北条氏康 巨星墜落篇第五十回
三十二
「御屋形さま、そろそろ......」
喜兵衛が信玄に話しかける。
武田軍は谷間の道をゆるゆると祝田に向かって行軍している。すでにかなりの距離を進んでいるから、このまま祝田に向かうと信じている者も多い。
信玄の策を承知している喜兵衛は、
(戻るにしても、間に合わぬのではないか)
と不安になってきた。
万が一、三方原に戻らないうちに徳川軍に攻撃されれば、いかに兵力差があるとは言え、武田軍はかなり苦しい戦いを強いられることになる。
「心配か?」
「はい。ついさっき、徳川勢が三方原に迫っているという知らせを聞きました。このままでは......」
「うむ、今から引き返しても間に合わぬであろうな。谷を出ないうちに家康に攻撃されそうだ」
「御屋形さま......」
喜兵衛が呆れたように信玄を見つめる。
今になっても、相変わらず信玄は楽しそうな顔をしている。余裕綽々なのである。
「喜兵衛よ、その方、一足先に三方原に戻れ」
「え」
「足軽は連れて行かなくてよい。騎馬武者だけを、五百人くらい連れて行け」
「で、何を?」
「旗を持って行け。できるだけたくさん持って行くがよい」
「え、旗を?」
「わからぬか?」
「旗......」
喜兵衛は、しばらく考え込むが、やがて、あっ、と声を上げる。
「陣を構えておけばいいのですな? 兵はいない。旗だけの無人の陣になりますが」
「気が付いたか?」
信玄が、ふふふっ、とおかしそうに笑う。
「はい」
二万七千の武田軍が今から三方原に引き返すには時間がかかる。到着してから布陣するのにも時間がかかる。最悪の場合、三方原に戻らぬうちに、まだ谷間にいるところを攻撃される怖れもある。
そうなれば、喜兵衛が考えたように苦戦は必至であろう。
それ故、信玄は、騎馬武者に旗を持たせ、三方原に急行させることにした。旗を靡かせ、あたかも、そこに二万七千の武田軍がいるかのように見せかけるわけである。偽装作戦だ。
実際には、喜兵衛の率いる五百人の騎馬武者しかいない。おいおい数は増えるだろうが、少なくとも半刻(一時間)くらいは五百人のままであろうし、信玄の本隊が到着するのは、かなり後になりそうである。
「人のいない陣だと見抜かれて、敵が攻めてきたら、どうするのですか?」
「そうよのう。負けるだろうな。わしは家康に飲み込まれることになるな」
はははっ、と信玄が声を上げて笑う。
「......」
喜兵衛は、自分と信玄の、武将としての器の違いを、このときほど思い知らされたことはない。
三十三
三方原に家康が到着し、そこに武田軍の旗が翻っているのを知ったのは午後一時頃である。
家康は行軍を止めた。
武田軍と戦う気持ちは失せている。日暮れまで対峙を続け、夕闇に紛れて浜松城に戻るつもりでいる。
戦意が少しでもあれば、物見を放って武田軍の陣地を探らせたであろうし、そうすれば、そこに兵がいないこともわかったはずである。それを知った時点で動けば、恐らく、家康が勝っていたであろう。
せめて、三つに分けた軍勢をひとつにまとめて武田軍と対峙すればよかった。進むにしろ、退くにしろ、ひとつにまとまっていれば容易だが、三つのままでは、いちいち伝令を走らせなければならないから、時間も手間もかかって面倒だ。
そうしなかったのは、自分たちが動くことで武田軍を刺激し、戦いを誘発することを怖れたせいである。家康には戦う意思が皆無だったということだ。
戦いが始まったのは午後四時過ぎらしい。
家康が到着してから三時間が経っている。
運命を分けた三時間と言っていい。
すでに太陽は西に傾き、三方原には夕陽が差している。もう少しで暗くなり、家康の願いがかなうのだ。
家康はじりじりしながら日暮れを待ち、信玄は、その間に無人の陣地に兵を入れ、攻撃態勢を整えた。
信玄も何度となく空を見上げている。
このまま日が暮れてしまえば、大がかりな野戦を行うのは難しくなる。
(一刻あればいい)
明るさが二時間残っていれば、徳川軍を粉砕できるという自信がある。
だから、態勢が整うと、すぐさま攻撃命令を発した。家康の願望が打ち砕かれた瞬間である。
武田軍は、第一陣の右翼が山県昌景、中央が小山田信茂、左翼が内藤昌豊、第二陣の右翼が武田勝頼、左翼が馬場信春、第三陣が信玄の本陣、その背後を守る第四陣が穴山信君(のぶただ)という鉄壁の布陣だ。
家康の鶴翼の陣に対して、信玄の布陣は魚鱗の陣と呼ばれる。魚の鱗のように兵を密集させた陣形で、次々と新手の兵を投入して敵を疲弊させるのに適している。
徳川軍は、少ない兵力を広く左右に展開させているから布陣に厚みがなく、しかも、後詰めがない。武田軍に布陣を突破されたら一巻の終わりである。
家康が到着してから、なぜ、信玄は三時間も動かなかったのか、古来、歴史の謎と言われているが、大した謎ではなく、祝田に向かう谷間の道から三方原に兵が戻るのを待っていただけである。
だから、攻撃態勢が整うや、すぐさま信玄は攻撃命令を発した。第一陣が徳川軍に接近し、小山田信茂の部隊が石川数正の部隊に向けて礫(つぶて)を放ったことが開戦の引き金になった。
石川数正の旗本が小山田勢に向かって突撃し、戦いの火蓋が切られた。
序盤は徳川軍が優勢だった。
石川数正の部隊に続き、本多忠勝、松平家忠、小笠原長忠らの部隊も武田軍に襲いかかり、その猛攻に押されて、小山田信茂だけでなく、山県昌景の部隊も後退を余儀なくされた。
同じ頃、酒井忠次の部隊も内藤昌豊の部隊を攻撃して、これを後退させている。
午後五時までは、明らかに徳川軍が優勢だった。
が......。
すべては信玄の読み通りなのである。
徳川軍が疲労してきた頃、武田軍の第二陣が現れた。石川数正、本多忠勝らには武田勝頼が、酒井忠次には馬場信春が襲いかかる。
後詰めがあれば、徳川軍も第二陣を繰り出して後退したであろうが、それができない。疲労しきった徳川軍と、武田の第二陣では勝負にならない。
これをきっかけに徳川軍は大混乱に陥る。
それでも戦い続けたのは、徳川軍の強さの表れであろう。
ついに家康が退却命令を発したのは午後六時過ぎで、その頃には、家康のすぐ目の前に武田軍が迫っている。
家康は討ち死にを覚悟し、自ら刀を手にして戦おうとしたが、小姓たちに止められ、単騎、城に逃げ帰った。恐怖のあまり馬上で脱糞したという有名な逸話は、このときのものである。
武田軍の死傷者二百人に対して、徳川軍の死傷者二千人というから、武田軍の大勝利である。
ちなみに信長の援軍だが、まともに戦った者は一人もいない。
水野信元は戦いが始まると、武田軍に怖れをなし、戦うことなく戦場を離脱し、浜松城ではなく岡崎まで逃げた。あまりにも逃げ足が速かったので、寝返りを疑われたほどである。
佐久間信盛と滝川一益は、旗色が悪くなると、水野信元と同じように自分たちの判断で退却した。
戦場の礼儀として、せめて家康に使者の一人でも送って退却を知らせるべきだが、それもしていない。家康を見下していたとまでは言えないだろうが、自分と同格くらいには軽んじていたということであろう。
平手汎秀も二人に続こうとしたが、兵をまとめるのにもたついているところを武田軍に襲われて、呆気なく討ち取られた。
信長の援軍は、軍事的には何の役にも立たなかったわけである。
信長の最も忠実な同盟者・徳川家康を完膚なきまでに破った信玄は、悠々と西に向かった。あとは信長と決戦するだけである。
この時点で、信玄が信長に代わって天下人になることを疑う者はいなかった。政治、軍事、外交のすべてにおいて信玄の絶頂期だった。
年が明け、元亀四年(一五七三)正月十一日、三河の野田城を包囲した頃から武田軍の動きが変わった。明らかに鈍くなった。
三月中旬、武田軍は信濃に向けて退却を開始した。厳重な箝口令が敷かれ、敵方の間者や忍びと疑われると容赦なく処刑された。
武田軍に関する情報がまったく流れなくなったので、武田軍の不可解な動きに誰もが首を傾げた。何か普通でないことが起こったのは間違いないが、それが何なのかがわからない。
真相が明らかになったのは、何ヶ月も後のことだ。
信玄が亡くなったのである。
武田軍の秘密保持が厳しかったので、その死因に関して様々な憶測が流れた。
野田城を包囲しているときに、敵方の鉄砲名人に狙撃され、その傷が悪化して亡くなったという話は、その当時から根強く信じられた。家康も、それを信じていたらしい。
現在では、信玄に関する当時の記録を読み解くことで、胃癌を患っていたと推測されている。
ただ、三方原の合戦までの旺盛な活動を見ると、たとえ胃癌に冒されていたとしても、寝込んで動くことができないほど悪化はしていなかったように思える。痛みをこらえていたのかもしれないが、何とか動くことはできている。
想像をたくましくすれば、狙撃によって負傷したことで寝込むようになり、そのうちに胃癌も急速に悪化したのかもしれない。何らかの変調が生じたことは間違いない。
信玄は四月十二日に亡くなった。享年五十三。
この時期、信玄の動きに誰よりも神経を尖らせていたのは織田信長であろう。
武田軍が退却を始めたことで、信長は九死に一生を得た。
しかし、信玄が死んだとは思わず、何を企んでいるのか、と必死に探ろうとした。
ついに、
(どうやら信玄は死んだらしい)
と確信したのは、三ヶ月ほど経ってからである。
そう確信してからの信長の動きは、まさしく電光石火と言っていい。
信長包囲網の要にいた信玄がいないのであれば、もはや信長が怖れなければならないものは存在しない。
信長に敵対して挙兵した足利義昭を、わずか二週間で屈服させて降伏に追い込み、事実上、室町幕府を滅ぼしたのが七月十八日である。
翌月には越前に攻めこんで、八月二十日、朝倉氏を滅ぼした。返す刀で近江に戻るや、八月二十八日には浅井氏を滅ぼした。
信玄の死から三ヶ月ほどで時代は大きく変わり始めた。もはや、信長を中心とする大きな流れを誰も止めることができないかのようである。
その流れに北条氏も否応なく巻き込まれざるを得ない。
氏政が頼りにしていた氏康は亡くなった。後を継ぐ国王丸は、まだ十二歳の少年で、元服もしていない。北条氏という大きな船が嵐に巻き込まれようとしているのに、氏政はたった一人で舵取りをしなければならない。このときほど、北条氏の当主であることの重みと孤独を感じたことはなかったであろう。(終)
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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