北条氏康 巨星墜落篇第三十一回
十
年が明けると永禄十二年(一五六九)である。
武田と北条の戦いは激化した。
氏康が、武田のやり方にどれほど腹を立て、どれほど深刻にとらえていたかといえば、ひとつには三年前に戦には出ないと決め、以後、小田原で内政に専念していたにもかかわらず、年明け早々、小田原から出陣し、三島に本陣を構えたことでもわかる。氏政の後詰めという立場ではあったものの、場合によっては武田と合戦する覚悟だった。
もうひとつは、里見氏に和睦を持ちかけたことだ。
長尾景虎と手を結ぼうとするほどだから、里見氏と和睦しても不思議はなさそうだが、北条と里見の因縁は、長尾のそれとは比べものにならぬほどに根深い。両家の衝突は、氏康の祖父・宗瑞の頃にまで遡ることができるし、それ以来、数えきれぬほどの死闘を繰り返してきた。
五年前の正月には第二次の国府台(こうのだい)の戦いが勃発し、大勝した北条軍は房総半島の奥深くまで攻め込んだ。
里見氏は青息吐息で、土地の利を生かし、山岳地帯に立て籠もって細々と抵抗を続けている状態である。普通ならば、とっくに降伏するのだろうが、
「小田原に頭を下げるくらいなら、一族揃って腹を切る」
というほど北条氏に対する恨みが深く、もはや損得勘定ではなく、意地だけで戦いを継続している。
だからこそ、氏康の方から手が差し伸ばされ、その手をつかめば息を吹き返すことができると承知しながら、
「ふざけるな」
と、氏康の申し出を蹴った。
長尾氏と里見氏に対する和睦の提案、氏康の出陣......武田を打ち破るためなら、なりふり構わず、どんなことでもやってやろうという氏康の執念が感じられる。いかに不退転の決意で、武田との戦いに臨もうとしたかわかろうというものだ。
北条氏は伊豆や相模の兵だけではなく、武蔵や下総、上野からも兵を招集し、氏康が本陣を置いた三島を中心として、総勢四万五千という大軍が布陣した。武田軍の二倍以上の兵力である。
武田軍の先鋒は薩埵峠に布陣しており、北条軍が攻めてきたら、地の利を生かして撃退しようという作戦だった。
ところが、北条軍の兵力が大きすぎて、武田軍は支えきれず、わずか一日で薩埵峠を捨てて退却した。これが一月二十七日である。
武田軍は、北条軍が薩埵峠を下るのを必死に防いだ。平地で野戦になれば、兵力差がモノを言うからだ。
北条軍の半分ほどの兵力で、北条軍の猛攻を凌いだのだから、武田軍は恐ろしく強いと言える。
一進一退の攻防が二ヶ月にわたって続いた。
その流れが変わったのは三月下旬である。
一年以上も、長尾景虎を悩ませてきた本庄繁長の叛乱が終熄したのである。
普通、主に対して家臣が叛旗を翻せば、叛乱が鎮圧されたときには一族郎党皆殺しというのが相場と決まっているが、景虎は、そうではない。越後国主となってから、何度となく家臣が叛乱を起こしているが、その都度、甘いやり方で決着させている。叛乱が絶えないのは、景虎の仕置きが甘く見くびられているせいもある。
今度も、そうである。繁長の子を人質として差し出すことで繁長を許し、叛乱に与(くみ)した者たちも罪を問われなかった。
景虎は半年ぶりに春日山城に戻った。繁長の叛乱に手を焼き、ずっと出陣し、城に戻ることもできなかったのだ。
「武田は許せぬ」
景虎の怒りは本庄繁長ではなく、繁長を陰で操った武田信玄に向けられた。
信玄は戦も強いが、それ以上に調略に長けている。今回の駿河侵攻もそうだが、戦いが起こる以前に、敵方の重臣を何人も抱き込んでしまい、いざ戦が始まったときには、とっくに決着が付いているというやり方を好む。そうすれば、武田兵の損失を抑えることができるからだ。
景虎は、そういうやり方を憎む。卑怯だと考える。
正々堂々と決戦して、明確に勝敗を決することが正義だと信じているから、景虎の目には、信玄が腹黒い極悪人としか見えない。
氏康からの和睦の申し入れに景虎が前向きな姿勢を取ったのは、信玄が憎いあまり、北条との戦いをやめて、信玄との戦いに全力を傾けたいというのが大きな理由である。北条氏と手を結ぶことが長尾氏にとって損か得かという政治的な判断は存在せず、信玄憎しという感情だけが存在している。
景虎は舌なめずりして戦支度を調えており、北条との和睦が成立したら、すぐにでも信濃に雪崩れ込む構えを見せている。信玄に対する復讐である。
武田の諜報網は、当然ながら、その動きをつかんでいる。
(まずい......)
信玄は舌打ちしたであろう。
短期間で駿府を占領し、念願の港を手に入れたとはいえ、北条氏が想像以上の大軍で敵対行動を取っているため苦戦を強いられている。
そんなときに長尾景虎が信濃に攻め込んできたら、長尾軍の進撃を食い止めるのは不可能だ。信濃を蹂躙され、甲斐にまで攻め込まれるかもしれない。
(退くしかない)
駿河に固執すれば信濃を失い、本国の甲斐まで危うくなりかねない......そう判断するや、信玄は即座に撤兵を決断した。
四月二十四日、武田軍は駿河から引き揚げを開始した。信玄が甲府に戻ったのは二十八日である。
駿河侵攻は成功したものの、結果として見れば、信玄は窮地に陥ったと言えるであろう。このまま手をこまねいていれば、武田軍は挟撃されかねない。
長尾と北条という強力な軍勢を相手に二面作戦を展開すれば、さしもの武田軍も敗れるであろう。
そう信玄は見切った。
軍事的には劣勢で、戦えば負ける。
信玄の凄みは、軍事的に行き詰まったと判断するや、すぐさま外交によって局面の打開を図ろうと頭を切り替えたところである。
十一
北条氏から提案された和睦の申し入れを、長尾景虎はさして思案することもなく承知する意向を示し、条件提示も行っている。その条件を北条氏が受け入れれば和睦が成立するという段階に至っている。
つい最近まで上野や武蔵、下総で死闘を繰り広げていた敵同士だから、いきなり和睦するといっても処理しなければならない問題は多い。利害関係が複雑に錯綜しているからである。
普通、ふたつの国が和睦して同盟を結ぶ場合、最も紛糾するのが領土問題である。互いに争っている土地をどちらが取るか、その分け方で揉めて、時間がかかるのだ。
景虎は、そうではない。
「わしは上野をもらおう。その代わり、武蔵や下野、常陸には手出しせぬ」
と、恐ろしいほどの淡泊さで、領土問題を決着させようとした。
北条氏にとっては、ありがたすぎるほどの申し出である。
上野における北条氏の支配地は多くない。
むしろ、西上野に進出している武田の方がずっと多い。それ以外の土地は、依然として景虎の支配下にある。
つまり、北条氏が景虎に差し出す土地は、ほとんどないのである。
その無欲さに氏康と氏政も驚いた。上野は当然として、北武蔵くらいは要求されるものと覚悟していたのである。河越城を寄越せとまでは言うまいが、松山城や岩付城を寄越せと言われたら、どうするか......そこまで氏康と氏政は相談していた。肩透かしの格好だが、嬉しい誤算でもあった。
もっとも、何もいらないというわけではない。
土地よりもほしいものがあるのだ。名誉である。
八年前、景虎は鶴岡八幡宮で関東管領の就任式を挙行している。それ以前に山内上杉氏の家督を憲政から継承していたから、その時点で、長尾景虎は「上杉政虎」になった。(憲政の一字をもらって政虎と改め、その後、将軍・足利義輝の一字をもらって、「輝虎」と改名)
だが、これを北条氏も武田氏も認めず、氏康は、自分こそが正当な関東管領であると称し、信玄もこれを支持した。この両家は、公文書でも、景虎を山内上杉氏の後継者として認めず、「長尾」と呼び続けている。
景虎が和睦の条件として最も重要視したのは、
「わしを関東管領として認めよ」
ということであった。
実利を捨てて、名誉に執着したのだ。
氏康にとっては、難しい判断を迫られたことになる。関東管領として、関東八ヵ国に号令し、関東に平和をもたらす......それは宗瑞・氏綱・氏康という三代にわたる北条氏の悲願なのである。いまだ平和はもたらされていないが、数ヵ国を領する大名となり、関東管領にも就任した。それを手放せと言われれば、氏康が二の足を踏むのは当然である。
(おじいさまと父上に顔向けできぬ)
と悩んだことであろう。
だが、背に腹は代えられない。
氏康は、景虎の要求を承知した。
景虎とは対照的に、氏康は名誉を捨てて実利を得たと言っていいであろう。
二国間で同盟を結ぶとき、その象徴として婚姻関係が成立することが多い。
現に氏康の娘が今川氏真に嫁いでいるし、氏政は信玄の娘を娶っている。
景虎には妻がおらず、従って、子供もいないが、たまたま妻がいないわけではなく、毘沙門天に生涯不犯を誓って、己の信念として妻帯しないのである。それ故、景虎とは婚姻関係を結ぶことができない。
景虎が提示した条件のひとつに、氏政の子を養子に迎えたい、という一項があった。その子を自分の後継ぎにするというのだ。
わが子に妻を迎え、生まれた子を将来の後継ぎにするというのならわかるが、他家から養子を迎え、その子を後継ぎにするというのは普通はあり得ないから、
「所詮、人質ではありませぬか」
と、氏政は顔を顰(しか)めた。
しかし、断ることもできず、次男の国増丸を差し出すことに決めた。
もっとも、後になって、国増丸を手放すことが惜しくなり、紆余曲折の末、氏康の七男・三郎を差し出すことに変更する。
五月九日、長尾と北条の和睦が成立し、同時に攻守同盟を結んだ。以後、北条氏は景虎を「長尾殿」ではなく「山内殿」と呼ぶことになる。
「これで、われらの勝利は間違いありませぬな」
同盟成立に氏政は大いに喜び、氏康も安堵した。
しかし、同じ頃、二人が腰を抜かしそうな事態が密かに進行している。
何と、武田と長尾の和睦交渉も進んでいたのだ。
常識的には、あり得ない話であろう。
景虎が信玄を憎悪しているのは周知の事実である。
本庄繁長の叛乱を先導したことに激怒し、
「目に物を見せてくれるわ」
と信濃に攻め込む準備を進めている。
そもそも、北条氏と手を握ったのも、信玄との戦いに専念するためなのだ。
その景虎が信玄と和睦するなど、笑い話にしか思えない。
もちろん、信玄が和睦を申し入れても、景虎は相手にせず、
「ふざけるな」
と一蹴したであろう。
それは信玄もわかっている。
だからこそ、そう簡単に断ることのできない人間に仲介を依頼した。
室町幕府の十五代将軍・足利義昭である。
権威に弱いのが景虎の最大の弱点だと信玄は見抜いている。
特に義昭の兄・義輝を神の如くに崇め奉り、心から尊敬していた。だからこそ、「輝虎」と名乗って大喜びしたのだし、義輝が三好一族に弑逆(しいぎゃく)されたと知ったときは、人目も憚らずに号泣した。
今や室町幕府には何の力もなく、義昭自身、将軍とはいえ、織田信長の操り人形に過ぎない。
信長の養女を勝頼が正室に迎えたことで、信玄と信長は、事実上の同盟関係にある。
信玄は、景虎に対する義昭からの働きかけを信長に依頼した。信長は快諾し、義昭は何度となく越後に使者を送り、武田との和睦を景虎に執拗に迫った。
「武田と和睦し、兵を率いて上洛してほしい。わしを助けてくれ。亡くなった兄上も、それを願っておる」
助けてくれ、そなただけが頼りだ、と義昭は景虎の情に訴えた。
義昭の手紙を読んで、景虎はぽろぽろと涙を流した。義昭に会ったことはないが、義輝の弟というだけで親しみを感じた。
憎い信玄と和睦するなど冗談ではないというのが本音だが、景虎の頭の中では、信玄に対する感情は「私事」であり、義昭からの依頼は「公事」である。それは明確に分けられており、「私事」よりも「公事」を重んじなければならないというのが景虎の律儀さである。
そういう事情で、北条氏と同盟を結びはしたものの、景虎は武田氏との和睦についても思案を重ねているところであった。そのせいで信濃侵攻は先延ばしになり、信玄を挟撃するという氏康と氏政の期待は裏切られつつある。
信玄の外交力の凄まじさと言っていい。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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