山城に氏康がいるのなら話は別だが、氏康はすでに小田原に引き揚げている。松山城に手間取るのは、あまり意味がない、と冬之助は言う。
「思い出すのではないのか、十五年前のことを?」
 景虎が訊く。
 十五年前、山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏、古河公方の連合軍は、八万という途方もない大軍で河越城を包囲し、氏康を窮地に追い込んだ。
 しかし、半年ほどもだらだらと包囲戦を続けた揚げ句、北条軍の奇襲に遭って大敗を喫した。その敗北で扇谷上杉氏は滅亡した。
 冬之助にとっては苦い思い出だ。
「わしが同じ過ちをすると思うか? 松山城で足止めされ、北条の奇襲に遭う、と」
「そうは思いませぬ」
 冬之助が首を振る。
「わしが不思議に思うのは、十五年前、おまえがその場にいながら、なぜ、あのようにみじめに敗れたのかということだ。戦に勝ち負けはつきものだから、負けたことを恥じる必要はない。だが、負けるにしても負け方というものがある。あれは、ひどい負け方であったろう。違うか?」
「その通りでございます」
「なぜだ? 教えてくれ。あの夜、おまえは何をした? いや、なぜ、何もしなかったのか、と訊く方がよいかな」
「昔のこととはいえ、あの夜に起こったことを口にすれば、どうしても誰かを責めることになってしまいます。そんなことは口にしたくないのです」
「わしの命令でもか?」
「ご容赦下さいませ」
「上野を征し、いよいよ、わしらは武蔵に入った。わしは武蔵を手に入れ、相模にも攻め込むつもりだ。小田原も落とすつもりでいる。だが、武蔵や相模のことを何も知らぬし、大がかりに北条と戦うのも初めてだ。だからこそ、おまえの力を借りなければならぬし、おまえを心から信頼しなければならぬ。そのためには、十五年前のあの夜、河越で何があったのか、わしは知らなければならぬのだ。おまえを悪く言う者もいる。主を見捨てて自分だけ逃げた卑怯者だと罵る者もいる。わしは信じぬが、それをおまえの言葉で明らかにしてもらわなければならぬ。誰かを責めることになっても構わぬ。但し、それが真実であれば、ということだぞ。わしの言いたいことがわかるか?」
「よくわかります」
「ならば、話せ」
 景虎は盃を手にして、酒を一気に飲み干すと、腕組みして目を瞑る。
「あの夜......」
 冬之助は記憶を辿り、あの夜、何があったのか、できるだけ正確に景虎に説明しようとする。
 北条軍が夜襲を仕掛けてくるに違いないと見抜き、柏原まで馬を走らせたこと。
 宴の最中に自分の考えを述べたものの、憲政はまともに相手にせず、桃風を怒らせてしまったこと。
 主の朝定(ともさだ)だけが冬之助の言葉を信じ、憲政を説得しようとしてくれたこと。
 桃風に憎まれ、暴行された揚げ句、縛られて小屋に放り込まれたこと。
 朝定は一人で陣地に戻り、北条軍の奇襲を受けて戦死したこと。
 朝になって冬之助が小屋から逃れ出たときには、すでに勝敗は決していたこと......。
 説明を続けるうちに、感情が昂ぶってきて、冬之助の目から滂沱と涙が溢れる。
「本当はあの場で死ななければならなかったのに、こうして今でもおめおめと生きているわけでございます」
 冬之助が口をつぐむ。
「ふうむ......」
 景虎が目を開ける。
「あの戦には加わっていなかったのか?」
「はい」
「信じられぬことだ。愚かな者が軍配を握ると、必勝の戦が簡単に必敗の戦に転じてしまうのだな。わしも肝に銘じておかなければならぬ」
「御屋形さまは、そのような愚かなことはなさいますまい」
「桃風は虫が好かぬ。おまえの話を聞いたからではないぞ。前々から虫が好かぬのだ」
 景虎が顔を顰(しか)める。
「山内の御屋形さまに上野を預けるおつもりですか?」
「いずれ、そうするかもしれぬが、すぐにではない。上野だけでなく武蔵や相模も奪い、北条を倒してからの話だな。すぐに預けたりすれば、たちまち北条に奪い返されるだろう。十五年前と同じことが起こってしまうわ」
「それを聞いて安心しました」
「さて、今後のことだが......」
 景虎が合図すると、小姓が大きな絵図面を板敷きに広げる。武蔵から相模まで描かれた絵図面で、北条方の主要な城も記されている。
「松山城を落としたら、すぐに河越城を攻める。南に下りながら、蕨城や深大寺城を攻め、江戸城を囲む。江戸城はそう簡単には落ちまいから、包囲を続けながら、葛西城や小沢城を攻める。江戸城が落ちれば武蔵を奪ったようなものだから、いよいよ、相模に入る。鎌倉を手に入れるには玉縄城を落とさねばなるまい。そこまで進めば、あとは、一路、小田原を目指すだけになる」
 絵図面に記された城を指差しながら、景虎が説明する。話し終えると、どうだ、という顔で冬之助を見る。
 誰もが思いつかないような、ある意味で兵法の常識から外れた奇想天外な戦を好む景虎にしては、至極、穏当で真っ正直な策であろう。
 古来、大軍に策なし、と言われるように、敵を凌駕するほどの大軍を擁しているときは、妙な小細工などせずに力攻めするのがよいとされる。
 冬之助は、絵図面をしばらく黙って見つめていたが、やがて、顔を上げると、
「そのお考えは、よろしくないと存じます」
 と言う。
「何だと?」
 景虎がじろりと冬之助を睨む。
「わしの策が気に入らぬというのか」
「気に入りませぬ」
「どうせよと言いたいのだ?」
「武蔵にある城など無視して、ここから真っ直ぐ小田原に向かうべきかと存じます」
「小田原に行くだと? 河越城も江戸城も玉縄城も無視するのか」
「はい」
 冬之助がうなずく。
「御屋形さまが率いているのが長尾勢だけであれば、今の御屋形さまの策が最善かと思われます。しかしながら、十万になろうとする軍勢のうち、長尾勢はわずかに八千、これで城攻めすれば、恐らく、江戸城に着いたあたりで足止めとなり、相模に入ることはできぬこととなりましょう」
「よくわからぬ。もう少しわかりやすく説明せよ」
 景虎が小首を傾げる。
「はい......」
 冬之助が説明を始める。
 つまり、いかに大軍とはいえ、所詮は烏合の衆に過ぎないということなのである。私利私欲で集まってきた者たちだから、まったく当てにならない。
 勝ち馬に乗ろうとしているだけだから、風向きが変われば、すぐに逃げ出すだろうし、時間が経てば経つほど、その危険性は大きくなる。
 しかも、大軍であるが故の弱点もある。
 去年、武蔵や相模は凶作で、各地で飢饉が起こっている。思うように食糧が手に入らないのである。その状況下で、日々、十万の兵を食わせるのは並大抵の苦労ではない。
 それ故、いくらかでも皆が結束し、食糧に余裕があるうちに北条氏の本拠地を攻めるべきだというのが冬之助の考えなのだ。
「小田原を落とし、北条父子を捕らえるか殺してしまえば、北条は滅びます。そうなれば、各地の城に立て籠もっている者たちも降伏するでしょう」
 だから、城をひとつずつ落としながら小田原に迫るというやり方は時間の無駄だと冬之助は言う。
「だが、河越城や江戸城、玉縄城を放置して小田原に向かったら、背後から攻められるかもしれぬぞ」
「そのときは......」
 冬之助がにやりと笑う。
「御屋形さまが得意とする野戦になります。城の外で敵と決戦するのなら、勝敗は一日で決するでしょう。それは、こちらの思う壺ではありませぬか」
「なるほど......」
 景虎はうなずくと、腕組みして思案を始める。
(言い過ぎてしまったか......)
 景虎の策を真っ向から否定したわけだから、景虎が腹を立てても不思議はないのだ。
(どうするかは、御屋形さまがお決めになればよい。わしは言うべきことを言ったに過ぎぬ)
 冬之助は口を閉ざし、景虎が決断するのをじっと待つ。
 やがて、景虎は、
「よかろう。おまえの言う通りにしよう」
 勢いよく自分の膝を叩く。
「は」
 冬之助が平伏する。頭を垂れながら、頬が火照るのを感じる。己の力量を認めてくれる主に仕えることがこれほど嬉しく、やり甲斐のあることだと初めて知った気がする。胸が熱くなって、涙がこぼれそうになる。
(この戦は勝つ。いや、勝たなければならぬ。小田原を落とし、北条を滅ぼすのだ)
 そう心に誓う。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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