北条氏康 関東争乱篇第三回


「長尾景虎か......」
 氏康が首を捻る。
 ついさっき、越後からの使者の口上を聞いたばかりである。景虎からの書状も受け取った。
 景虎は五百ほどの兵と共に越後・上野の国境付近にいて、そこから使者を送ってきたのだ。
 使者を下がらせると、氏康は小太郎と盛信を呼んだ。
「どう思う?」
 氏康が訊く。
「このようなことを本気で言っているとは思えませぬ」
 盛信が呆れたように首を振る。
 景虎が求めているのは、北条氏が上野から兵を退き、城や領地を憲政に返還することである。
 それだけではない。武蔵の支配についても、先々、ご相談したいと書いてある。
 つまり、景虎は上野だけでなく、北条氏による武蔵の支配も認めていないということだ。
「確かに、こんな図々しい話は聞いたことがない。まともに相手にする気にもならぬが、相手は越後の守護だからな」
 無視することもできぬしのう、と氏康はつぶやき、小太郎に顔を向ける。意見を聞きたいのであろう。
「管領殿に泣きつかれたものの、今の長尾には上野に兵を出す余裕などないはずです。それ故、使者を送ってきて、いろいろ努力はしているのだと管領殿に言い訳したいのではないでしょうか」
 小太郎が言う。
「越後は、どんな様子なのですか?」
 盛信が訊く。
 北条氏の領国と越後が国境を接していなかったこともあり、これまで越後の支配者と北条氏はまったくの没交渉だった。干戈を交えたこともない。
 諜報活動は北条氏が最も得意とするところだが、越後については、あまり熱心に調べたことがない。せいぜい、噂話の類を拾い集める程度である。
 だから、盛信も越後の事情に疎い。
「実の兄と争って、弾正少弼殿が長尾の家督を奪ったのが四年前の暮れ、それに納得しない豪族たちとの戦いが起こり、それが収まったのは、去年の今頃のはずだ。わしも、それ以上、詳しくは知らぬので、今後、風間党に探らせようと思う」
 小太郎が答える。
「一年前に戦が終わったばかりでは、まだ足許も固まっていないでしょう。大軍など動かせば、また国が乱れるかもしれませぬな」
 盛信が言う。
「なるほど、では、これは口先だけなのだな。それならば、こちらも真剣に相手をする必要はないということになる」
「無用の波風を立てることもないでしょうから、弾正少弼殿の面目が立つような返事をすればよろしいかと存じます」
「ならば、そうしよう」
 氏康はうなずく。
 早速、景虎に対する返書を認めた。
 景虎の骨折りに感謝し、自分も管領殿を大いに敬っているから、いずれ上野は管領殿にお返ししたいと考えている。ついては、その打ち合わせをしたいから、ぜひ、管領殿に小田原までお越し願いたい、と記した。
 言い回しは丁寧だが、要は、何か頼み事があるのなら、憲政自身が氏康のもとに出向いてこい、というのだ。慇懃無礼と言っていい。
 小太郎からは、無用の波風を立てぬように忠告されたものの、
(越後の小僧が偉そうに何を言うか)
 という苛立ちと腹立たしさを氏康も抑えきれず、景虎への感謝の言葉を記しながらも、そこにいくらか棘(とげ)のある言葉も書き加えずにいられなかったのであろう。
 その返書の内容が、後々、景虎との間に軋轢を生じさせることになる。


 七月になって間もなく、小田原の氏康のもとに知らせが届いた。長尾景虎が国境を越えて、越後から上野に攻め込んだというのである。
「来たか。その数は?」
 氏康が小太郎に訊く。
「二千という話ですが」
「ふうむ、二千か......」
 本気で攻めてくるつもりなのかな、と氏康は首を捻る。
 先達て、景虎は五百の兵を率いて上野の国境近くまでやって来て、そこから小田原に使者を送って来た。村を荒らして略奪するとか、北条方の城や砦を攻めるとか、そういうことは何もなかった。
 今度は違う。
 すでに国境付近の城や砦の周辺が放火され、田畑も荒らされているという。規模が小さいとは言え、明確な敵対行動である。
「わしの返事に怒ったのかもしれぬな。素直に城や領地を管領殿に返さないから、今度は力尽くで奪いに来たということか? しかし、わずか二千では何もできまい」
 氏康には、さしたる切迫感はない。
 長尾景虎を大きな脅威とは感じていないせいである。越後の守護になったとは言え、越後国内の戦いを勝ち抜いただけで、対外的にはまったくの無名で、取り立てて戦がうまいという話も聞いていない。
 一方の氏康は、父の氏綱が存命の頃から、数多くの大きな戦を勝ち抜き、今では数ヶ国を支配する大大名なのである。その氏康が景虎如きの小僧を怖れるはずがない。
「ひとつ気になることがあるのです」
 小太郎は深刻な顔つきである。
「何だ?」
「越後の国情について風間党に調べさせたのです。弾正少弼殿のそばに宇佐美冬之助という軍配者がいるのですが、どうやら、それは扇谷上杉氏に仕えていた曾我養玉(そがようぎょく)らしいのです」
「それは、まことか」
 氏康の表情が一変する。
 冬之助には氏綱も氏康も何度も煮え湯を飲まされてきた。恐るべき相手だとわかっている。
 景虎の実力は未知数だが、冬之助の実力は知っているのだ。
「わしが出向くまでのことはないと高を括っていたが、あの男が越後勢の軍配を握っているとなれば、たかが二千などと侮ることはできぬ。わずか五百の兵で松山城を奪い取った男なのだからな」
「出陣なさいますか?」
「反対か?」
「とんでもない。出陣なさるべきです。長尾に北条の強さを思い知らせてやらなければなりませぬ」
「よくぞ申した」
 氏康は、景虎と一戦し、場合によっては越後に攻め込んでやろうと考えた。そのためには、わずかばかりの兵ではどうにもならないから、九月になって小田原を出るとき、五千の兵を率いていた。
 道々、東相模や武蔵で兵を増やす予定で、それに上野にいる兵を加えれば、最終的には一万ほどの大軍になるはずであった。


「ふんっ、ようやく小田原から出てきたか」
 実綱から知らせを聞いて、景虎がうなずく。
「小田原を出たときは五千でしたが、今では、七千以上に増えているようです」
「わしの前に現れるときには一万くらいにはなっているだろうな。どういうつもりなのかな?」
 景虎が冬之助に顔を向ける。
「われらを叩き潰し、その勢いを駆って越後に攻め込むつもりなのでしょう」
 冬之助が答える。
「北条殿は欲深い御方のようだ。管領殿に上野を返すどころか、わしから越後まで奪おうとする」
 景虎が愉快そうに笑う。
「返り討ちにすれば、上野を奪い返すことができますし、武蔵に攻め込んで松山城や河越城を囲むこともできましょう」
 冬之助も笑う。
「まさか、本気で、そのようなことを......」
 真顔でいるのは実綱だけである。その表情には強い危機感が表れている。
「わしらが二千、向こうが一万、数が違いすぎるから、わしらは勝てぬと言いたいのか?」
 景虎が実綱をじろりと睨む。
「そうは申しませぬが......」
 実綱が言葉を濁す。
 もちろん、本心では、
(勝てるはずがない)
 と言いたいのである。
 わずか二千で、一万もの敵と、しかも、名将という評価が定まっている氏康が率いているのに、勝てるはずがない。
 しかし、そんなことを口にすれば、景虎の機嫌が悪くなるとわかっているから、言葉を濁してごまかしたのだ。
「その方は、どう思う?」
 景虎が冬之助に訊く。
「勝てぬとは思いませぬ」
「勝てるか?」
「それには多くの準備がいるでしょう。相手の弱いところを探って、様々に策を巡らせなければなりませぬ。しかしながら、此度は、やめておくのがよろしいかと存じます」
「なぜだ? やはり、北条は手強いからか」
「それもありますが、心配なのは北条ではなく、むしろ、越後でございます」
「ふうむ、越後か......」
「万が一、長い戦になれば、恐らく、越後で不穏な動きが出てくるのではないか、という気がします」
「そうです。心配なのは越後です。いかに北条に勝とうとも、その間に春日山城を奪われてしまったのでは、どうにもなりませぬ」
 実綱が言う。
「わかった。そうしよう。わしは越後に帰る」
 青竹をぴしっと足許に打ち付けると、景虎が立ち上がる。
「北条の支配する土地をさんざんに荒らしてやったし、上野を返すように北条殿に申し入れもした。少しは管領殿の溜飲も下がったであろうよ。北条殿とは日を改めて手合わせすることにしようぞ」
 帰り支度をせよ、すぐに陣払いだぞ、と景虎が矢継ぎ早に命令を発する。
 決断の早い男なのである。こうと決めたら、ぐずぐずしない。長居は無用とばかりに、その翌日には越後に帰ってしまった。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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