北条氏康 関東争乱篇第三十九回

二十八

「そろそろ、よかろう。信玄に止めを刺す」
「はい」
「腹黒く強欲な臆病者だと思っていたが、少なくとも臆病者ではなかった。兵を見捨てて逃げ出すことなく、最後まで戦場に踏み留まったのは見事な覚悟だ。少しは見直したぞ。その勇気を賞し、わしがこの手で成敗してくれる。駿河の今川のように雑兵の手にかかって死ぬのでは口惜しいであろうからな」
 景虎は刀を抜くと、右手を高々と挙げ、
「これより武田の本陣を衝く。雑兵首などいらぬぞ。狙うのは敵の大将・武田信玄の首だけだ。それ以外はいらぬ。行くぞ、わしに続け!」
 景虎が馬の腹を蹴る。三千の兵が、うおーっという叫び声を発しながら景虎に続く。矢のように一直線に信玄の本陣を目指して疾駆する。
 穴山隊は長尾軍の騎馬隊に蹴散らされた。
 今や本陣の前を固めているのは飯富源四郎の率いる一隊だけである。飯富隊が突破されれば信玄の本陣は丸裸になる。
 飯富隊は六百人ほどに過ぎないが、飯富源四郎は八十挺の鉄砲を温存していた。本陣の前に槍隊を二百人ずつ二段構えに並べ、その後ろに鉄砲隊を配置する。鉄砲隊も四十人ずつの二段構えだ。鉄砲隊の後ろに百二十人の騎馬隊がおり、その中心に源四郎がいる。
 後に山県(やまがた)昌景と改名し、武田四名臣の一人に数えられることになる飯富源四郎は、このとき三十三歳、侍大将になって十年目であった。
 源四郎は、穴山隊を蹴散らした長尾軍が迫っても、顔色ひとつ変えない。冷静に目を凝らし、どこを攻めれば長尾軍の勢いを止められるかと考える。肝に毛が生えているかのような剛胆さが源四郎の持ち味である。
(やはり、管領殿か......)
 長尾軍の先頭に「毘」の旗が翻っている。その近くに景虎がいるということだ。
 わずか六百で三千の長尾軍とまともに戦っても勝ち目はない。長尾軍の急所に兵力を集中し、長尾軍全体を痺れさせるしかない。
 源四郎は馬を少し前に進ませると、
「よいか、『毘』の旗が見えるであろう。あの近くに敵の大将がいる。頭を白い袈裟で覆っているから、すぐに見分けがつくはずだ。他の者は、どうでもいいから、大将か、その馬だけを狙うのだ。慌てるなよ、合図するまで撃ってはならぬ」
 鉄砲足軽たちに命ずる。
「......」
 源四郎が前方を見遣る。
 まだ鉄砲の射程圏外だ。じっくり引きつけて狙わなければ意味がない。
「まだだ、まだだぞ」
 自分に言い聞かせるようにつぶやく。
 長尾軍が迫る。鉄砲の玉は届く距離だが、たとえ命中しても大して威力はない。
「槍隊、しゃがめ!」
 それまで槍隊は立ったまま槍を構えていたが、源四郎が命ずると地面に膝をつく。
 背後ではすでに鉄砲隊が狙いを定めている。いつでも発射できる態勢だ。
「撃て!」
 源四郎が合図すると、四十挺の鉄砲が一斉に火を噴く。「毘」の旗の周りで長尾兵がばたばたと倒れる。
「撃て!」
 続いて、二段目の四十挺も火を噴く。またも長尾兵が倒れる。
 だが、景虎には当たっていない。
 並の武将であれば、ここで防御を固め、鉄砲隊が次の玉を込める時間を稼ごうとするであろうが、源四郎はそんな当たり前の作戦を選ぶ男ではない。本陣を守るために槍隊を残したまま、百二十騎を率いて「毘」の旗を目がけて突撃する。無謀すぎるほどの攻撃だが、これが功を奏し、長尾軍の勢いを止めた。その間に鉄砲隊は玉を込め終わり、長尾軍に銃弾を浴びせる。
 信玄の本陣を襲おうとする長尾兵は槍隊に撥ね返される。槍隊をやり過ごして本陣に迫った長尾兵は、そこで信玄の小姓たちの死に物狂いの防戦に苦しめられた。
 とは言え、所詮、飯富隊は六百に過ぎない。しかも、疲労の溜まった六百であり、時間が経てば、長尾軍の敵ではない。
 だが、飯富隊の奮戦によって、長尾軍の突撃を四半刻(三十分)ほど食い止めることに成功した。この四半刻が勝敗の分かれ目であった。
 妻女山に向かっていた武田の別働隊一万二千がようやく戦場に現れたのである。
 別働隊の先鋒は小山田信茂だ。小山田隊は長尾軍の側面から攻めかかった。この攻撃で長尾軍は一気に崩れる。
「御屋形さまを救うのだ! 本陣を守れ」
 小山田信茂が泣きながら叫ぶ。信茂だけではない。別働隊の武将たちは、皆、涙を流しながら戦っている。妻女山から八幡原に急ぐ間、もう間に合わないのではないかという絶望感に苛まれた。いざ戦場に着いてみると、武田の本隊は長尾軍に蹂躙され、見るも無惨な状態に陥っている。かろうじて本陣には「風林火山」の旗が翻っているものの、この惨状を見れば、もはや信玄は生きてはいないだろう、と涙が溢れた。そうは思うものの、一縷の望みを捨てきれずに、御屋形さまを救え、と叫ばずにいられなかった。
 次いで、長尾軍に対する激しい怒りと憎悪が渦巻いてくる。怒りと憎悪で阿修羅となった武田の別働隊が長尾軍に襲いかかる。

二十九

「ふふふっ、あの男、やるではないか。武田にも肝の据わった男がいるのだな」
 飯富源四郎のがんばりで長尾軍の勢いを削がれたというのに、景虎は楽しそうだ。命を惜しまずに勇敢に戦う者であれば、敵であろうと味方であろうと心から賞賛するのである。
 しかし、武田の別働隊が現れたのを知ると、景虎も表情を引き締める。
「勇気ある者よ。そのがんばりを誉めて遣わす。しかし、これ以上、付き合っていることもできぬ」
 飯富隊の鉄砲が一斉に放たれると、
「わしに続け!」
 景虎が馬を走らせる。
 鉄砲の玉込めの隙を衝こうというのだ。
 景虎に続くのは、小姓たちを中心とする三百である。源四郎の騎馬隊を置き去りにし、槍隊に突撃する。槍隊も景虎の騎馬隊を食い止めることができない。本陣の前には信玄の小姓たちがいるだけだ。
「お供いたします」
 冬之助が景虎に馬を寄せる。
「よかろう」
 追いすがる信玄の小姓を蹴倒し、景虎が本陣に馬を突っ込ませる。横から斬りかかってくる者を刀で薙ぎ払う。左から襲ってくる者は冬之助が相手をする。
(信玄......)
 景虎が両目を大きく見開く。「風林火山」の旗の横で床几に腰掛けているのが武田信玄に違いない。
「天に代わって、汝を誅する!」
 景虎が叫びながら馬を走らせる。刀を大きく振り上げる。力を込めて振り下ろす。
 信玄が軍配で受け止める。
 顔を上げて、真正面から景虎を睨む。
 少しも景虎を怖れる様子はない。
「ふふふっ......」
 景虎が嬉しそうに笑う。
 飯富源四郎を賞賛したように勇気のある者と戦うのが好きなのである。蛇蝎の如く、信玄を嫌い抜いてきたが、実際に手合わせして、
(これは大した男だ)
 尊敬に値する立派な武将だと認めた。
 そんな相手と命のやり取りをすることが嬉しくてたまらず、笑顔で二度、三度と信玄に斬りつける。
 奇妙な男である。
 敵の本陣に殴り込み、敵の総大将に斬りかかりながら笑っているのである。知らない者が見れば、頭がおかしいと思うであろう。
 信玄はかろうじて軍配で受け止めるが、三度目に受け止め損ねる。腕を斬られて、体勢が崩れる。
「死ね!」
 景虎が刀を振り上げる。
「......」
 信玄が静かな目で景虎を見返す。悲しげでもあり、満足げでもあり、何とも言えない不思議な目である。この一瞬、信玄は死を予感し、己の人生を走馬灯のように回想していたのかもしれない。
 その目を見て、景虎も信玄が死を覚悟したことを知った。
(強き者よ。これまでよく戦った)
 勇者に対する敬意として、景虎は小さな声で念仏を唱える。
 二人が目を見交わし、景虎が念仏を唱えるために刀を振り下ろすのが遅れたこの一瞬が、決して大袈裟ではなく、日本の歴史に大きな影響を与えたのは間違いない。
 念仏など唱えず、景虎がさっさと刀を振り下ろし、信玄が死んでいれば、半年もしないうちに景虎が信濃全域を武田から奪い返し、その勢いで甲斐に雪崩れ込むであろう。信玄亡き後の武田軍では景虎の猛攻を止めることなど不可能だからだ。
 信濃と甲斐を席巻すれば、次は北条氏との対決が待っている。
 半年前に北条氏を攻めたときは、氏康の籠城策に手こずって兵を退いたものの、武田を滅ぼして、再度、小田原攻めをすれば、今度こそ氏康も景虎に膝を屈するしかない。武田と北条を打ち破れば、景虎は日本で最大最強の大名になる。都にいる将軍・義輝は景虎に上洛を要請し、景虎は快諾するであろう。義元を失ってから衰退の一途を辿る今川は喜んで景虎に服従して、上洛の先鋒を務めるであろう。
 もちろん、織田信長の出番はなくなる。
 景虎は都に長尾の旗を立て、副将軍として義輝を補佐し、景虎の武力を背景とする強力な室町幕府が続くことになる。景虎が信玄を討ち取れば、そんな未来が容易に想像できるわけである。
 が......。
 そうはならなかった。
 歴史の機微というものであろう。
 念仏を唱えた瞬間、景虎の手から副将軍になる機会が消えた。
 槍を手にして駆けつけた信玄の小姓が景虎に向かって槍を繰り出す。景虎が体を捻る。槍の先が馬の尻に刺さる。馬が驚いて後ろ脚で立ち上がる。
「おのれ」
 景虎が信玄に斬りかかろうとしたときには、すでに他の小姓たちが信玄を囲んでいる。
(無念だ。信玄を討ち損なった)
 景虎は馬の腹を蹴り、本陣から走り出る。
 そのまま馬を走らせる。
 信玄を追い詰め、九割方は勝利を手にしていたのだから、もう一押ししてみたいと考えるのが普通だろうが、景虎はそうではない。武田の別働隊が到着したのでは、もう勝てぬ、と見切った。
 負け戦だと判断すれば、景虎は、さっさと戦場を離脱してしまう。いつものことである。未練がましく戦場に留まって傷口を広げたりしないのだ。
 長尾兵も、そういう景虎のやり方を心得ているから、「毘」の旗が善光寺方面に向かうのを見ると、続々と戦場を後にし始める。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー