北条氏康 関東争乱篇第二十回

十五
 景虎が祝賀会を催している頃、氏康は上野と越後の国境近くにいた。
 夏の終わりから上野に兵を入れ、北条氏に従おうとしない豪族たちを虱(しらみ)潰しに討伐しつつ北上し、ついに越後との国境付近に到達したのである。
 それは、上野全域を北条氏の領国とすることに成功したことを意味する。
 北条氏の支配地では、二年前から凶作に見舞われ、各地で飢饉が起こり、疫病が広がるという事態に陥っている。その対応で北条氏の財政は逼迫した。
 この二年、大がかりな軍事行動を起こさなかったのは偶然ではなく、戦になれば、領民に大きな負担をかけることになるとわかっているから自重したのである。
 にもかかわらず、なぜ、突如として氏康は大軍を率いて上野に入ったのか?
 北条氏を取り巻く厳しい状況が変わっていないのに、氏康が出陣したのには理由がある。
 十一月中旬、氏康は上野から兵を退き、小田原に向かった。途中、玉縄城に寄った。
 武蔵、相模から重臣たちが呼ばれた。
 彼らは、上野全域を支配下に置くことに成功したので、その祝いの宴に招かれるのだと思った。
 しかし、そうではなかった。
 重臣一同が居並んだ広間で、
「わしは隠居することにした」
 と、氏康は告げたのである。
「え」
 誰もが息を?んだ。想像もしていなかったことであった。
 氏康の傍らに控える氏政は、肩を落として、うつむいている。その姿からは北条氏の家督を継いで、四代目の当主になるのだという気負いや喜びは感じられず、むしろ、不安や戸惑いが滲み出ているようであった。
 氏康は四十五歳の男盛りである。
 病や怪我で政務を執ることができないのなら話もわかるが、特にそういうことはない。現に上野で大規模な軍事行動を指揮したばかりなのだから、体調が悪いということはない。
 一方の氏政は、ようやく二十歳を過ぎたばかりの若者で、政治においても軍事においても、まだまだ経験が足りないのは明らかである。それは他ならぬ氏政自身が承知している。だからこそ、不安を隠しきれないのであろう。
「なぜ......なぜでございまするか?」
「信じられませぬ」
 広間にざわめきが起こり、重臣たちの口から驚きの声が洩れる。
「天の怒りを鎮めるためである」
 氏康は一同をゆっくりと見回す。
「......」
 重臣たちは、ハッとする。
「かれこれ三年も凶作が続き、来年の見通しも明るくはなさそうだ......」
 領国では三年続いて凶作で、各地で飢饉が起こっている。そこに追い打ちをかけるように疫病が発生して、領民が苦しんでいる。これは天の怒りの現れである。その怒りを鎮めるために、わしは当主の座を退き、氏政に家督を譲ろうと思うのだ......そう氏康は静かに淡々と語る。
 そう言われると、重臣たちも何も言えなくなってしまう。
 古来、日本でも、中国でも、世の中が乱れ、民が苦しむ非常事態になると、元号を変更したり、為政者が代替わりすることが行われる。政治を刷新することで天の怒りを鎮めるためである。それでも事態が改善しないと、中国では大乱が起こり、古い王朝が打倒され、新たな王朝が生まれた。
 そういう知識は、この時代、誰でも持っている。
 本来、天変地異は誰のせいでもないはずだが、何の教育もない者ですら、
(上にいる者が悪いせいだ)
 と素朴に考える。
 北条氏の領国で問題が生じれば、
(御屋形さまのなさりようが悪いのではないか)
 と、氏康に厳しい目が向けられる。
 領民の怒りが沸騰すれば、一揆という形になって表れ、北条氏の屋台骨を揺るがす事態になりかねない。それがわかっているから、氏康は先手を打ったわけである。わしが悪かった、わしが責任を取って当主の座を退くから、どうか北条を憎まないでほしい、という思いの表れなのである。
 すなわち、口では天の怒りを鎮めると言いながら、実際には、領民の怒りを鎮めるための代替わりなのである。
 財政状況が悪いときに、氏康が敢えて上野で戦をしたのは、後を継ぐ氏政のために敵対勢力を一掃し、後顧の憂いをなくしておこうという親心なのであった。
 氏康の話を聞いた重臣たちは、
(御屋形さまのおっしゃることは、もっともである。これだけひどいことが続いているのだから、手をこまねいて何もしないというのでは、もっと悪いことが起こるやもしれぬ)
 という気持ちになった。
 それに氏康の体調悪化が原因で代替わりするのなら、若い氏政に頼りなさも感じるであろうが、家督を譲った後、氏康が氏政を後見するのであれば、今までのやり方が大きく変わることはなかろうと安心できる。
 氏康の隠居と氏政の家督継承が正式に発表されたのは十二月二十三日である。その頃には、代替わりについては、重臣たちだけでなく、領民たちにも広く知られるようになっていたから、何の騒ぎも起こらなかった。
 以後、小田原城の本城に在城する氏康は「御本城(ごほんじょう)様」と呼ばれることになる。
 隠居したといっても、重臣たちが想像した通り、政務や軍事から手を引いたわけではなく、実際には、氏政の後見をするという形で今まで通りの役割を果たすことになる。氏康と氏政が両輪として困難な状況に対処しようという考えなのだ。
 この代替わりは、これからは世の中が明るくなっていくという希望を領民に与えるための非常措置であると言っていい。

北条氏康 関東争乱篇

イラスト◎森 美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した偉大なる祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱。一族の悲願・関東制覇を期する氏康の傍らには、祖父が育てた軍配者・小太郎がいた! 河越夜襲で劇的勝利を収めた氏康を待つものは……北条三代目の生涯を描く人気シリーズ第四弾。

〈北条サーガTHE WEB〉http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。

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