北条氏康 関東争乱篇第二十七回

 下野を出て三日後、ようやく冬之助は岩付城に着いた。危険を避け、できるだけ人目につかないように注意して旅したせいもあるが、それ以上に、足の痛みと疲れのせいで距離を稼ぐことができなかったのである。
 冬之助自身、まさか三日もかかるとは思っていなかったので、持参した食料も途中でなくなった。銭は持っていたものの、ここ数年、ひどい不作が続いているので、銭を出しても、そう簡単に食べ物を売ってもらうことができなかった。空腹と疲労で立っているのも辛いほどだった。
 城門の前には、槍を手にした門番が二人立っている。
「伺いますが、この城の主は太田美濃守さまでしょうかな?」
 冬之助が訊く。
「うむ、そうだ」
 門番がうなずく。
「これを城主さまにお渡し願えますまいか?」
 冬之助が懐から紙を取り出す。
 そこには「養玉(ようぎょく)」と墨書されている。
「何だ、これは?」
「古い話ですが、城主さまと親しく語り合ったことがあるのです。河越の戦いの頃ですが」
「汝が殿と?」
 門番が疑わしそうな目で冬之助を見る。
 埃まみれで、顔色も悪く、杖に頼らなければ、今にも倒れそうな貧乏臭い沙門が城主の知り合いだと言っても、すぐに信じられないのは当然であろう。
「どうする?」
 門番同士が顔を見合わせる。
「知らせるだけは知らせた方がよいかもしれぬ」
「そうだな」
「おい、でたらめだったら承知せんからな」
 そう言い残して、一人の門番が城に入っていく。
「よろしく」
 冬之助は門から離れ、地べたに坐り込んでしまう。もう膝に力が入らなくなり、立っていることができなかった。
 四半刻(三十分)ほどして、
「おい、この紙を持ってきた人は、どこにいる?」
 城から誰かが飛び出してきた。
「あ、殿」
 門番が驚く。まさか城主の資正(すけまさ)が出てくるとは思っていなかったのであろう。
「どこだというのに」
「あそこに......」
 地べたに坐り込んでいる冬之助を指差す。前屈みで、うつむいているから顔が見えない。
 資正は駆け寄り、
「もし」
 と声をかける。
「ん?」
 冬之助が顔を上げる。
「おおっ、養玉先生ではありませぬか」
「源五郎殿か。ようやく会えたな」
「お加減が悪そうですが......。病気ですか?」
「そういうわけではないのだが......」
 源五郎に笑いかけようとして、冬之助の体がぐらりと傾き、そのまま意識を失ってしまう。

「うっ......うむむむっ......」
 冬之助が薄く目を開ける。
 天井が見える。どこかの部屋に寝かされているようだ。部屋の中は薄暗く、部屋の隅に燭台が置かれている。
 体を起こそうとするが、首や背中に筋肉痛が走り、とても無理だ。
「どうか、そのまま横になっていて下さいませ」
 気が付かなかったが、燭台が置かれているのと反対側の暗がりに人がいる。
「源五郎殿か?」
「お久し振りでございます、養玉先生」
 資正が冬之助ににじり寄る。目が赤い。泣いていたらしい。
「よくぞ、ご無事で......。もうこの世で会うことはできぬと思い定めておりました」
「よほど悪運が強いらしい。何度も死にかけ、もう駄目だと諦めたこともあったが、なぜか、今でも生きている」
「十三年前、山内上杉(やまのうちうえすぎ)の軍勢が信濃で武田勢に敗れたとき、養玉先生も討ち死になさったと聞きました。信じられませんでしたが、三千の軍勢のうち、半分ほどしか平井城に戻らなかったと聞き、それほどの激戦ならば、助からなかったのかもしれぬ、と」
「激戦などではない。一方的にやられたのだ。あれほど愚かな戦を見たことがない。言い訳でも弁解でもないが、あのとき、わしは何もしていない。いや、何もさせてもらえなかったと言うべきかな」
「そうでしたか。しかし、生きておられたのであれば、なぜ、平井城に戻らなかったのですか?」
「討ち死にはしなかったが、わしは武田軍に捕らえられたのだ。志賀城の笠原清繁がしぶとく抵抗を続けていたので、わしは見せしめとして城の外で磔(はりつけ)にされることになった......」
 冬之助は、ふーっと大きく息を吐くと、武田軍に捕らえられたものの、四郎左の助けで脱出し、諸国を放浪し、最後には越後に辿り着いて、長尾景虎に軍配者として召し抱えられるに至った事情を、ぽつりぽつりと語った。
 資正は、全身を耳にして、体を冬之助の方に傾けて、じっと聞き入る。
「水をもらえぬか」
 長い話を終えると、冬之助が言う。
「どうぞ」
 資正が水差しで冬之助に水を飲ませてやる。
「この十三年、自分にとってはあっという間だった。こうして思い返してみると、随分いろいろなことがあったのう」
「越後の長尾殿の噂はよく耳にしておりました。信濃で武田と何度となく戦い、互角に渡り合っているとか......。武田の強さは世間に広く知られておりますから、よほどの戦上手なのだと思っておりましたが、養玉先生がそばにおられるのであれば、長尾軍が強いのも道理......。しかし、なぜ、養玉先生のことが耳に入らなかったのか不思議です」
「越後では曾我の姓を名乗っておらぬのだ。扇谷(おうぎが上杉が滅んだときに曾我も滅んだと思っておるのでな。御屋形さまから宇佐美の姓をいただいた」
「おおっ、それならば聞いたことがあります。越後には宇佐美定行という優れた軍配者がいるのだと......。それが養玉先生だったのですね」
 なるほど、そういうことだったのか、と資正が大きくうなずく。
「御屋形さまは下野にいる。わしも下野から来た」
「長尾殿は上野にいるのではないのですか?」
「今のところ厩橋(まやばし)城を本拠にしているが、厩橋城には上野の豪族たちが続々と集まっていて、上野は手に入ったも同然なのだ。越後を出るときには八千の軍勢だったが、もう二万近くに増えている」
「何と、二万ですか......」
 資正が息を呑む。
「上野の豪族たちに比べると、下野の豪族たちの動きが鈍い。自分たちには関わりのないことだと高みの見物を決め込んでいるのだな。そうではない、汝らにも関わりがあることだ、われらに味方せぬのなら敵と見做して成敗する......そういう意気込みで御屋形さまは下野に兵を進められた。恐らく、下野の豪族たちも慌てて駆けつけるであろうよ。御屋形さまを怖れていることだけが理由ではない。この遠征には山内上杉の御屋形さまも同行しているし、間もなく、都の関白さまも来られるはずだ」
「関白さまが......」
 資正が驚く。勘のいい男だから、冬之助の話を聞いて、今回の長尾景虎の関東遠征が、ただの軍事行動ではなく、極めて政治色の濃い軍事行動なのだと理解する。
「下野の豪族たちが加われば、御屋形さまの軍勢は三万くらいにはなるであろう。下野から厩橋城に戻れば、すぐさま南に向かって平井城や鉢形(はちがた)城を落とすことになる。どちらの城も長く持ちこたえることはできまい」
「そうでしょう」
 資正がうなずく。堅固な沼田城がわずか一日で落とされたことを知っているのだ。三万もの軍勢が押し寄せれば、平井城も鉢形城も半日も持ちこたえることはできないであろう。
「その後は、どうなりましょう?」
「越後を出るときには、上野を取り戻せばいいという考えだったが、今は、そうではない」
「武蔵も攻めるのですか?」
「そういうことになろう」
 冬之助がうなずく。
「鉢形城を落とした後、松山城に攻めかかる頃には武蔵の豪族たちも御屋形さまの元に馳せ参じるであろう。河越の戦いを覚えておろうが、あのときと同じことが繰り返されるのだ」
「......」
 資正が黙ってうなずく。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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