北条氏康 巨星墜落篇第三十三回

十四
 部屋に戻ると、氏真は、
「困った、困った」
 と頭を抱えた。
「どうなさったのでございますか?」
 妻が訊く。氏康の娘、氏政の妹である。
 実は、氏真が部屋に戻ったら、どう対応すべきか、氏康から耳打ちされている。その打ち合わせをするために、氏康は、氏真に会うのを一日延ばしたのだ。
 今川館にいる頃、氏真は遊び女たちと遊び呆けていたので、この妻と過ごすことは滅多になかった。
 だから、子供にも恵まれないのである。後継ぎがいないのは、そのせいだ。庶子ならばいるが、母の生まれが賤しくては、氏真の後継ぎになることはできない。正室の産んだ子だけが後継ぎになる資格を持つというのが、この時代の慣習である。
 夫と触れ合うこともなく、それどころか滅多に顔を合わせることもなかったほどだから、二人の間に細やかな愛情など存在しない。
 今は氏真がすっかり落ちぶれてしまい、妻の実家にすがらなければ何もできないから、力関係としては妻の方が上である。何事についても、妻の顔色を窺うことになる。他人のような夫婦だが、今は、この妻だけが頼りである。
「実はのう......」
 氏康や氏政と話し合ってきた内容を妻に話す。
 二人に出陣を迫られ、自分に万が一のことがあった場合に備えて、後継ぎを決めるように促されたという内容である。
 結婚してから、ずっと疎遠だったものの、この半年ほど、武田軍に追われて一緒に逃げ回るうちに、
(この人は自分の命だけが大切なのだ)
 という氏真の本質を見抜いてしまった。
 戦が恐ろしくてたまらず、絶対に出陣などしたくないのだとわかる。
「戦について詳しいことはわかりませぬが、武田は恐ろしい敵だと聞いております。父や兄も武田と干戈を交えるときは死を覚悟しなければならぬ。生きて帰ることができるかどうかわからぬと申し、此度の戦でも、小田原から駿河に向かうときには、家族と水盃をかわして出陣したと聞きました」
「まことか」
「はい」
「......」
 氏康といえば、若い頃から無数の戦に出陣し、そのほとんどで勝利を収めているほどの名将である。武田信玄や長尾景虎と並び称せられるほど、その武勇は知れ渡っている。氏政にしても、氏康ほどではないが、勇猛で戦上手という評判である。
 その二人ですら、武田と戦うときには死を覚悟するという。
 戦のことなど何も知らず、戦に出た経験もほとんどなく、戦が大嫌いで仕方のない自分など、武田軍と対峙したら、あっさり踏み潰されて、首を奪われてしまうのではないか......そんな想像をするだけで体が震えてくる。
「困った。どうすればよかろう。明日には出陣せよと言われた」
「まあ、恐ろしい。下手をすると、明日の夕方には......」
「言うな。言わないでくれ」
 氏真が両手で顔を覆う。
「御屋形さまが討ち死になさるようなことになれば、今川が滅んでしまいます。何とか生き延びていただかねば......」
「それ故、後継ぎを決めよと言われたのではないか」
「後継ぎを決めて出陣なさるということですか?」
「そうだ」
 暗い顔で、氏真がうなずく。後継ぎなど決めれば、ますます自分が生きて戻ることができない気になってくる。
「どうしたら、よかろう」
「いっそのこと、誰かに家督を譲ってはいかがですか?」
 これこそ、氏康が娘に言い含めたことである。
 氏真がどういう反応をするか氏康にも予想できないので、
「嫌がるようなら、無理強いせずともよい」
 と付け加えた。
「どういう意味だ?」
 じろりと睨む。
「御屋形さまが戦に出なければならないのは、今川家の当主だからでございましょう。誰かに家督を譲って、当主の座から退けば、戦に出る必要はなくなりまする」
「お父上も氏政殿も納得するまいよ。わしと一緒に出陣すると申し出てくれているのに、わしだけが戦に出ないなどと......。それに家督を譲るといっても、後継ぎすらいないのでは譲りようもあるまい」
「父や兄が納得する者に譲ればいいのではないでしょうか?」
「そのような者がいるか?」
「国王丸ではいかがでしょう?」
「氏政殿のご嫡男か?」
「御屋形さまが国王丸を養子に迎えて家督を譲れば、隠居の身となられますから、もう戦に出る必要はございませぬ。とは言え、国王丸も八歳の子供ですから、戦に出るのは無理でございます」
「それでは、やはり、わしが戦に......」
「いいえ、国王丸の実父であるわたしの兄が国王丸の名代として戦に出るのがふさわしいかと存じます。もちろん、御屋形さまも出陣するとおっしゃれば、反対はしないでしょうが......」
「そのつもりはない」
 ぴしゃりと言う。
「人には得手不得手がある。わしは戦が得意ではないが、氏政殿は得意であろう。戦に関しては、氏政殿にすべて任せたい」
「よきお考えでございまする」
「ただ......」
「はい?」
「家督を譲ったはいいが、わしの居場所がなくなるということになっては困る」
「父や兄が駿河から武田を追い出せば、御屋形さまは国王丸と共に府中に戻ることになりましょう。幼い国王丸が政(まつりごと)を執るのは無理ですし、駿河のことは北条の者にはわかりませぬ。たとえ隠居の身だとしても御屋形さまを頼りにするしかなかろうかと存じます」
「とすると、隠居しても、今までと、そう暮らしが変わるわけではないな」
「そう思います」
「ふうむ......」
 氏真は難しい顔でしばらく思案するが、やがて、ぽんと膝を叩くと、
「決めたぞ。国王丸殿を養子に迎えて今川の家督を譲り、わしは隠居する」
「立派なご決断でございます」
「うむ」
 氏真の顔は興奮で火照っている。
 実にうまい話に思えた。
 国王丸に家督を譲ることで、氏真は戦に出なくて済むようになる。当主が戦に出ないのでは物笑いにされるが、隠居ならば、その怖れもない。堂々と胸を張って、遠くから戦を見守ればいいだけだ。
 氏真に代わって、国王丸の実父である氏政が戦に出ることになる。これまでは今川の援軍という立場だったが、これからは今川家当主の実父という立場で、すなわち、援軍ではなく、戦の当事者という立場で、武田信玄と対峙することになるのだ。
 氏真は、戦の重圧から解放されるわけである。
 もっとも、それによって権力を失ってしまうのでは面白くないが、妻の話を聞けば、北条氏が駿河から武田軍を追い出した後、国王丸の後見役として、今までとあまり変わらぬ力を持つことができそうだ。
 それならば、当主から隠居へと世間的な立場こそ変わるものの、これまでと同じような生活を享受することができるな、と胸算用する。
(早速、お二人に話をしなければ)
 もたもたしていると、明日、出陣させられてしまうから、少しでも早く国王丸を養子に迎えたいという申し入れをする必要がある。話がまとまれば出陣を回避できるからだ。
 すぐさま氏真は、使いを出し、氏康と氏政に面会を願い出た。
 広間で氏真を迎え、氏真の申し入れを聞いた氏康と氏政は無表情だった。
(何が気に入らぬのか)
 と、氏真は不安になったが、二人は不機嫌だったわけではない。
 そもそも、この筋書きを書いたのは氏康である。
 あまりにも思惑通りになったので笑いが止まらないのである。
 しかし、笑うわけにはいかず、必死で笑いを堪えているから、見るからに気難しげな顔になっている。
「いかがでしょうか?」
 いつまでも二人が黙りこくっているので、たまりかねて氏真が訊く。
「今川ほどの名門の家督を、軽々に受けることはできませぬ。お気持ちはわからないでもありませぬが、いきなり国王丸を養子にして家督を譲るというのは無理がありすぎるように思われます。どうしてもとおっしゃるのなら、今は養子にするだけにしておき、いずれ折りを見て、家督を譲ることにしてはどうですかな?」
 氏政が提案する。
「しかし、それでは......」
 それでは、今川の当主として自分が出陣しなければならないではないかと言いたかったが、さすがに、それは口にできなかった。
 もっとも、氏康と氏政には、氏真の考えは手に取るようにわかっている。
 氏康とすれば、ここで強引に今川の家督を奪うのは得策ではないという思惑がある。世間体が悪すぎるからである。国王丸を養子にして、すぐに今川の家督を継承すれば、落ちぶれた氏真を脅して家督を奪ったかのように疑われかねない。それでは力尽くで駿河を強奪しようとしている信玄と同類である。
 そうではなく、氏真に執拗に懇願されて、仕方なく、そういう仕儀になったという体裁を取り繕う必要がある。
 実際、ここで急いで家督を継承する必要はない。
 武田との戦いは長引きそうだから、氏真を戦に連れ回せば、そのうち墓穴を掘って討ち死にするであろう。そのときに国王丸が氏真の後を継げばいいだけのことである。
 氏真を見つめる氏康の目は冷徹であり、非情そのものと言っていい。ここでうまく立ち回れば、労せずして今川家と駿河が手に入るのだから当然であろう。
「何とかお願いできませぬか」
 氏真が途方に暮れたように氏康と氏政の顔を交互に見比べる。
「国王丸を養子に差し上げる件は承知しました。家督を譲り受ける件については、武田との戦が一息ついてから考えることにいたしましょう。明日には出陣しなければなりませぬ故」
 氏政が言う。
「あの、わたしは......?」
「氏真殿には小田原に残っていただき、国王丸と誼(よしみ)を深めていただきましょうかな。親子になるわけですから」
「ああ、それがよい。国王丸が今川の養子になることを、皆に知らせなければならぬし、その場に氏真殿がいないのでは格好がつかぬ」
 氏康が言うと、
「なるほど、そうですな」
 ホッとしたように、氏真がうなずく。出陣を免れて安心したのである。
 そこからの氏康と氏政の動きは素早かった。
 翌朝、氏政は兵を率いて出陣したが、それは形ばかりのことで、本気で武田軍と戦うつもりはない。腰を据えて戦えば、小田原に戻るのが遅れるからだ。三島あたりまで兵を進めて引き返すつもりでいる。
 その間に、氏康は、氏真と国王丸の養子縁組の式典を開く支度を進めた。
 数日後、氏政が帰って来ると、すぐさま北条氏の重臣たちや配下の豪族たちを小田原城に呼び集め、式典を挙行した。
 その式典から間もなく、五月二十三日、氏真は今川の家督と駿河守護職を国王丸に譲った。いくらか時間をおくつもりだったが、国王丸と氏真の養子縁組が、それほどの驚きもなく受け止められたので、
(これならば、さっさと氏真殿を隠居させた方がいい。戦況が好転して、気が変わったのでは、こっちも困る)
 という氏康の判断である。
 氏政も賛成した。
 氏真には何の相談もなかった。
 この日、事実上、戦国大名・今川氏は滅亡したと言っていい。領地は武田氏に食い荒らされ、家督と守護職は北条氏に奪われた。
 二十四日には氏政と家康が同盟を結び、力を合わせて武田に対抗することを約束した。
 蚊帳の外に置かれた氏真は、この日を限りに歴史の表舞台から消えることになる。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

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