北条氏康 関東争乱篇第一回

第一部 越後の虎


 天文二十一年(一五五二)、風摩(ふうま)小太郎は四十七歳になった。中年になっても子供の頃の名前を名乗り続けているのは奇妙だが、今も「小太郎」と呼ぶのは氏康(うじやす)くらいのもので、それ以外の者たちは青渓(せいけい)と呼ぶ。北条氏の軍配者としての小太郎の立場は揺るぎないものになっているから、畏敬の念を込めて「青渓先生」と呼ばれているのだ。
 氏康にとっても小太郎は学問の師だから、先生と呼んでもおかしくないのだが、弟子とはいえ、主でもあるから小太郎と呼び捨てている。
 北条氏きっての猛将・綱成(つなしげ)や重臣・志水盛信(しみずもりのぶ)も小太郎の弟子で、彼らからも小太郎は師として敬われている。
 小太郎の嫡男・かえで丸は二十歳である。すでに元服し、新之助康光(やすみつ)と名乗りを変えている。康光の「康」の一字は氏康から偏諱(へんき)を賜ったのである。
 新之助は幼い頃から学問好きで、暇さえあれば書物を読んでいるという風だったので、いつかは自分と同じように足利学校で学ばせたい、できれば北条氏の軍配者として仕えさせたい、と小太郎は考えていた。
 しかし、時機が悪かった。
 北条氏が存亡の瀬戸際に追い詰められた河越の戦いが起こったのは、新之助が十四歳のときである。
 かろうじて、その危機は脱したものの、氏康と小太郎は各地を転戦して戦いを続けなければならなかった。
 新之助は一人息子である。小太郎の身に何かあれば風摩の家を継いで、氏康のために働かなければならない。そういう立場にある新之助を、何年も足利学校で学ばせることは難しい。
 小田原にいるとき、小太郎は自分が師となって、新之助に軍配者として必要なことを教えた。学問好きなので、さして苦労することもなく、新之助は多くの知識を吸収した。その教育の過程で、
(この子は軍配者には向かぬ)
 と、小太郎は見切った。
 なるほど、知識は十分にある。軍配者として通用しないことはないだろうが、一流の軍配者になることはできぬ、と判断したのである。
 知識など、所詮は土台に過ぎない。
 その土台にどれくらい己の想像力を加味することができるかで、軍配者としての資質が決まる。
 新之助には想像力が欠けていた。机上演習すると、堅実な戦い方をするものの、そこには独創性が感じられなかった。こんなやり方しかできないのでは、とても北条氏の軍配を預けることはできぬ、と小太郎は諦めた。
 だからといって、新之助の将来を悲観したわけではない。
 そもそも、軍配者に世襲なし、と言われるように、軍配者の職は親から子に引き継がれるようなものではない。軍配者にとって重要なのは血筋ではなく、能力だけなのである。
 無能な軍配者が軍配を握れば、その家は滅びる。
 それ故、優秀な軍配者を召し抱えなければならない。軍配者に求められるのは忠義ではなく、優れた能力だけなので、その家に代々仕える家柄の子が軍配者になる必要はない。
 北条氏ほどの大名家であれば、軍配者は小太郎以外に何人もいるが、今のところ、小太郎の後を任せられるほど優れた者はいない。
 小太郎は常に諸国の動向に目を光らせており、どこそこの軍配者は優れているという噂を耳にすると、風間(かざま)党を使って詳しく調べさせている。
 噂通りに優れた軍配者であれば、北条氏に引き抜こうという腹なのである。
 五十を過ぎれば老人扱いされ、長命だと感心される時代に小太郎は生きている。裏返せば、五十過ぎまで生きる者は稀だということである。四十七ともなれば、当然ながら死を意識しなければならない。自分が死んだ後の北条氏のことを小太郎は考え始めているのである。



 二月の初めから三月にかけて、氏康は、いまだに北条氏に従おうとしない豪族たちを掃討するため武蔵北部から上野(こうずけ)にかけて転戦した。
 すでに山内(やまのうち)上杉氏の当主・憲政(のりまさ)は越後に逃れ、嫡男・竜若丸(たつわかまる)は伊豆で斬られた。それにもかかわらず、山内上杉氏に忠義立てしようという者たちだから、そう簡単に氏康に屈服はしない。各地で激戦が繰り広げられた。
 その中でも御嶽(みたけ)城攻めは大激戦となった。
 氏康は中途半端な和睦を許さず、城兵やその家族の命を助けたければ、城将を始めとする重臣たちが丸腰で氏康のもとに出頭することを要求した。和睦交渉は決裂し、北条軍は総攻撃を仕掛けた。
 城は落ちたものの、この戦いで、双方の死傷者は数千になったという。
 城将は戦死したが、生き残った重臣が何人もいた。
 氏康は、彼らの首をことごとく刎(は)ねるように命じた。寛大な処分をすることの多い氏康にしては珍しく過酷なやり方だった。
 戦後の仕置きを終えると、氏康は直ちに小田原に戻った。
 今回の氏康の遠征は成功し、北条氏の支配基盤は更に固まった。
 いつもならば、戦いの緊張感から解放されると、笑顔を見せもするし、軽口を叩くこともあるのだが、今回は違っている。笑顔などまったく見せず、何かを思い詰めているかのような重苦しい表情をしている。 
 帰りの沿道にある城に立ち寄って、領民支配の様子を検分しながら、ゆるゆると小田原に戻ることを氏康は好むが、今回は、そういうこともなく、ひたすら帰りを急いだ。
 その理由を、小太郎は知っている。
 氏康の嫡男・氏親(うじちか)が重い病にかかっているのだ。
 幼名・西堂丸(せいどうまる)、長じて氏親、通称は新九郎(しんくろう)である。
 年齢は十六。
 去年の暮れから、氏親は寝込んでいる。
 はっきりとした原因は医者にもわからない。寒い時期に体調を崩し、それが徐々に悪化しているのだ。
 ひどい悪寒がして高熱を発し、食欲がなくなって痩せていく。腹痛まで起こして、下痢が止まらなくなる。
 原因もわからないが、治療法もわからない。
 氏親は、解熱作用のある薬草を煎じて飲まされた。あとは熱が下がるのを待ち、栄養のあるものを食べ、静かに養生して体力の回復を待つしかない。
 氏親の熱は下がったかと思うと、また上がるという繰り返しで、そのうちに嫌な咳をするようになった。病のせいなのか、それとも、それ以前から弱っていたのかわからないが、氏親が深刻な肺疾患に冒されていることは明らかだった。
 普通の患者であれば、
「何もできることはありませぬ」
 と医者たちも匙を投げただろうが、まさか、北条氏の嫡男を見捨てるわけにはいかないから、氏親の枕辺で必死に知恵を絞り、できることは何でもした。病を発症してから、氏親が三ヶ月ほども生き長らえることができたのは、彼らの努力のおかげだったのかもしれない。
 しかし、日毎に氏親は痩せ衰え、ついには骨と皮ばかりの骸骨のようになり、目からは生気が失われた。誰の目にも死が迫っていることは明らかだった。
 氏康にもわかっている。
 それ故、できることなら、小田原に残り、氏親のそばにいたかった。そんなわがままを押し殺し、氏康は北条氏の当主として出陣しなければならなかった。御嶽城を落とし、その戦後処置が済むや、すぐさま氏康が小田原に取って返したのは、少しでも早く氏親の元に戻りたかったからである。
 氏康が小田原に戻って間もなく、氏親が亡くなった。三月二十一日である。


 氏親の死がよほど大きな衝撃だったのか、葬儀が終わってから、氏康は誰にも会おうとせず、朝から持仏堂に籠もるようになった。
 幸い、氏康の裁可を仰がなければならないほどの大きな問題は起こらなかったので、周囲の者たちも気を遣い、呼ばれない限り、持仏堂には近付かないようにした。
 小太郎が氏康に呼ばれたのは、四月の中旬である。小太郎ほど氏康と近しい者ですら、ひと月近くも氏康に会うことができなかったのである。
 久し振りに氏康の顔を見て、思わず、小太郎は声を上げそうになった。
 氏康は、すっかり面変わりしていた。白髪が増え、やつれ、目が虚ろで、まるで老人のように見えた。
「御屋形さま......」
 そう言うなり、小太郎の目に涙が溢れる。
「心配させて悪かったのう。わしの身を案じていることはわかっていたが、どうしても人に会う気持ちになれなかったのだ」
「よくわかります」
「もう三十八だというのに、まだまだ一人前ではないようだ」
「大切なご嫡男を亡くされたのですから、当たり前のことです」
「不思議なもので、泣いてばかりいると涙も出なくなってしまうものらしい。おかげで胸の内がすっきりした。悲しいときは我慢などせず、泣きたいだけ泣くのがいいのかもしれぬな」
「そうかもしれませぬ」
「父親として十分すぎるくらい、つまり、涙も出なくなってしまうほど、わしは嘆き悲しんだ。次は、北条家の当主として、これから先のことを考えなければならぬ。新九郎が亡くなったとなれば、わしの後を継ぐのは松千代丸ということになる」
 次男の松千代丸は十四歳だが、まだ元服はしていない。後の氏政(うじまさ)である。
「おまえだから正直に言うが、わしは心配なのだ。松千代丸が北条家を背負っていけるのだろうか」
「それは......」
「わし自身、子供の頃は、泣いてばかりいる女々しい奴だと陰口を叩かれ、あれでは北条家の行く末も危うい......そう言われたものだ。覚えているであろう?」
「はい」
「おじいさまも父上も立派な御方だったから、その後を継ぐわしに厳しい目が向けられるのは仕方がなかった。わしなど大した才のないことは自分でもわかっているが、それでも何とか今まで北条家を保ってきた。自分が愚かだとわかっているから、自分の考えだけに頼らず、おまえや孫九郎、太郎衛門の知恵を借りたおかげだ」
「御屋形さまは決して愚かではございませぬ。贔屓目(ひいきめ)ではなく、実に優れた君主であると存じます」
「世辞はいらぬ」
「いいえ、世辞ではございませぬ」
 小太郎が首を振る。
「まあ、わしのことは、どうでもよい。心配なのは、松千代丸のことだ」
「松千代丸さまも愚かではありませぬ」
「そう思うか?」
「はい」
「本当に、そう思うのか?」
 氏康が厳しい目で小太郎を見る。
 その視線の強さに耐えられなくなり、つい小太郎は目を逸(そ)らしてしまう。
「困った奴なのだ......」
 氏康がふーっと溜息をつく。
 歴史上、松千代丸、すなわち、氏政の評価は決して高いとは言えない。
 同情すべき点はある。
 まず、北条氏が滅亡する原因を作り、百年にも及ぶ北条氏の幕引きをする役目を担ったことである。
 氏政の最期も、あまり劇的とは言えない。
 どれほど優れた武将であっても、その最期が惨めだと、どうしても歴史における評価は辛いものになりがちである。
 その好例が今川義元であろう。桶狭間における死に様があまりにも見苦しく呆気なかったせいで、まるっきり阿呆のように思われているが、実際の義元は決して阿呆ではない。
 更に氏政の場合、宗瑞(そうずい)、氏綱(うじつな)、氏康と類い稀なほど傑出した当主が続いた後に北条氏を率いることになったため、どうしても見劣りがしてしまうのは仕方のないことであった。その点は武田勝頼(かつより)に似ている。
 ただ、氏政には、後継者としてふさわしいかどうかと氏康が重い悩むほど愚かな振る舞いがあったことも事実である。
 最もよく知られているのは、二度の汁かけ飯の挿話であろう。
 氏政が飯を食っているところに、たまたま氏康がやって来た。
 この時代、副食が少なく、やたらと飯ばかり食うのが普通なので、食べやすくするのに汁をかけたり、茶漬けにしたりすることが多い。
 氏康が見ていると、氏政も飯に汁をかけて食っているのだが、途中で箸を止めて、また汁を足すということを繰り返している。
 氏康は、
「飯など毎日食っているのに、どれくらいの汁をかければちょうどいいか、そんなこともわからず、何度も汁を注ぎ足すとは、何という愚か者よ」
 と溜息をついたという。
 後世の人間からすれば、汁など何度かけてもいいではないかという気がするが、当時の食事の作法からすれば、何度も注ぎ足すのは見苦しいと判断されたのであろう。
 もうひとつ、『甲陽軍鑑』に載っている有名な挿話がある。
 家臣たちを引き連れて氏政が領地を見回っているとき、たまたま麦畑のそばを通りかかった。農民が麦を収穫しているのを見て、
「おお、麦がある。ちょうど腹が減った。あの麦を食べることにしようか」
 と、氏政が言った。
 内心、家臣たちは、
(刈り取ったばかりの麦をすぐに食べられると思っているのだろうか)
 と呆れたという。
『甲陽軍鑑』では、この話を伝え聞いた武田信玄が、
「麦飯がどうやってできるのかも知らないようなうつけが北条の主だというのなら、いずれ武田が北条を従える日が来るであろうよ」
 と喜んだというオチがついている。
 実際に、このふたつの挿話に象徴されるほど氏政が愚かだったかどうかは定かではないが、少なくとも、氏親が亡くなった後、氏政に家督を継がせることを氏康が心配していたことだけは間違いない。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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