北条氏康 関東争乱篇第八回
十五
年が明けると、氏康は出陣準備を始め、一月下旬、兵を率いて浦賀(うらが)に向かった。重臣・石巻家貞(いえさだ)が浦賀城で待っていた。
氏康と家貞が浦賀城で会ったのは、房総半島に兵を送る相談をするためである。去年の七月、上総の金谷城を落としたことで、時間のかかる陸路ではなく、海路によって、浦賀から金谷まで一気に大軍を送ることが可能になった。その上陸作戦が成功すれば、金谷から、里見氏の本国・安房に攻め込むことができる。
里見氏の側からすれば、それを許せば、自家の存亡の危機だから、死に物狂いで上陸を防がなければならない。
氏康には里見氏の覚悟がわかっている。中途半端なやり方をすれば、手痛いしっぺ返しを食うことになるであろう。ここまで長い時間をかけて、房総半島で領地を慎重に広げてきた。ただ一度の失敗で、それを失うわけにはいかない。
山内上杉氏を駆逐し、上野を奪ったときも、決して焦ることなく、時間をかけ、できるだけ味方の損害が出ないように工夫した。
今度も、そうするつもりであった。里見氏を追い詰めているからこそ、ここで焦りは禁物なのだと自分に言い聞かせる。
家貞から房総半島における詳しい戦況を聞くと、
「すぐに海を渡るのは、まだ危ないかもしれぬな」
と、氏康はつぶやき、どうだ、と小太郎に顔を向ける。
「おっしゃる通りだと思います」
小太郎はうなずくと、板敷きに広げられた絵図面に視線を落とし、金谷の周辺にぐるりと指で円を描く。
「少なくとも、このあたりに敵が入り込まぬようにしなければならぬと存じます」
「と言うことは......」
家貞が身を乗り出して、じっと絵図面を見つめる。
「峰上(みねがみ)城の防備を固めるべきだということですかな?」
「はい」
小太郎がうなずく。
峰上城は金谷の海岸から二里半(約十キロ)ほど内陸にある。敵が金谷に迫ろうとすれば、まず、この城を何とかしなければならない。ここを放置して金谷に接近すれば挟み撃ちにされてしまうからだ。
「御屋形さま?」
家貞が氏康を見る。
「そうせよ」
「早速に」
家貞が畏まる。
小田原を出るとき、氏康は自ら大軍を率いて渡海し、今度こそ里見氏の息の根を止めてやろうという鼻息だったが、家貞から戦況を聞き、小太郎の進言が正しいと判断するや、すぐさま方針を変えた。己の方針に固執することなく、誰の意見であろうと、その意見が正しいかどうかで、己の行動を決めることができるのである。この思考の柔軟さこそ、氏康の最も優れた美質と言っていいであろう。
結果として、この方針転換によって、氏康は、ふたつの得をした。
ひとつは、思いがけず、房総半島でふたつの城が手に入ったことである。富津(ふっつ)の百首(ひゃくしゅ)城と佐貫(さぬき)城だ。
北条氏による金谷周辺の防備強化を見て、里見氏が兵力の移動をしたことで、ふたつの城の守りが手薄になったせいである。
佐貫城は、房総半島を制圧するために里見氏が拠点としていた重要な城である。それが手に入った。
氏康にとっては棚ぼたと言っていい。
もうひとつは、時間の余裕ができたことだ。
実は、氏康には、房総半島に渡海して戦をする暇などなかったのである。
いよいよ、この夏、娘を今川氏真(うじざね)に嫁がせることが決まり、その支度をしなければならなかった。
ただの婚礼ではない。
重要な政治的意味合いのある儀式である。
すでに一昨年の冬、今川義元の娘が武田晴信の嫡男・義信に嫁いでおり、年内に、氏政が武田晴信の娘を娶ることも決まっているから、氏康の娘が今川家に嫁げば、事実上、三国同盟が成立する。
まずは今川との婚礼を無事に終えなければならない。里見氏を打倒することも重要だが、今川との絆を深めることも同じくらいに重要なのだ。
渡海せずに済んだことで、氏康は自ら婚礼準備の差配ができることになった。
駿府と小田原を何度となく使者が往復した。
四月になって太原雪斎(たいげんせっさい)から、五月の初めに三家の当主が顔合わせをしてはいかがでありましょう、という提案が為された。
七月中旬に予定されている婚儀に合わせて顔合わせするのが自然な流れだが、それは武田晴信が難色を示した。
去年の九月、晴信は川中島で長尾景虎に敗れ、北信濃制圧に失敗した。それを見て、佐久郡で武田の支配に抗おうとする不穏な動きが出ている。
晴信は態勢を立て直し、この夏には信濃に兵を出すつもりでいるから、七月の顔合わせは無理だと断ったのである。顔合わせそのものを拒否したわけではなく、五月の初めならば、何とか出向くことができると返答した。
義元は五月だろうが七月だろうが問題はない。
あとは氏康次第である。
「どうだろうな?」
氏康がその場にいる者たちの顔を見回す。
小太郎、氏政、新之助の三人が控えている。
「五月と七月の二度、駿河に出向くということですか?」
氏政が訊く。
「二度は行かぬ。一度だけだ」
氏康が答える。
「そうですか。ならば、わたしは、どちらでも大丈夫です」
「ん?」
氏康が怪訝な顔になる。
「おまえも駿河に行くつもりなのか?」
「そうではないのですか? 滅多にない機会ですから、今川殿にも武田殿にもお目にかかれればと思っておりましたが」
「......」
氏康が言葉を失う。
小太郎も困ったような顔をしている。
氏康と小太郎の沈黙から何事かを察したのか、氏政が居心地が悪そうに尻をもぞもぞと動かし、
「新之助、どうだ?」
と横にいる新之助に助けを求める。
新之助は、さすがに氏政ほど初(うぶ)ではないから、この沈黙の意味がわかっている。
「御屋形さまと若殿が一緒に他国に出かけるのは危のうございますから」
「危ないことはあるまい。戦をしに行くわけではないぞ」
「それは、そうですが......」
新之助も困惑する。
「松千代丸」
氏康が口を開く。もう元服したから、仮名の「新九郎」と呼びかけるべきだが、氏康の目には、まだ一人前の大人には見えないのであろう。
だから、つい幼名が口から出た。
「例えばだが、わしが駿河に行くのではなく、今川殿と武田殿がご嫡男を連れて小田原にやって来るとして、おまえは何を考える?」
「何を考える、と言われましても......。そうですね、できる限り、盛大に粗相がないよう丁重にお迎えしなければならぬと思いますが」
「それだけか?」
「他に何があるのですか?」
「国境を接する隣国の当主と嫡男が顔を揃えてやって来るのだぞ。二人揃って討ち果たすことができれば、労せずして領地を広げられるとは考えないのか?」
「え」
氏政が驚愕する。
「武田殿や今川殿を討つとおっしゃるのですか?」
「例えば、と申したではないか」
「三つの家が盟約を結び、これから先、絆を深めようというときに、父上は、そのような腹黒いことを......」
「今川殿や武田殿が小田原に来ることがあれば、わしも盛大に歓迎するであろうよ。しかし、心の片隅で、さっき言ったように、ここで二人を討ち取れば、どうなるだろう、ということを一度くらいは考える。わしだけではない。恐らく、武田殿や今川殿も同じことを考えるに違いない」
「で、では、駿河に行くのはお止めになった方が......」
氏政がごくりと生唾を飲み込む。
「そう簡単な話ではない」
氏康が苦い顔をする。
「わしは、おまえほどのお人好しではないから、心から今川殿を信じてはおらぬ。危ない目に遭うかもしれぬという怖れも抱いておる。しかし、三つの家が手を結べば、北条が東に領地を広げていくのに役に立つと思うから、わしは行くのだ。うまくいけば、大きな見返りを期待できるからな。だが、わしとおまえが二人揃って、のこのこ出かけていく必要はない。当主と嫡男が一緒に討ち取られれば、その家は滅びる。そんな危ない橋を渡るつもりはない。それ故、わしが行くのなら、おまえは残らなければならぬし、おまえが行くのなら、わしは残る。戦とは違うからこそ、しっかり用心しなければならぬのだ。わかったか?」
「は、はい」
氏政が手の甲で額の汗を拭う。
「武田殿も一人で来るであろうし、今川殿とて、そうであろう。ご嫡男は、甲府と駿府に残してくる」
「申し訳ありませぬ。考えが足りませんでした」
「己の愚かさを素直に認めることができるのが、おまえのいいところだ。間違えるのはいい。考えが足りぬのも仕方がない。しかし、それは一度だけのことだ。同じ過ちを繰り返してはならぬ。今は、まだ、わしがいる。小太郎もいる。それ故、おまえの過ちを正すことができるが、いつまでも、それでは困る。おまえは学ぶのだ。おまえだけではない。新之助も学ばなければならぬ。わかったか?」
「はい」
氏政と新之助が頭(こうべ)を垂れる。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。
〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
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