北条氏康 関東争乱篇第四十五回

 氏康は景虎の短気を知っているから、柿崎景家の敗北に怒って、景虎が厩橋城から出てくるかもしれないと警戒した。
 そのときは信玄と協力して景虎と決戦する覚悟を決めている。
 今の状況は氏康に有利である。
 元々、越後から出てきた景虎は兵力が少なかったのに、生野山の敗北によって、更に兵を減らした。死傷して合戦に参加できない兵を除くと、景虎が率いることのできるのは六千ほどであろう。もっと少ないかもしれない。
 一方の氏康と信玄は両軍合わせて依然として二万の兵を擁しているから、三倍以上の兵力で景虎を迎え撃つことができる。これほど有利な状況は滅多にあるものではない。
 さすがに景虎は動かなかった。忍びからの報告でも、厩橋城で出陣の支度がされている様子はないという。
(長尾は動かぬ)
 そう判断した氏康は、松山城の包囲を解き、兵をふたつに分けて次の作戦を開始した。
 氏邦の率いる一軍は、松山城の西にある高松城に向かい、氏康と氏政の率いる一軍は、松山城の北西にあり、厩橋城のすぐ南にある倉賀野城に向かう。
 氏邦が高松城に向かったのは、藤田氏の家中に、まだ長尾に味方する一派が残っており、高松城を拠点として不穏な動きを見せていたので、それらの敵対勢力を一掃するためである。
 元々、それほど大きな兵力で高松城に籠もっていたわけではないし、頼みとする長尾軍が北条軍に敗れたことで一縷の望みも潰え、城兵は戦意を喪失している。包囲を始めて十五日後、十二月十八日に開城降伏した。
 氏康と氏政が倉賀野城に向かったのは、そこで武田信玄と合流するためである。
 両軍で倉賀野城を攻めれば、城が落ちるのは時間の問題だ。
 厩橋城とは指呼の距離である。
 長尾景虎は、どう動くのか?
 味方を見捨てるのか、それとも、劣勢を覚悟の上で捨て身の攻撃を仕掛けてくるのか、いずれにしても景虎の勝ち目は薄く、氏康と信玄は、どっちに転んでも損になることはない。
「ご無事で何よりでした」
 氏康が挨拶すると、
「お互い様ですな。小田原が無事で何よりです」
 信玄がにこやかに答える。
「長尾殿は何をしたいのでしょうか?」
「わかりませぬな。いろいろ考えてみたのですが、まったくわかりませぬ。いくらか欲深いところがあれば、少しは話も通じるのでしょうが、そんなこともない。つまりは、わたしたちとは違う種類の生き物と思うしかないのでしょう」
「なるほど」
 信玄は川中島の激戦で九死に一生を得たし、氏康は小田原城を包囲され、滅亡の瀬戸際に追い込まれた。二人とも長尾景虎に手を焼いているのだ。
 今は景虎も手持ちの兵が少ないので厩橋城で息を潜めているが、いずれ体勢を立て直せば、また北信濃や上野に嘴を挟もうとするに違いない。
 信玄にとっても氏康にとっても、景虎との戦いは何の得にもならない。不毛な戦いなのである。
 景虎がいなければ、今頃、信玄は信濃全域を平定し、武田軍の矛先を美濃方面に向けていたであろうし、氏康も、景虎の越山がなければ、里見氏を滅ぼして房総半島を手中に収めていたはずである。
 理解不能な正義感に燃えた長尾景虎という男のせいで、信玄と氏康の計画には大きな齟齬が生じている。だからこそ、二人は手を組んで景虎を排除しようと企図したわけである。
 二人にとって、倉賀野城など、どうでもいいのである。要は、景虎を厩橋城から誘き出すための餌なのだ。倉賀野城は、松山城に比べると、厩橋城のずっと近くにある。この城を攻められるのは、景虎にとって、言うなれば、喉元に刃を突きつけられるようなものなのだ。
 武田と北条の両軍が総攻撃を仕掛ければ、倉賀野城はひとたまりもなく落ちるであろう。
 にもかかわらず、信玄と氏康は無理攻めしようとせず、ほんの手合わせ程度の小競り合いをするだけだ。景虎が出てくるのを待っているからである。
 が......。
 景虎は動かない。
 ついに信玄と氏康は諦めた。
「どうやら動かないようですな」
「気の短い男だから、きっと腹を立てて厩橋城から出てくると期待していましたが、うまくいかないようです」
 信玄が笑う。
「来年の秋頃、またお目にかかりましょうか」
「承知しました。そのときには松山城を落とす策を何か考えておきましょう」
 信玄がうなずく。
 倉賀野城を包囲している間に、氏康は信玄に松山城攻めについて説明した。
 生野山の合戦で勝利した後、氏康は松山城の包囲を解いて倉賀野城にやって来たが、本来であれば、松山城の包囲を続けているところに信玄を呼ぶ方がよかったはずである。
 そうしなかったのには理由がある。
 松山城の守将・上杉憲勝は北条軍に十重二十重に城を包囲されて動転し、軍用犬を使って、岩付の太田資正に救援を求めた。
 長期にわたる松山城攻防戦では、日本の戦史に残るような特徴的な作戦が三つ用いられたが、そのひとつが軍用犬の活用なのである。
 ふたつ目の特徴は、城側が大量の鉄砲を効果的に使ったことで、氏康が包囲を解いた理由もそこにある。
 鉄砲の伝来は、十八年前の天文十二年(一五四三)と言われる。
 すでに国内で生産されるようになっており、全国的に広く普及している。
 ただ、戦において主役にはなっていない。依然として、槍や弓が主役であり、鉄砲は脇役に過ぎない。
 鉄砲を大量に保有する武将がほとんどいないということもあるが、それだけが理由ではない。
 鉄砲の持つ弱点が原因だ。
 射程距離が短く、しかも、命中精度が低い。
 威力も大したことがなく、敵が遠くにいると、たとえ玉が当たっても、かすり傷しか負わせることができない。鉄砲の玉で敵を殺傷するには、極端に言えば、十メートルくらいの距離で向かい合って敵の急所に命中させなければならない。
 最大の弱点は、玉込めに時間がかかることだ。一発撃って、次の玉を発射するまでに一分くらいかかる。手慣れた者でも三十秒はかかる。
 それだけ時間がかかると、一発目を外してしまうと、抜刀した敵に斬りかかられてしまう。
 それ故、この時期の鉄砲は、敵を殺傷するためではなく、その大きな発射音で敵を驚かせるために用いられることが多い。実用性が薄いのである。
 これらの鉄砲の弱点は運用方法を工夫することで徐々に改良・改善されていき、ついに織田信長による長篠の合戦において猛威を振るい、槍や弓に代わって合戦の主役になっていくのだが、それはだいぶ先の話である。
 この松山城攻防戦の頃には、まだ鉄砲は脇役であり、例えば、長尾景虎が小田原城を攻めたときも、鉄砲を有効活用したとは言い難いし、籠城した北条軍ももっぱら弓矢で長尾軍の攻撃を防いだ。
 ところが、氏康が松山城を包囲したとき、北条軍の攻撃を防ぐために城方は鉄砲をうまく活用し、それが成功した。鉄砲の力で寄せ手を何度となく撃退した初めての事例なのである。だからこそ、それが戦史に刻まれている。
 それは上杉憲勝の功ではない。
 太田資正のおかげである。
 資正は、いずれ北条軍が松山城に押し寄せると見越していた。だからこそ、三千の兵を憲勝に預けた。三千というのは、資正にとって憲勝に対する精一杯の馳走であった。資正が守る岩付城には二千の兵もいないのだ。岩付城の守りを手薄にしてまで、資正は松山城の兵を増やした。
 堅固な松山城に三千の兵を入れれば、まず半年くらいは籠城できるというのが資正の見通しだったが、念には念を入れて大量の鉄砲を運び込んだ。
 資正は、景虎が上野、武蔵、相模と北条領に侵攻したのを利用して、各地で武器を徴収した。鉄砲もたくさん手に入れた。それらの鉄砲をすべて松山城に運んだ。ざっと五百挺である。
 三千の兵に鉄砲で五百挺というのだから、恐るべき保有率であろう。城を包囲している北条軍は一万を超えていたが、鉄砲は二百挺くらいしかない。
 鉄砲には多くの弱点があるものの、至近距離から敵を狙えば、命中精度も上がるし、殺傷能力も高くなる。
 野戦だと、玉込めの間に敵にやられてしまうが、城に籠もって、城に押し寄せてくる敵兵を狙う分には、その危険がない。堀や柵で身を守られているから、悠々と玉込めに時間をかけることができる。
 包囲を解いて倉賀野城に転戦するまでのふた月近く、北条軍は城方の鉄砲に苦しめられ、城を落とす足がかりすらつかむことができなかった。城攻めを繰り返すたびに死傷者ばかりが増えた。
 そういう事情を、氏康は信玄に説明した。
 信玄自身、
(これからは鉄砲が戦の主役になりそうだ)
 と何となく感じているから、いかにして鉄砲の働きを封じるかを検討しなければならないと思っている。その気持ちが、松山城を落とす策を考えましょう、という言葉になって表れたのであろう。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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