北条氏康 関東争乱篇第十回

十七
 その夜、小太郎が泊まっている宿坊を、四郎左が訪ねてきた。
「こんな夜更けに、どうなさったのですか? てっきり、明日、いらっしゃると思っていました」
 小太郎が驚く。
 みすぼらしい姿で、供を連れている様子もない。
 今や山本勘助の名は近隣諸国に鳴り響いている。
 それほどの大物には、とても見えない。
「わしは、おまえより、もっと用心深いのだ」
「今川を信用していないということですか?」
「今川だけではなく、武田以外の家は、どこも信用していない。おまえを殺せば北条が弱くなるし、わしを殺せば武田が弱くなる。人の心には、ふと魔が差すということがある」
「雪斎(せっさい)殿が悪巧みをするとも思えませんが......」
「まあ、そうだな。来月、御屋形さまがここに来る。わしを殺すより、御屋形さまを殺す方がいいだろう。わしが死んでも武田が弱くなるだけだが、御屋形さまが死ねば武田が滅びる」
「何だか心配になってきました」
「ふんっ、しおらしいことを言うなよ。約束の一日前にここに来たのは、寺の周りの地形を念入りに調べるためだろう。万が一のことがあっても、小田原殿を逃がすことができるように、な」
「違うとは言いません」
「ふふふっ......」
 四郎左が笑う。
「何がおかしいのですか?」
「久し振りに会ったのに、殺すとか殺されるとか、そんな物騒な話ばかりをしている......そう思ったら、何だか、おかしくなった」
「確かに」
 小太郎も笑う。
「いくつになった?」
「今年、四十九です」
「わしは、五十五だ。お互いに老けたな。隠居して、孫とのんびり遊んでいたい年齢だが、何の因果か、そんなわけにもいかぬ」
「そう言えば、妻女を娶られたと聞きました」
「おいおい、そんなことまで調べているのか? 北条家は忍びを数多く召し使っているとは聞いていたが......。そうか、その元締めが風摩(ふうま)か。どんな些細なことでも、おまえの耳に入るわけだな」
「お互い様ですよ。武田や今川の忍びも小田原にはたくさんいますから」
「わしは戦以外のことはわからぬ。おい、茶碗はないか?」
「どうぞ」
 小太郎が粗末な茶碗を差し出す。
「ひとつしかないのか?」
「生憎と」
「まあ、いい。一緒に使えばいいだろう」
 荷物から瓢箪を取り出すと、四郎左は茶碗に酒を注ぐ。
「ここは宿坊ですよ」
「誰が気にするものか」
 まず四郎左が酒を飲み、茶碗を小太郎に差し出す。
「では」
 小太郎も酒を飲む。
「それほど耳が早いのなら、長尾の手強さも耳にしているのだろうな?」
「越後の長尾......。弾正少弼(だんじょうしょうひつ)殿は、それほど手強いのですか?」
「武田の禄を食(は)むようになって、かれこれ十一年になるが、あれほど恐ろしい敵と戦ったのは初めてだ。今までは、村上義清が最も手強いと思っていたが、いやいや、とんでもない。弾正少弼殿に比べたら、村上義清など小者に過ぎぬ」
「それは少しばかり大袈裟なのではありませんか」
「まだ長尾と戦ったことがないから、そう思うのも無理はない。弾正少弼殿の軍配者を知っているか?」
「景岳(けいがく)さんのことを言ってるんですか? あの人が直江実綱と名乗りを変えて、今では長尾の重臣になっていることなら知っています」
「わしが言う長尾の軍配者は景岳のことではない」
「とすれば、宇佐美定行のことですね?」
「宇佐美冬之助と言った方がわかりやすいだろう。宇佐美冬之助定行。かつての名を......」
「曾我冬之助......。養玉(ようぎょく)さんなんですか?」
 小太郎が驚く。
「北条の忍びも、遠い越後には、あまり探りを入れていないようだな」
「養玉さんが軍配者ならば、長尾が手強いのも当然ですね」
「養玉が指揮したのか、それとも、弾正少弼殿が直々に指揮を執ったのか、それはわからないが、養玉が指揮したのだとしたら、あいつ、高輪のときよりも、よほど腕を上げているぞ。これを見ろ」
 四郎左は、持参した絵図面を広げる。自分で拵(こしら)えた北信濃の地形図だ。
 小太郎が身を乗り出す。
「最初、越後勢は、山田城を囲む飯富(おぶ)隊を、次いで、長沼城を囲む馬場隊を奇襲した......」
 去年の九月、ほぼひと月にわたって展開された武田軍と長尾軍の一連の戦い、すなわち、第一回の川中島の戦いを、絵図面を使いながら、四郎左は事細かに小太郎に説明する。説明が進むにつれ、小太郎の表情が険しくなっていく。
 虚空蔵山(こくぞうやま)城近くの合戦で、武田軍が長尾軍の罠に嵌まり、晴信の命までが危険にさらされたことを聞くと、恐ろしい策を思いつく者がいるものだ、と小太郎はつぶやく。
 四郎左の説明が終わると、小太郎は、ふーっと大きな溜息をつき、
「あたかも自分が戦場にいて、越後勢と戦っている気持ちになりました」
 額の汗を拭い、酒を口にする。
 四郎左も飲む。
「どうだ、少しは長尾の手強さがわかったか? われらが争っているときではない。三家が手を携えて、長尾を止めなければならぬぞ」
「管領殿が越後に落ち延び、弾正少弼殿に助力を求めたとき、それほど深刻には受け止めませんでした」
「わしと御屋形さまも、そうだった。ようやく越後をまとめたばかりの若い国主に何ができるものか、とな。決して侮ったわけではないが、村上義清より手強いとは想像していなかった。正直、ひどい目にあった。川中島周辺の城や砦を奪い返したことに満足して、さっさと越後に引き揚げてくれたから助かった。だがな、小太郎」
 四郎左は、ぐいっと身を乗り出す。
「去年の秋、弾正少弼殿が北信濃に兵を入れたのは、血縁の高梨に泣きつかれたからで、本当の狙いは上野(こうずけ)だぞ。北条から上野を奪い返せば、関東管領職と上杉の家督を譲り受けることを許すと、上洛したときに将軍家から約束されたらしいからな」
「真の狙いは武田を信濃から逐(お)うことではなく、北条を倒すことだというわけですか。武田を脅かす力があるのなら、北条としても油断できませんね」
「三家が手を結べば、北条は背後を心配することなく、上野で長尾と全力で戦うことができる。北条が苦戦すれば、武田が北信濃から越後を攻める。そうすれば、長尾は慌てて兵を退くだろう。逆に長尾が北信濃に出てきたら、北条が上野から越後を攻める。お互いに助け合うことができる」
「長尾を攻めるという一点だけを考えれば、北条と武田が手を結ぶことは、双方にとって大いに役立ちそうですね。しかし、今川にとっては、どうなんですか?」
「北条と和睦すれば、今川は織田との戦いに全力を注ぐことができる」
「都への道にある邪魔な石を取り除きたいということですか。織田という石を」
「人それぞれということだよ。都かぶれの治部大輔(じぶのたいふ)殿は一心に上洛を目指す。左京大夫殿は早雲庵さまの遺志を継いで関東平定を目指す。今川と北条は、そもそも目指すものが違うのだから、わずかばかりの土地を巡って争ってきたのがおかしい」
「おっしゃる通りです」
 小太郎がうなずく。
「おまえも、遠からず、養玉と戦うことになるだろう。死ぬなよ」
 茶碗を差し出す。
「はい」
 酒を口にしながら、小太郎がうなずく。

十八
 小太郎は小田原に戻ると、雪斎や四郎左と話し合った内容を、氏康に報告した。
 深夜、四郎左と二人きりで会ったときもそうだったし、翌朝、雪斎を交えて三人で会ったときも、話題の中心は長尾の動向だった。
「厄介な男が現れたものよのう」
 長尾景虎が余計な手出しをしなければ、里見討伐に全力を傾けることができるに、と氏康が渋い顔になる。
「その代わり......と言っていいかどうかわかりませんが、三家が盟約を結ぶことについては、今川も武田も大いに乗り気で、今川が善得寺(ぜんとくじ)に罠を仕掛ける怖れはまったくないと考えてよいかと思います。もちろん、油断するつもりはありませんが」
「共通の敵がいる間は強い結束を保つことができるということだな。長尾が倒れるまでは、今川と武田を信じてもよいか......」
「そう思います」
 小太郎がうなずく。
 その十日ほど後、氏康は小太郎を伴い、二百人ほどの兵を連れて小田原を出た。氏政は残った。
 二百人というのは事前の取り決めで、武田晴信と今川義元も同じだけの兵を連れてくることになっている。
 氏康は昼前に善得寺に着いた。
 すでに義元と晴信は到着している。
 兵は寺の外で待ち、寺に入るのは、氏康と小太郎の他には数人の小姓だけである。それも事前の取り決めである。
「左京大夫さま、ようこそ、おいでなさいました」
 門前に雪斎が出迎える。
「うむ、久し振りだのう。元気そうではないか」
「おかげさまで」
 雪斎が頭を下げる。
 氏康と雪斎には面識がある。十九年前、今川の家督を巡って内紛が起こったとき、氏康の助力を求めて、雪斎は小田原に行ったのだ。
 そのことを氏康は覚えていた。
「お疲れでございましょう。まずは、お休み下さいませ」
「さようか」
「ご案内いたします」
 氏康のために用意してある控え室に雪斎が直々に案内する。
 今川家において、雪斎は義元に次ぐ実力者だから、その雪斎が門前に出迎え、控え室まで先導するというのは、かなりの厚遇であろう。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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