北条氏康 関東争乱篇第十八回

十一
 弘治三年(一五五七)二月初め、武田晴信は信濃に出陣した。中旬には川中島に進出し、武田に抵抗を続ける城や砦をいくつか落とした。
 川中島から北上し、三月初めには越後との国境近くにある飯山城を包囲した。
 このとき飯山城には高梨政頼がおり、武田軍に包囲されて動転した政頼は、春日山城の長尾景虎に矢継ぎ早に使者を送って、出陣を懇願した。
 晴信は、すぐには飯山城を攻めようとしなかった。
 景虎の出方を窺ったのである。
 四月になると、晴信は飯山城の包囲を解き、西上野に向かった。箕輪城の長野業正(なりまさ)を攻めるつもりだった。
 武田軍が接近すると、長野業正は城に籠もった。
 晴信が城攻めの準備をしているとき、川中島に残してきた馬場信房からの急使がやって来た。景虎が国境を越えて飯山城に入ったという知らせであった。
 三日後、また馬場信房からの使者が着いた。長尾軍六千が善光寺に本陣を置き、その周辺に兵を配置しているという。
 晴信は、箕輪城の囲みを解いて信濃に戻ることにした。川中島の近くにある、守りの固い深志(ふかし)城に入るつもりだった。
 深志城に入ると、晴信は、川中島周辺に点在する城や砦の守りを厳重に固めることを命じ、決して越後勢の挑発に乗ってはならぬ、とつけ加えた。
 景虎の戦上手は、晴信も四郎左(しろうざ)もよく知っている。
 しかも、出家騒動により、雨降って地固まるというのか、越後勢が景虎を中心に強く結束している。
 まともに戦えば、武田軍といえども、かなりの損害を覚悟しなければならない。
 それ故、晴信と四郎左は、長尾軍を相手にしない方針を固めた。
 長尾軍は、北信濃における武田方の重要拠点である山田城を落とし、その余勢を駆って千曲(ちくま)川を渡り、須坂周辺の小砦を次々と攻め潰した。
 それでも晴信は動かなかった。どれほど長尾軍が暴れ回ろうと、長尾軍に攻められている味方から救援要請が来ようとも無視した。決戦を避けて時間を稼ぎ、長尾軍が越後に引き揚げるのを待つという決意は揺らがなかった。
 結局、半年にも及んだ、この第三回の川中島の戦いで、晴信と景虎が直接戦うことは一度もなかった。
 唯一の大きな戦いは、八月下旬の上野原の合戦だが、これは偶発的に生じた遭遇戦である。
 馬場信房が率いる武田軍五千が移動しているのを景虎が発見し、急襲したのである。
 武田軍は三千の長尾軍の攻撃を支えきれず、たちまち算を乱して潰走した。一方的な敗北だったが、さほど大きな損害を受けなかったのは、信房がひたすら退却を命じ、無用の戦いを避けたからである。
 信房は、長尾軍と戦ってはならぬという晴信の戒めを忠実に守った。
 景虎は川中島を縦横無尽に駆け巡って、いくつもの小城や砦を奪ったが、山田城を除けば、戦略的にはほとんど意味のないものばかりで、実利は乏しかった。
 その代わり、景虎は名声を得た。
 すでにこの当時、晴信は名将と称され、武田軍は無敵と呼ばれるほど怖れられていた。
 実際、武田軍の侵攻を誰も止めることができず、晴信は着々と領地を広げていたのである。
 景虎は武田軍と互角以上の戦いを演じ、しばしば勝利を得た。そんな武将は他にいない。
 一方、晴信は実利を得た。
 九月になって景虎が越後に去るのを待って、川中島の支配権を固めることに成功したからである。
 景虎が奪い取った城や砦も、結局は晴信に取り返されてしまった。

十二
「武田と長尾は、また痛み分けだったようです」
 小太郎が風間(かざま)党からの報告を氏康に伝える。
 景虎が越後に去ってから、晴信が北信濃、特に川中島周辺で勢力を伸ばしていることも事細かに説明する。
「そうか」
 氏康は、さして強い関心を示すでもなく、浮かない顔で小太郎の話に耳を傾ける。
 しばらく小太郎は話し続けるが、氏康が上の空であることに気が付き、
「殿」
 と呼びかける。
「......」
「殿」
「ん?」
 氏康がハッとしたように顔を上げる。
「どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない。すまぬ。何の話だったかな」
「このままでは武田が北信濃を支配する日も遠くないのではないか、と申し上げたのですが」
「そうか。やはり、武田が勝つか」
「すぐにというわけにはいかないでしょうが」
「当家としては、どちらも勝たず負けず、いつまでも戦を続けてくれるのがありがたいがのう」
「はい」
 北信濃で武田と戦を続けているうちは、長尾景虎も上野に目を向ける余裕がないはずで、それは北条家にとって悪いことではないのだ。
「お顔色が優れぬようですが?」
 小太郎が心配そうに訊く。
「わかるか」
 氏康がふーっと溜息をつく。
「あまり眠れぬのだ。眠っても、すぐに目が覚めてしまうし、目が覚めると、つい考え事をしてしまう。夜中から朝まで考え続けてしまうこともある」
「お察しします」
 武田と長尾の動向も重要だが、今の氏康はもっと深刻で重要なふたつの問題を抱えている。
 どちらも政治問題なので、軍事を専門とする小太郎が口出しできることではない。
 だから、差し出がましいことを口にするのを憚ってきたが、氏康が悩み苦しんでいるのを目の当たりにして、とても黙っていられなくなった。
「殿は精一杯のことをしておられます。誰にも真似のできぬことです。年が明ければ、きっと何もかもうまくいくはずです」
「そうだといいのだが......」
 やはり、氏康の表情は冴えない。気休めの言葉で楽観的になれるほど軽い問題ではないのだ。
 氏康を悩ませている問題のひとつは、凶作と疫病である。
 この年、北条家の領国では、天候不順が原因でひどい凶作となった。春から秋にかけて、あらゆる農作物が例年の半分ほどしか収穫できず、飢饉が発生した。
 農業技術が未熟な時代なので、農作物の豊凶は天候次第であり、何年かに一度は確実に凶作に見舞われる。
 北条家では、初代の宗瑞(そうずい)以来、凶作に備えて、米や麦を備蓄し、いざというときには、それらを放出して農民が飢えぬように配慮している。
 当然、この年も、そうした。
 そのおかげで、飢饉はそれほど広がらずに終熄したものの、備蓄されていた米や麦は底をついてしまったし、それを補充する見通しも立っていない。
 氏康が憂慮するのは、万が一、年が明けても事態が好転しなければ、すなわち、二年続けて凶作になるようであれば、何の対策も打てないということであった。
 来年の天候がどうなるかは、年が明けないとわからないわけだが、先行きの見通しを暗くし、事態をいっそう深刻にしているのは、凶作に加えて、疫病が発生したことである。
 ろくな医療技術も医療知識もないから、ばたばたと人が死んでも手をこまねいているしかない。
 凶作と疫病は無関係に発生したわけではない。
 疫病の原因となる病原菌は、日常的にどこにでも存在しているから、凶作によって飢饉が起こり、人々が飢餓状態に陥ると、体力が落ちて病原菌に対する抵抗力が急激に弱まる。病人が増えれば働き手が減り、それだけ生産力が落ちるという悪循環に陥る。
 氏康は、普段から質素倹約に努め、大大名であるにもかかわらず、贅沢とは無縁の生活を送っている。
 それもまた初代宗瑞以来の家訓であり、父の氏綱は宗瑞によって、氏康は宗瑞と氏綱によって、幼い頃から、そのように躾けられてきた。氏康の後継者である氏政も、その点では同じである。上に立つ者がまず範を示さなければならぬ、というのが宗瑞の厳しい教えなのである。
 凶作や疫病で領民が苦しんでいるとなれば、それまで以上に氏康は質素倹約に努め、自分だけでなく家臣たちにも同じことを求めるのは当然である。
 ところが、それと矛盾することを来年の春に行わなければならない。
 そのことが氏康を悩ませている。氏康の甥に当たる古河公方(こがくぼう)・足利義氏の鶴岡八幡宮参詣である。
 古河公方の参詣は初めてで、参詣後、小田原を訪問する予定になっている。
 この参詣は盛大な行事にしなければならないし、小田原訪問に際しても、贅を尽くして、義氏を歓迎しなければならない。金惜しみなどできないのだ。
 氏康とすれば、
(選りに選って、この時期に凶作と疫病に悩まされなければならぬとは......)
 と歯軋りする思いだったであろう。
 普通に考えれば、時期が悪いのであれば、義氏の鶴岡八幡宮参詣と小田原訪問を延期すればよさそうなものだが、それもできない。
 義氏の鶴岡八幡宮参詣と小田原訪問には重要な政治的な意図が含まれており、かなり以前から慎重に計画されてきたので、そう簡単に延期などできないのである。
 氏康が望む官位が義氏に与えられるように、莫大な賄賂を使って朝廷に根回しした。それが成功し、年が明けて二月の初めには、義氏は従四位上・右兵衛佐(うひょうえのすけ)に任じられることになっている。
 ただの官位ではない。深い意味がある。
 右兵衛佐は、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝が任じられていた官職なのだ。
 氏康の官職は右京大夫で、これは鎌倉幕府の執権を務めた北条氏の当主と同じである。
 すなわち、義氏を将軍に、氏康を執権に擬して、二人の関係を鎌倉幕府になぞらえようということなのである。それによって北条氏による関東支配を正当化しようという考えなのだ。
 それが実現すれば、もはや関東の武士たちは、北条氏を成り上がり者と嘲笑うことなどできず、鎌倉幕府の真の後継者として認めざるを得ないであろう。実力だけでなく、権威によっても関東を支配する土台を築くことができる。
 それほどの重大事を、そう簡単に先延ばしできないのは当然であろう。
 義氏の参詣と小田原訪問を延期できないのであれば、氏康としては、疫病が収まり、農作物の収穫が上向くことを祈るしかない。
「悪いことばかりではありませぬ」
「そうかな」
「武田と長尾がやり合ってくれているおかげで、当家は大きな戦をせずに済んでいるではありませぬか」
「戦か。そうだな、この上、戦など起こったら、国が滅んでしまうだろうな......」
 うむ、悪いことばかりではない、少しはいいこともあるのだ、と氏康は自分に言い聞かせるようにつぶやく。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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