北条氏康 関東争乱篇第六回

十二

 殺風景な部屋である。十二畳ほどの板敷きには、上座に畳が一枚敷かれているだけだ。その畳に、春日山(かすがやま)城の主・長尾景虎(かげとら)があぐらをかいて坐り込んでいる。二十四歳の越後国主である。
 景虎は、かれこれ半刻(一時間)ほども黙りこくっている。自分の膝に肘を乗せ、頬杖をついて難しい顔をしている。下座には、直江実綱(なおえさねつな)、本庄実乃(さねより)、大熊朝秀(ともひで)という、いずれも五十がらみの重臣たちが居並んでいる。その三人よりも更に下座に冬之助が控えている。
 冬之助は三人の重臣たちを観察している。
 実綱は生真面目な表情で、まったく姿勢を崩さず、背筋をぴんと伸ばしたまま、膝の上に置いた自分の手許に視線を落としている。
 本庄実乃は、じっと目を瞑っている。小太りの体が微かに前後に揺れているのは、居眠りしているせいだと冬之助にはわかる。
 重臣たちとの話し合いの場で、時として景虎は黙り込んでしまうことがあり、その沈黙がどれくらい続くのか誰にもわからない。景虎が口を開くのを、じっと待つしかない。
 冬之助が景虎に仕えるようになって五年になるが、その間には、一刻(二時間)も黙り込んだことがある。
 そういうときの景虎は、自分の世界に閉じ籠もってしまい、心の中で、ひたすら自分自身と押し問答しているだけだから、周囲のことには、まったく気が回らなくなってしまう。
 だから、実乃も平気で居眠りができる。いびきが洩れたり、体勢を崩してひっくり返ることもある。それでも景虎は、ぴくりとも反応しない。
 対照的なのが大熊朝秀で、骨張って痩せた体格だけでなく、見るからに神経質そうな容貌も、まるっきり実乃とは違っている。
 朝秀は、ちらちらと景虎に目を向けながら、苛立った様子で爪を?んでいる。ただ待つだけという無為な時間の過ごし方が性に合わないのだ。
 実綱は実務能力が抜きん出ており、実乃は様々な縁故やコネを駆使して、時には恫喝という荒っぽい手段を用いて、長尾氏に従う豪族たちの間で悶着や軋轢が生じるのを未然に防ぐ寝技に長けている。朝秀は長尾氏の金庫番という立場で、算盤(そろばん)勘定に優れている。そういう三人の特徴が、退屈な待ち時間の過ごし方にも如実に表れていると冬之助は感じる。
(御屋形さまは、だいぶ迷っておられるな......)
 この五年の間に、冬之助も長尾景虎という若い主をだいぶ理解するようになっている。
 政治に関わる厄介事が生じると、景虎の思考は立ち往生して何も判断できなくなってしまう。政治が苦手なのだ。
 戦のときは、そうではない。
 大きな戦の前、必ずと言っていいほど城内の毘沙門堂に籠もるが、そこから出てくるときには明確な方針が決まっており、矢継ぎ早に指示を出していく。足利学校で系統立てて兵法を学んだ冬之助の立場からすると、常識外れの指示に思えることもあるが、いざ実戦となると、景虎の指示の正しさが明らかになる。理屈では間違っているはずなのに、現実には景虎の思惑通りに事が進んでしまう......何度となく、そういう経験をするうちに、冬之助は、景虎が兵法の常識では測ることのできない天才的な武将であることを疑わなくなった。
 ところが、政治向きの話になると、景虎は人が変わったように優柔不断になってしまう。情が混じって目が曇り、先例と道理に基づいて適切な決断を下すという単純なことができないのである。
 今も、そうだ。
 どういう決断を下すべきか、重臣たちにも冬之助にもわかっている。景虎もわかっているはずなのに、それでも、景虎は迷っている。
 こういう事情であった。
 二日前、村上義清が春日山城に現れた。
 援軍要請である。
 景虎としては断りたかった。
 実際、去年の十二月に小笠原長時(ながとき)に同じことを頼まれたときには即座に断っている。
 景虎は信濃には関心がないのである。景虎の目は一途に関東に向いている。
 関東にこだわる大きな理由があるのだ。
 きっかけは、関東管領である山内上杉氏の主・憲政が上野から越後に逃れてきたことである。
 景虎の生涯にわたる性癖と言っていいが、自分よりも身分の高い者に何かを頼まれると気が狂わんばかりに感激し、その頼みを断ることができなくなってしまう。
 関東管領という雲の上のような存在が景虎に頭を下げ、景虎の手を取って、
「わしを助けてくれぬか」
 と涙まで流したのである。
 それでなくても感激しやすい景虎の血は高揚した。
 いや、沸騰したと言っていい。
 景虎とすれば、すぐさま上野に出兵したかったが、国内事情が、それを許さなかった。
 やむなく景虎は氏康に使者を送り、憲政に上野を返還するように申し入れた。
 氏康からは慇懃無礼(いんぎんぶれい)な返事が返ってきた。
 これに怒った景虎は上野に攻め込み、厩橋(うまやばし)城や平井城周辺を荒らし回った。
 もっとも、氏康と決戦するほどの兵力ではなかったので、氏康が大軍を率いてやって来ると、すぐさま越後に引き上げた。
 とりあえず、憲政の顔を立ててやったという格好だが、憲政は大いに不満だった。小競り合いなどではなく、本格的に上野に攻め込んで、北条勢を駆逐してもらいたいのである。
 その頃には憲政も景虎の性格がわかっていたから、いかにして景虎を抱き込み、否応なしに北条氏との戦に引きずり込むか、軍配者の桃風(とうふう)と相談した。
「よほど思い切ったやり方をしなければなりませぬぞ」
「上野の半国くらいを渡さねばならぬかのう」
「それでは駄目でしょう。あの男には、どうやら物欲というものがないようです」
「では、どうする?」
「弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任じられたときの喜びようを覚えておられますか?」
「うむ、子供のように無邪気に喜んでいたな。朝廷の任官など、賄(まいない)次第でどうにでもなるというのに」
「田舎者だから、そんな当たり前のことも知らないのでございますよ。弾正少弼くらいであれほど喜んだのですから、関東管領職にしてやると言えば、喜び過ぎて狂い死にしてしまうかもしれませぬな」
「関東管領にするのか? しかし、あれは山内上杉の当主が世襲するものだぞ」
「ですから、山内上杉の家督も譲ってしまうのです」
「わしの後継ぎにするということか?」
「竜若丸(たつわかまる)さまも亡くなられて、ちょうどご嫡男の席も空いておりますれば」
「わしは、どうなるのだ?」
「隠居料として上野一国をもらいたい、それ以外の国は好きにしてよい、とでも言えばどうでしょうか。武蔵もやる、相模もやる、伊豆もやる......好きにせよ、と」
「それで納得するか?」
「まずは話してみることでございますよ」
「うむ、そうしてみよう」
 相談がまとまると、憲政は景虎を呼んで、
「汝に関東管領職と上杉の家督を譲りたい」
 と言い出した。
 景虎は仰天した。
 室町幕府は、その草創期に、東日本を関東公方(くぼう)が、西日本を室町将軍が統治するという形を取った。
 関東管領の役目は、関東公方を補佐し、関東公方に刃向かう者を武力で討伐することである。東日本の武士たちの頂点に君臨し、思うさま采配を振るう権力が与えられているのだ。
 もっとも、それは過去の話である。
 現に関東管領職を世襲する山内上杉氏は滅亡の瀬戸際に追い込まれているではないか。
 いくらかでも時勢を見る目のある者にとっては、関東管領職や山内上杉氏の家督など少しも魅力のあるものではない。それどころか、恐るべき災いの種と言っていい。
 なぜなら、今や関東の最強国である北条氏が関東管領職を狙っているからだ。迂闊に関東管領職を譲り受けたりすれば、北条氏と激突する覚悟をしなければならない。
 しかも、北条氏は憲政の嫡男・竜若丸を殺している。景虎が憲政の養子となって山内上杉の家督を継げば、義理の兄弟である竜若丸の弔い合戦をする義務を負わされるわけで、否応なしに北条氏と事を構える立場に置かれてしまう。それが武家の論理というものだ。
 景虎にとっても越後にとっても、これほど馬鹿な話はなかった。
 関東管領など有名無実の職に過ぎず、何の権力もない。山内上杉の家督にしたところで、憲政には譲るべき城も領地もない。憲政が景虎に譲ることができるのは、上杉家に代々伝わる太刀と系図、朝廷から下された御旗、「笹に飛雀(とびすずめ)」の紋が描かれた幔幕(まんまく)くらいであった。
 普通であれば、断るであろう。
 景虎も最初は断った。
 この申し出の馬鹿馬鹿しさを見抜いたからではない。自分のような若輩者が、しかも、越後守程度の者が関東管領職に就いたり、山内上杉の家督を継ぐのは畏(おそ)れ多い、という理由であった。
(これは脈があるな)
 と見抜いた憲政は、もう一押しすれば、景虎を抱き込むことができるとほくそ笑み、
「わしの言葉だけでは信じられぬのもわからないではない。上洛せよ」
 京都に上って、室町将軍に謁見し、将軍の口から許しを得ればよい、と勧めたのである。
 筋から言えば、関東公方を補佐するのが関東管領の役目なのだから、京都にいる将軍ではなく、古河(こが)公方・足利晴氏(はるうじ)の元に出向くべきだが、晴氏は氏康の言いなりだから、景虎の望みをかなえてくれるはずがない。それで憲政は上洛を勧めた。
(古河にいようが、京にいようが、どちらも将軍には違いあるまい)
 という人を食った憲政の理屈である。
 随分と景虎も甘く見られたものだが、当の景虎は、すっかり舞い上がってしまい、すぐさま上洛準備を始めた。重臣たちが諫(いさ)めたが、耳を貸そうとしなかった。まんまと憲政の術中にはまった。
 小笠原長時の援軍要請を断ったのは、上洛で頭がいっぱいだったからである。上洛して将軍に謁見し、関東管領職への就任と山内上杉の家督相続を許してもらえたら、すぐにでも関東に兵を出すつもりでいる。信濃に関わっている暇などないのだ。
 そこに村上義清が現れた。
 今度も断りたかったが、事は、それほど簡単ではない。

十三

「出陣しなければならぬ」
 ようやく景虎が口を開く。
 なぜ、小笠原長時の頼みを断ったのに、村上義清の頼みを聞こうとするのか。
 それは、案内役として、高梨政頼が同行していたからである。
 何代も前から、長尾と高梨は通婚を重ねており、同族と言っていいほど血の繋がりが濃い。
 現に政頼の妻は景虎の父・為景(ためかげ)の妹で、景虎にとって政頼は義理の叔父である。
 景虎が兄の晴景(はるかげ)から長尾の家督を譲り受けるときにも、政頼は尽力してくれた。恩人なのだ。
 その政頼から、わしを助けてくれぬか、と頼まれれば、情にもろい景虎が断り切れるはずがなかった。
「それは、よいお考えとは思われませぬ」
 真っ先に大熊朝秀が反対する。
「金がありませぬ」
「ううむ、金か......」
 景虎の表情が曇る。
 金がないといっても素寒貧(すかんぴん)という意味ではない。あるにはあるが、もう使い道が決まっているのだ。
 上洛の資金なのである。
 本来であれば、もっと早く上洛したかったが、それが延び延びになっているのは金がないからだ。
 上洛には莫大な費用がかかる。その費用を捻出するために、朝秀は四苦八苦してきた。ようやく目処が立ったので、この秋、上洛する予定になっている。
 武田と戦になれば、その資金を戦費に充てることになるから、またもや上洛を延期しなければならなくなってしまう。
 本庄実乃も武田との戦いに反対する。
 理由をふたつ挙げる。
 ひとつは、武田の強大な軍事力である。
 今の武田の最大動員能力は二万にも達するであろう。
 景虎が動かすことができるのは、せいぜい、五千ほどに過ぎない。越後を総ざらいすれば一万ほどになるだろうが、数字上の話に過ぎず、現実的ではない。自分の国を空にして、他国に兵を出すなどあり得ないからだ。
 もうひとつの理由は、武田との戦いが長引けば、越後で反乱が起こる可能性があることだ。表面的には平穏だが、隙があれば、景虎に取って代わろうとする野心家が何人もいる。
 直江実綱は黙っているが、その沈黙こそが、二人の重臣たちと同じ意見だという証であろう。
「おのれら、わしを恩知らずの人でなしにするつもりか」
 景虎が絞り出すように言う。
「では、言い方を改めましょう。武田と戦をするなとは申しませぬ。どうしても戦をするのであれば、上洛を諦めていただくしかありませぬ」
 大熊朝秀が冷たい口調で言う。
「いやいや、やはり、戦などするべきではない。のう、直江殿?」
 本庄実乃が訊く。
「御屋形さま、ここは本庄殿や大熊殿の申されるように......」
「もう、よいわ!」
 目を血走らせ、肩を怒らせて、景虎が板敷きを踏み鳴らして部屋から出ていく。
「納得して下さったのであろうか......」
 直江実綱が独り言のようにつぶやく。
「そうしてもらわねば困る。戦もする、上洛もするというのでは金蔵が空になってしまう。いや、それでも足りぬな。身の丈に合わぬことをするのは、自ら墓穴を掘るようなもの」
 大熊朝秀が苦い顔で言う。
「若いときには、無茶をするくらいでちょうどよいが、今度ばかりは無茶を控えていただかねばならぬな。いずれ武田と戦うことになるかもしれぬが、それは今ではない。十分な備えもないまま戦を始めれば、大熊殿の言うように、それこそ墓穴を掘りかねぬわ」
 ふと本庄実乃は冬之助を見て、
「宇佐美殿、どう思われる?」
「そのようなことを軍配者などに訊ねることもありますまいに」
 大熊朝秀が顔を顰(しか)める。
「まあ、よいではないか。御屋形さまもおられぬ。これは、わしらだけの雑談よ、雑談。それに宇佐美殿は、山内上杉の軍配者だったときに武田と手合わせしている。そうであったな?」
「はあ......」
 しばらく考えてから、冬之助は、
「武田がそれほど強いとも思われませぬ」
「小田井原(おだいはら)では上杉が負けたではないか」
 大熊朝秀が口許に薄ら笑いを浮かべる。
「勝つときもあれば負けるときもあります。あのとき武田は五千、上杉は三千、数で劣っていた上に上杉兵は疲れておりました。武田が強かったというより、上杉が弱かったと考えるべきかと思います」
「では、宇佐美殿は、御屋形さまと同じように武田と戦うべきだという考えなのか?」
 本庄実乃が訊く。
「戦うべきか否か、それは軍配者が口を挟むことではありませぬ。戦うと決まれば、いかようにも策の立てようはあるということです」
 自分は戦をするだけの男だ、政治絡みのややこしいことは、そっちで勝手に話し合ってくれ......冬之助の言いたいのは、そういうことだった。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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