北条氏康 関東争乱篇第三十五回

十六

 閏(うるう)三月三日、景虎は鎌倉に入り、鶴岡八幡宮で拝賀の儀式を行う準備を命じた。
 いよいよ山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏の家督を継ぎ、関東管領に就任するわけである。
 山内上杉氏の家督を継ぐに当たって、景虎は憲政の一字をもらい受け、「政虎」と改名した。以後、上杉姓を称し、公文書の類には「上杉政虎」と署名するようになる。
 拝賀の儀式と同時に、景虎は古河公方家の家督相続に介入した。
 先代・足利晴氏は、氏康の圧力に屈し、氏康の甥に当たる義氏に公方職を譲ったが、景虎はこれを認めず、氏康によって嫡男の座を逐われた藤氏を擁立した。軍事だけでなく、政治面でも北条氏と対立する姿勢を鮮明にし、北条氏による関東支配の秩序を改めようと試みたわけである。
 拝賀の儀式は盛大に挙行された。
 景虎の人生で最も晴れがましく、嬉しい瞬間であったろう。
 ただ、その日、景虎の性格分析をする上で必ず持ち出される有名な事件を起こす。
 総門に馬を止め、景虎が参詣から戻るのを騎馬のまま待っていた成田長泰を馬から引きずりおろし、地面に膝をつかせて烏帽子を叩き落としたのである。
 周りの者が止めなければ長泰を手討ちにしかねないほど景虎は激怒し、長泰を口汚く罵った。
 長泰は呆然として、死人のような顔色で言葉を失った。
 古来、武蔵には七党・四家と呼ばれる有力な同族集団がいて、互いに協力し合いながら土地と民を支配していた。
 四家は成田、別府、奈良、玉井で、成田家は四家の筆頭である。先祖を遡っていけば藤原鎌足に行き着くというから名門中の名門と言っていい。
 平安時代、成田家に助高(すけたか)という傑物が現れる。
 助高は源頼義の外戚の叔父で、国司として武蔵の幡羅(はたら)郡に住み、「幡羅の大殿」と敬われていた。
 源頼義は頼朝の先祖であり、鎮守府将軍・伊予守として前九年の役・後三年の役を戦い、源氏の武名を大いに高めた。頼義の子が有名な八幡太郎義家である。
 前九年の役が勃発し、その平定を朝廷から命じられた頼義は兵を率いて奥州に向かった。
 その途中、幡羅郡の近くを通りかかった。
 先触れから知らせを聞いた助高は頼義を出迎えようと、馬を急がせた。
 たまたま二人は路上で出会(でくわ)した。
 助高が慌てて馬から下りると、頼義も身軽に馬から下り、
「お久し振りでございますのう。お元気そうで何よりでござる」
 にこやかに助高の手を握った。
 本来であれば、助高が下馬し、地面に膝をついて頭を垂れ、頼義は馬上で歓迎の挨拶を受けるべきであったろう。
 しかし、頼義は、縁戚でもあり、年長でもある助高に敬意を表して自分も馬を下りたわけである。
 成田家にとっては大変な名誉である。
 この挿話が長く語り継がれ、成田家では、軍を率いる大将に会うときは馬上で出迎え、同時に下馬するのが慣例となった。
 その後、成田家は山内上杉氏の重臣として重きを成すようになったが、山内上杉氏の当主も、その慣例を尊重してきた。
 長泰とすれば、山内上杉の家督を継いだ景虎も、その慣例を尊重してくれるだろうと考え、騎馬のまま景虎を待っていたわけである。
 景虎は、その慣例を知っていたが、
「おまえの先祖の助高は伊予守殿の外戚の叔父でもあったし、伊予守殿に様々な便宜を図った功労者である。それ故、伊予守殿も礼を尽くして報いたのであろう。それに引き換え、おまえは何をしたというのか? 何の功もないくせに先祖の猿真似をしているだけではないか」
 と、長泰を面罵した。
 長泰は、このとき六十七歳である。長きにわたって山内上杉氏に尽くし、長老として敬われてきた。隠居の身で、わざわざ出陣する必要もなかったのに、最後のご奉公というつもりで老骨に鞭打って景虎の軍勢に加わった。
 にもかかわらず、衆人の前で暴行され、口汚く罵られた。武士として、これほどの屈辱はないであろう。あまりの衝撃で自分の足ではまともに歩くこともできなくなり、家臣に支えられて、ようやく宿舎に帰った。
「わしは腹を切る。このまま何もしないのでは、ご先祖さまに顔向けできぬ。あの世に逝って、お詫びするつもりだ」
 涙を流しながら、皆に告げた。
「父上が悪いわけではありませぬ。礼儀知らずの長尾が悪いのです。小田原城を攻めたときも、兵の命など少しも大切にせず、まるで畜生でも殺すかのように平気で上野や武蔵の兵を死なせました。そんな人でなしだから、当家の伝統も重んじないのでしょう。人でなしのために父上が死ぬことはありませぬ」
 息子の氏長が泣いて諫めると、その場にいた家臣や、成田家と共に兵を出した別府、玉井、奈良の者たちも、
「あのような者に主として仕えても先行き心配ばかりが多うござる。山内上杉の家督を継いだといっても、そもそも、山内上杉とは縁もゆかりもない越後の山猿に過ぎませぬ。この際、長尾とは手を切り、小田原殿と手を結ぶべきかと存ずる」
「さよう、十万近い大軍で攻めても小田原城はびくともしなかった。玉縄城、江戸城、河越城などもしっかり守りを固めている。いずれ小田原殿が盛り返すでありましょう」
「うむ、そうしよう」
 話がまとまると、成田を始め、成田と共に兵を出した豪族たちは、その夜のうちに鎌倉を引き払い、領地に帰ってしまった。その数は一千を超えたという。
 九万数千の軍勢から、わずか一千そこそこの兵が減ったとしても軍事的には大きな意味はない。
 しかし、政治的な意味は、はかりしれないほど大きかった。
 実際、翌朝になって成田一族の離反が知れ渡ると、全軍に動揺が走った。
 小田原城攻めで多数の戦死者を出したことで、景虎の指揮に不安を抱いた者が多かったせいもあり、
「成田ほどの者でも危うく手討ちにされるところであった。あんな大将に従っていたのでは、命がいくつあっても足りぬ。北条の御屋形さまは、当代も先代もあのような無体なことをしたことがない」
 やはり、頼りになるのは北条氏ではないかと考える者が増え、その日から離反者が急増し、あっという間に景虎の軍勢は二万ほどになってしまった、と古書に記されている。
 さすがに十万が二万になったというのは大袈裟であろうが、半分くらいに減ったのは確かで、日を追う毎に減っているのも事実である。
 しかも、拝賀の儀式の後、景虎は体調を崩した。
 命に関わるほど重くはないものの、戦に出られる状態ではない。
 そんなこともあって、景虎は上野に退却を決めた。
 一時は小田原城を攻め落とし、北条氏を滅ぼそうかという勢いだったのに、小田原攻めからひと月も経たないうちに兵力は半減し、相模や武蔵にろくに楔(くさび)を打ち込むこともできないまま上野に去ったわけである。
 去年の八月に越山して関東に入ってから、何をやってもうまくいき、いや、それどころか自分が何もしなくても周りが勝手に景虎のために何事かをなし、景虎の前途にごく自然に道が開けるような状態だった。その勢いに怖れをなし、氏康は一度も景虎と戦うことなく籠城を決めた。戦に強い上に、時流に乗っている者とまともに戦っても勝てるはずがないと諦めたのである。
 景虎自身、
(皆が言うように、わしは毘沙門天の化身ではないか)
 と思うことがあったであろう。
 物事を楽観視しない冬之助ですら、
(その気になれば、御屋形さまは天下人になれるかもしれぬ)
 と想像したほどである。
 が......。
 景虎は時流から転がり落ちた。
 もはや何の追い風もない。
 いったい、いつ風向きが変わったのだと問われれば、成田長泰を面罵したときだ、と明確に答えることができよう。
 そのときを境に景虎の運命は変わる。もはや毘沙門天の化身ではなくなり、生身の人間に戻ったのである。

十七

「長尾は上野に引き揚げた。そろそろ、わしらも腰を上げなければなるまい。それでよいか?」
 氏康が小太郎に顔を向ける。
「はい」
 小太郎が小さな声でうなずく。
 以前にもまして具合が悪そうだ。
「相模には長尾に味方する者はおりませぬ。武蔵に残る長尾のめぼしい拠点は松山城と岩付城くらいのもの、下総には里見に奪われた葛西城、あとは大したことはありませぬな」
 氏政が言う。
「上野にいる長尾を怖れて、今も長尾方についてはいるものの、わしが武蔵に兵を出せば、すぐに味方になりたいという者がたくさんいるらしい」
「成田からの知らせですか?」
 氏康の言葉に氏政が笑う。
 成田長泰が鶴岡八幡宮で景虎から面罵され、一族郎党を率いて忍城に戻ったことは、風間党の報告で氏康も聞いている。
 実際、それから間もなく成田長泰からの使者が小田原にやって来て、詳しい経緯を説明され、今後は北条氏に仕えたいという申し出がなされた。
 氏康は、これを許した。
 長泰は大いに喜び、景虎に味方している豪族たちの切り崩しを始め、更に景虎の動静もこまめに知らせてくるようになった。長尾方から北条に鞍替えしようとする豪族が増えているのは長泰の働きが大きいのである。
 それから間もなく、氏康と氏政は兵を率いて小田原から出陣した。出陣の目的は景虎との決戦ではなく、葛西城を里見氏から奪い返すことであった。
 兵力が激減したとはいえ、依然として景虎の手許には二万以上の軍勢が残っているし、無類の戦上手だとわかっているから、できれば景虎との決戦を避けたいというのが氏康の本音なのである。氏康が頼りとする風摩(ふうま)小太郎は病状が重く、小田原に残さざるを得なかったから、尚更、決戦は避けたいのだ。
 江戸城に入った氏康は景虎の動向に注意を払いながら、長尾に味方する豪族たちの討伐を開始した。
 大きな兵力を持つ者ではなく、せいぜい、二百とか三百の兵しか動かすことのできない豪族たちの砦を虱(しらみ)潰しに攻めたのである。
 氏康自身は兵力を分散せず、常に五千以上の大軍で砦を攻めたから、一日にひとつかふたつの砦を簡単に落とすことができた。
 そのうち、氏康を怖れて降伏する者が続出し、数日のうちに葛西城への道が開けた。
 依然として景虎に動きはない。
 この頃になると、氏康だけでなく、河越城や玉縄城などの北条軍、すなわち、長尾軍との決戦を避けて籠城していた北条軍も活発に動き出している。
 この結果、武蔵における掃討作戦は短期間で成功し、岩付城と松山城以外に長尾方の拠点はなくなった。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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