北条氏康 関東争乱篇第三十七回

二十二

「ふふふっ、信玄め、驚いているようだな」
 景虎がおかしそうに笑う。
「はい。驚く顔が見えるようでございます」
 冬之助がうなずく。
 実際には信玄の表情は肉眼では見えないが、馬を止めて、じっと妻女山を見上げる仕草から、信玄の驚きが容易に想像できるのだ。
(あれは......)
 冬之助が左目を細める。若い頃に戦で右目を失っているが、幸い左目の視力は落ちていない。信玄のそばにいる頭の禿げた武士を見て、
(鷗宿(おうじゅく)ではないか。六十過ぎのじいさんがのこのこ戦に出てくるとは......。しかも、何と動きが鈍くさいことよ。わし自身、もう六十近いじじいなのだから、鷗宿をとやかく言えぬわけだが......)
 何となくおかしくなって、冬之助の口から、くくくっ、と笑いが洩れる。
「何がおかしいのだ?」
「申し訳ございません。信玄の隣に古い知り合いを見付けたものですから」
「古い知り合いだと? 武田の軍配者・山本勘助のことか」
「はい。茶臼山から海津城に移ることを信玄に勧めたのは山本勘助ではないでしょうか」
「なぜだ?」
「御屋形さまは信玄と決戦するために、敢えて妻女山に陣を構えられました。自らを危ない場所に置くことで信玄を誘ったわけです」
「しかし、信玄は、わしらが考えるよりも、ずっと用心深かったな。臆病と言ってもいいほどだ」
「武田の武将たちも、そう考えたのではないでしょうか」
「ん?」
「なぜ、八幡原に布陣しないのか。なぜ、長尾を攻めないのか。相手の兵が多いのなら話もわかるが、武田は一万八千、長尾は一万三千。誰が考えても、たやすく勝てる戦ではないか。なぜ、茶臼山に引っ込んでいなければならないのか。あまりにも不甲斐ない、あまりにも臆病すぎる、と」
「で、信玄は?」
「茶臼山を動くつもりなどなかったはずです」
「自分が奪い取ったものを守るためならば、家臣から臆病者と罵られようと平気なのだ。強欲な者は厚顔無恥と決まっている」
「山本勘助は苦労人なのです。幼い頃から苦労を重ね、奴隷のようなみじめな暮らしにも耐え、人並み以上に勉学に励んで、ようやく武田に召し抱えられたのです。苦労人だからなのでしょうが、あの男には人の顔色を読む癖があります。何が何でも自分の意地を押し通す頑固者ではないのです。相手の言い分も聞いてやろう、相手の機嫌も取ってやろう......本人にそんなつもりはないでしょうし、自分にそんな癖があるともわかっていないでしょうが、わたしにはわかります。昔から、そういう奴でしたから。茶臼山で信玄と重臣たちが対立したとき、山本勘助は双方の顔色を窺って、それぞれの顔を立てるような考えを口にしたに違いないのです。茶臼山から動くことで重臣たちの顔を立て、八幡原に布陣しないことで信玄の顔も立てたわけです」
「海津城に入れば、守りは万全ではないか。信玄が茶臼山から動かぬようであれば、海津城を攻めるつもりだったが、それもできなくなった」
「海津城に入ることが良策であれば、最初からそうしたはず。そうしなかったのには理由があります」「理由とは?」
「平城で、さして広くもありませぬ。二千の武田兵が立て籠もる今でも狭苦しく見えるほどです。あそこに一万八千もの兵を新たに入れるのは大変です。かと言って、城の周りは沼地で、野営にはふさわしくありません」
「数が多すぎるために、かえって自分の首を絞めるということか」
「さようでございます」
「では、どうなる?」
「いずれ茶臼山と同じことになりましょう。武将たちが不満を口にし始めるはず。しかし、信玄は耳を貸さぬでしょう」
「そこで山本勘助か?」
「双方の顔を立てるような策を信玄に具申するでしょう」
「どのような策であろうな?」
「今は何とも申しようがありませぬ。また茶臼山に戻るわけにもいかぬでしょうし」
「見事だぞ、冬之助。優れた軍配者というのは、敵の軍配者の心の中まで見通すことができるのだな。わしには真似のできぬことよ」
「畏れ入りまする」
 冬之助が頭を垂れる。

二十三

 海津城に入った信玄は、
(これで景虎も諦めるだろう)
 と思っていた。
 しかし、長尾軍は動かなかった。
(なぜ、山を下りぬ。さっさと善光寺に引き揚げるがいい)
 海津城の天守台から妻女山を望見しながら、信玄は苛立ちを隠すことができなかった。
 海津城は妻女山よりも、ずっと狭い。その狭い空間に二万人の武田兵が押し込められているのだから息苦しさを感じるのは無理もない。
(ひと月くらいなら何とかなるだろう)
 信玄は高を括っていた。
 だが、今になってみると、自分の見通しが甘すぎたことを認めざるを得ない。
 問題は水であった。
 二万人の武田兵は毎日飯を食う。小便もするし、排便もする。便所はすぐに溢れる。仕方ないから水辺で用を足す。そのせいで水が臭うようになった。とても飲めたものではない。腹を壊して寝込む者も増えてきた。海津城の武田軍を苦しめているのは長尾軍ではなく、人間の生理現象であった。
 重臣会議は殺気立ったものになる。
 飯富虎昌や馬場信房などの主戦派の主張は一貫している。八幡原に布陣して長尾軍の退路を遮断せよ、というものだ。いずれ長尾軍は妻女山を下りるであろう。それを千曲川の畔で待ち受けて殲滅しようという考えなのである。武田軍は二万、長尾軍は一万三千、これだけの兵力差があれば負けるはずがないというのが主戦派の主張である。
 だが、信玄は承知しない。
「あとひと月もすれば雪が降る。長尾は引き揚げるしかない」
 信玄の言葉を聞いて重臣たちは落胆した。
 信玄の弟・典厩(てんきゅう)信繁が、
「兵どもは苦しんでおります。何とぞ、飯富や馬場の策を今一度、お考えになっていただけませんか」
「おまえたちは、わしを臆病だと思っているのかもしれぬ。しかし、そうではない。冬になれば、長尾は越後に帰るとわかっている。ならば、帰らせればよい。無駄な戦をして、大切な兵を死なせることはない。飯富や馬場の策が間違っているとは思わぬ。八幡原に布陣して長尾の退路を断てば、長尾は困る。妻女山を下りて千曲川を渡ろうとするところを襲えば、われらが勝つであろう。しかし、敵も一万三千だ。こちらも無傷では済むまい。多くの武田兵が死ぬことになる。それだけの代償を払って、何が手に入る? すでに川中島はわれらのものなのだ。たとえ長尾に勝ったとしても新たに手に入るものは何もない。無駄な戦ではないか」
 重臣会議の場で、これほど長く信玄が話すことは滅多にない。
 普段ならば、重臣たちも畏れ入って信玄の言葉に従うであろう。
 しかし、今日はそうではない。
 海津城を預かる春日虎綱が猛然と反対意見を述べる。それに馬場信房が賛同する。
 典厩信繁が沈黙しているのは、暗に春日虎綱や馬場信房に同調しているからであろう。
 そのとき下座から四郎左が、
「申し上げまする」
 と声を発する。
「海津城を出て八幡原に布陣することを御屋形さまがためらっておられるのは、長尾景虎が妻女山をいつ下りるのかわからないからです。逆に言えば、長尾軍が妻女山をいつ下りるのかわかれば、いくらでも手の打ちようがあるということです」
「まどろっこしい物言いをせず、わかりやすく言え」
 飯富虎昌が舌打ちする。
「妻女山の長尾軍を攻めるのです」
 重臣たちが驚いたように四郎左を見る。
 信玄も意外そうな顔をしている。
「妻女山で長尾軍に勝とうというのではありません。長尾軍を八幡原に追い出すために攻めるのです......」
 四郎左の考えは、こうであった。
 夜の闇に紛れて武田軍が海津城を出て、こっそり妻女山を登る。夜明けと共に攻撃すれば、不意を衝かれた長尾軍は驚いて下山するに違いない。慌てふためいて八幡原に逃げてきた長尾軍を武田の別働隊が待ち伏せ攻撃する。
「よい考えではないか。見直したぞ、勘助」
 飯富虎昌が誉める。
「わしも、そう思う」
 馬場信房が膝を叩く。
「よかろう。一万五千で妻女山を攻め、わしが残りの五千を引き連れて八幡原で長尾軍を待ち伏せする。妻女山に近付くことを長尾軍に知られぬことが大事だな。ばれてしまったのでは、手痛いしっぺ返しを食らうことになる」
 信玄がうなずく。

二十四

 九月九日の朝、重臣会議が開かれ、すべての段取りが決定された。
 深夜、春日虎綱、飯富虎昌、馬場信房らが率いる一万二千が妻女山を目指して密かに出発する。
 当初、信玄は一万五千を妻女山に差し向けるつもりでいたが、そうすると、八幡原で長尾軍を待ち伏せする信玄の本隊がわずか五千になってしまう。それを重臣たちが危ぶみ、信玄の手許に八千を残すことになった。
 結果的に見れば、この決断が信玄の命を救った。信玄の手勢が五千だったならば、信玄は八幡原で死んでいたであろう。
「勘助、うまくいくだろうか」
「気弱なことをおっしゃってはなりませぬ」
「勝てるか?」
「飯富さまたちとの戦いで疲れ切った長尾軍を待ち伏せすれば、御屋形さまが不覚を取ることはないと存じます」
「長尾景虎は自分を毘沙門天の化身と称しているそうだが、わしまでそんな戯れ言を信じていたのかもしれぬ。景虎が生身の人間であれば、明日の今頃、わしは景虎の首と対面しているに違いない。何らかの齟齬があって、わしが討ち取られることになったとすれば、まさしく長尾景虎は毘沙門天の化身なのであろう」
「ご心配には及びませぬ。足腰の弱った年寄りではございますが、まだ玉除けくらいは務まりますれば、この勘助が楯となって、御屋形さまに敵の刃を触れさせるようなことはさせませぬ」
「それは何とも頼もしいことだな」
 信玄が笑う。

二十五

「急ぎの用だと聞いた。何があった?」
 景虎が訊く。
「海津城を見ていただきたいのです」
 冬之助が答える。
 景虎は盛り土の上に立つと、じっと海津城に目を凝らす。
「炊煙がいつもより多いようだな」
「兵どもの動きも慌ただしいように思えます」
「出陣の支度か。急いで弁当の用意をしているのだな。二食分か、それとも三食分か......。なるほど、明日、合戦をするつもりでいるわけだな。だから、弁当がいる」
「はい」
「信玄め、この妻女山を夜討ちするつもりか」
「そうは思えませぬ」
「なぜだ?」
「夜討ちというのは、数で劣る者が頼る常套手段であり、数で優る者が使う策ではありませぬ。二万で夜討ちなど仕掛けたら、同士討ちも増えるでしょうし、かえって不利です。武田が攻めてくるとすれば夜が明けてからで、しかも、全軍で攻めるつもりはないのでしょう」
「二手に分けるのだな?」
「一手で妻女山を攻め、もう一手が八幡原で待ち伏せする。それでこそ山本勘助も双方の顔を立てることができるのです」
「ふうむ、信玄が妻女山を攻め上ってくるのか」
「いいえ、それはないでしょう。麓から攻め上るのは危ないやり方です。返り討ちにされる覚悟がいります。用心深い信玄がそのような真似をするとは思えませぬ。信玄の役回りは八幡原での待ち伏せでしょう。自分の手許に一万を残し、あとの一万で妻女山を攻めさせる......そんなところではないでしょうか」
「ほう......」
 景虎がじっと冬之助の顔を見つめる。
「軍配者というのは恐ろしい生き物よなあ。相手の心を己の掌を指すが如くに読み切っている」
「......」
「今夜、山を下りるぞ。ふふふっ、こっちが八幡原で信玄を待ち伏せしてやる。さぞ驚くことであろう」
「では、出陣の支度を命じますか?」
「必要ない。下手に動けば、こっちの考えを見抜かれてしまう。日が暮れるまでは琵琶を弾きつつ、酒でも飲んで過ごそう」
 そう言うと、景虎は盛り土から下りてしまう。
「鷗宿、御屋形さまは毘沙門天の化身だぞ。おまえの策など簡単に見抜いてしまう。いや、わしですら見抜くことができた。老いて、頭が鈍くなっているのだ。とうに軍配者としての盛りを過ぎているのに、なぜ、のこのこ戦に出てきた。おまえ以外の誰か他の者が武田の軍配者だったならば、こうはならなかったはずなのに......」
 冬之助が溜息をつく。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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