北条氏康 関東争乱篇第三十回

十一

 翌朝、新之助は数人の警護の武士たちと共に河越城を出立した。
 帰還したのは三日後である。岩付城で虜にされることはなかったものの、資正を翻意させることはできなかった。資正の決意は固く、岩付城では戦支度が進められていた。
 わずかながら収穫があったとすれば、嫡男・氏資は長尾に与(くみ)することを快く思っていないことであった。太田の家中も一枚岩ではなく、いまだに北条に心を寄せる家臣も多く、その混乱が鎮まっていなかった。
 しかしながら、岩付では資正が絶対的な権力を保持しており、岩付太田氏が長尾勢に加わるのを止めることはできそうにない、というのが新之助の見立てであった。
 話を聞いた氏康と小太郎は相談し、河越城から松山城に移ることにした。
 それまでは河越城、岩付城、松山城の三つの城を連動させて長尾勢を食い止めようという計画だったが、岩付城が寝返ったことで、その計画は頓挫した。
 松山城と河越城のふたつだけで長尾勢を食い止めるのは容易ではないが、そうしなければならないとすれば、より前線に近い松山城で決戦に臨むのがよかろうと判断したのだ。
 天然の要害である松山城は、そう簡単には落ちないであろうし、万が一、攻め落とされても、次は河越城で敵を迎え撃つという二段構えの策を採ることができる。
 ところが、氏康が松山城に腰を据え、長尾軍の来襲に備えて戦支度をすすめているときに思いがけない事態が起こり、氏康と小太郎は改めて迎撃計画の練り直しを迫られることになった。
 その原因は資正であった。
 資正の寝返りは氏康にとって大打撃だったが、まさか、すぐに資正が軍事行動を起こすことまでは予想していなかった。
 長尾景虎が武蔵に攻め込んでくるのを待ち、長尾軍に呼応して河越城を攻撃するだろう、というのが氏康と小太郎の読みだったのである。
 その読みが外れた。
 長尾軍を待つことなく、資正は独自に動き始めたのである。
 二千ほどの兵を率いて岩付城を出ると、南進して、江戸城の東にある豊島郡石浜を攻撃した。
 そこから江戸城を迂回するように更に南下して、今度は荏原郡品川を攻めた。
 そこで一旦兵を退くと、今度は河越城と江戸城の間を通って西に進み、入間郡岩崎を攻めた。
 報告を聞くたびに氏康の顔色は悪くなり、
「どうするのだ? どうすればよいのだ」
 と、小太郎の前で溜息をつく。
 長尾軍が国境付近に迫っているので、松山城の氏康は動くことができないし、河越城や江戸城には、出撃して資正と戦うほどの兵がいない。
 氏康には、資正が好き放題に暴れ回るのを止める手立てがない。それを見透かしたように、資正は悠々と北条氏を攻める。
 長い間、北条氏に仕えてきたから、資正は北条氏の内部事情に精通している。どこを攻めるのが最も効果的で、より大きな打撃を与えることができるか、よくわかっているのだ。
 資正が最初に攻撃した豊島郡石浜は、江戸湾の交易拠点のひとつである。各地から船で物資が運ばれ、ここから陸路で武蔵の各所に運ばれる。石浜が資正に押さえられてしまえば、北条氏の物流が止まる。
 特に深刻なのは、上方から運ばれてくる鉄砲がここで荷揚げされていたことで、鉄砲の供給が滞れば、軍事作戦に支障を来すことになる。
 荏原郡品川も物流の拠点であり、米の集積地になっている。品川が資正の手に落ちれば、江戸城や河越城への兵糧米の供給が遮断されてしまう。
 石浜と品川への攻撃は、武器も兵糧もこっちが押さえてしまうぞ、という資正の恫喝なのであった。
 入間郡岩崎への資正の進軍は、更に露骨な恫喝だ。岩崎は河越城の南の土地で、ここを資正が押さえれば、氏康は北の長尾軍と南の太田軍に挟み撃ちされる怖れが生じる。袋の鼠になりかねないのだから、報告を聞いた氏康の顔色が変わるのも当然なのだ。
 もっとも、これら三箇所へ続けざまに攻撃を加えたものの、資正は長居せず、岩崎周辺を荒らし回ると、さっさと兵を退いて岩付に帰った。
 理由は、ふたつある。
 ひとつは、率いているのが二千ほどに過ぎなかったことで、もうひとつは、これらの攻撃に対して氏康がどう反応するかを見極めるためであった。
「残念ながら、われらには何もできませぬ」
 小太郎が無念そうに言う。今の北条氏には資正と事を構えるだけの余裕がないのだ。
「何もしなければ、資正はまた出てくるぞ。石浜なのか、品川なのか、それとも、岩崎なのか......。どこを攻められても、わしらは首根っ子をつかまれたようなもので、身動きが取れなくなるぞ」
「われらにとって最も痛いところを狙い撃ちにしているのです」
「敵に回してはならぬ男だった。まさか裏切るとは......。見通しが甘かったのう」
 氏康が肩を落とす。
「裏切りの予兆でもあれば、何らかの対策を講じることもできたでしょうが、そのような予兆は何もありませんでした。あまりにも突然のことでしたので、わたしも驚きました。いったい、何があったのか......」
 小太郎が首を捻る。まさか、冬之助が単身岩付城に乗り込んで資正を説得したとは想像もできないのであろう。
「見事なほどの裏切りだったということだな。愚痴ばかりこぼしても仕方がない。これから、どうするかだが......」
「どうしようもありませぬ」
 小太郎が首を振る。
「どういう意味だ?」
「石浜や品川を攻められるのも一大事ですが、それよりも、岩崎を奪われて、そこに居座られてしまっては取り返しがつかぬことになります」
「やはり、そうするだろうか......」
「本気で北条氏を滅ぼすつもりならば、次はありったけの兵を率いて岩崎に兵を進めるでしょう」
「石浜と品川は目くらましで、本当の狙いは、わしを挟み撃ちにすることか」
 氏康が顔を顰(しか)める。
「恐らく」
「わしらはどうすればいい?」
「松山城にいるのは危のうございます」
「河越城に戻るのか?」
「美濃守が岩崎に陣を敷くことになれば、松山城にいても河越城にいても危ないことに違いはありませぬ」
「すると......」
「今のうちに小田原に戻るしかないと存じます」
「小田原にか」
 さすがに氏康が驚く。
 氏康が兵を率いて松山城まで出てきたのは、長尾軍と決戦して武蔵を守るためである。小田原に退却してしまえば、武蔵を放棄するようなものだ。
「上野は奪われた。武蔵もくれてやるのか?」
「城を渡すわけではありませぬ。戦わぬだけです」
「残った者たちに籠城を命ずるのか?」
「はい。武蔵にはたくさんの城があります。守りを固めて、城から出ないようにすれば、どれほどの大軍が攻めようとも、そう簡単には落ちませぬ」
「沼田城は一日で落ちたぞ」
「長尾軍がどれほど手強いか、あのときは、よくわかっていなかったからです。今は違います。もっと守りを固めるのです」
「それで勝てるだろうか?」
「勝てるとは思いませぬが、いずれ風向きも変わりましょう。今は長尾軍に追い風が吹いております」
「北条兵が城から出なければ、長尾勢は城の周りを荒らし回るぞ。民が苦しむことになるな」
「北条が滅んで、長尾や山内上杉が関東を支配するようになれば、民はもっと苦しむことになります。肉を切らせて骨を断つ覚悟が必要であると存じます。戦の勝ち負けではなく、いかにして北条氏を生き延びさせることができるか、それだけを考えなければなりませぬ」
「それ以外に策はないか?」
「ございませぬ」
 小太郎がきっぱりと言い切る。
「そうか......」
 氏康が目を瞑る。
「......」
 小太郎は口を閉ざし、氏康が考えをまとめるのを待っている。
(もう四十二年も昔のことになる......)
 初めて宗瑞(そうずい)に会ったのは、四十二年前、小太郎が十三歳のときである。香山寺で下働きをしていた小太郎の才能を住職の以天宗清が見抜き、宗瑞に推挙したのである。
 宗瑞は小太郎を足利学校に送った。孫の氏康を支えてもらうために、小太郎を軍配者にしようと考えたのだ。
 宗瑞、氏綱、氏康と北条氏では賢明な主が三代続き、領国は大きく広がり、そこで民が安穏に暮らしている。彼らが征服戦争を続けて領国を拡大したのは己の私利私欲のためではない。北条氏のやり方ならば、民が今よりも幸せに暮らすことができるという信念に基づき、民を不幸にする領主を討ち滅ぼしてきたのだ。
 宗瑞の思い描いた最終的な理想形は、北条氏の主が関東管領になって、関東から戦乱をなくすことであった。
 氏康は、あと一歩で、その理想形に到達するというところに達している。
(にもかかわらず、わしが後戻りさせようとしているわけか......)
 小太郎は胸が痛む。
 松山城を出て、氏康が小田原に引き揚げれば、もはや長尾軍の武蔵侵攻を食い止める手立てはない。確かに武蔵にある北条方の多くの城を攻め落とすのは容易ではないかもしれないが、時間さえかければ、いずれは堅固な城も落ちるであろうし、大軍に怖れをなして自ら開城して降伏する者も出てくるであろう。
 すなわち、小田原に退けというのは、裏返せば、武蔵を放棄せよ、と言っているのと同じことなのだ。
 武蔵を征するために宗瑞や氏綱がどれほど苦労を重ねたか、その苦労を引き継いだ氏康が、どれほど血と汗を流してきたか、小太郎はよくわかっている。何十年もかけて、ようやく手に入れたのだ。
 その武蔵を長尾軍と戦ってもいないのに、むざむざ放棄せよ、と小太郎は進言した。
 氏康にとっては、到底、受け入れることのできない進言であろう。
 しかし、武蔵を守るために氏康が長尾軍と戦えば、恐らく、氏康は敗れるであろうし、敵の大軍に飲み込まれて戦死するかもしれない。
 それは北条氏の滅亡を意味する。
 それだけは何としても防がなければならないから、小太郎は小田原に引き揚げることを進言した。
 北条氏の存亡を賭して長尾軍と決戦するか、それとも、その危険を避けて小田原に引き揚げるか、今、この瞬間の氏康の決断が北条氏の運命を決すると言っていい。
 やがて、氏康が目を開ける。
 ふーっと大きく息を吐いてから、
「わかった。小田原に戻ることにしよう」
 と言った。
「......」
 小太郎は何も言うことができない。
 瞬きもせず、じっと氏康を見つめる。
 その目から涙が溢れる。
「どうした、なぜ、泣くのだ?」
「申し訳ございませぬ。何の役にも立てず、本当に申し訳ございませぬ」
 戦に勝つための策を立て、主を勝利に導くのが軍配者の仕事なのに、自分は何もできない、何の役にも立っていない......そう小太郎が口にする。
「馬鹿なことを言うな。おまえがいてくれたから、わしらはここまで来ることができたのだ。城や土地など失っても構わぬ。失ったものは取り戻せばいいのだ。命さえあれば、何度でもやり直すことができる。そう父上に教わった。まだまだ、おまえには力を貸してもらわなければならぬ。頼むぞ」
「......」
 小太郎は肩を落とし、うつむいてしまう。
 止めどなく涙が溢れ、その涙がぽたりぽたりと板敷きに滴(したた)り落ちる。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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