北条氏康 巨星墜落篇第四十回
二十三
元亀二年(一五七一)の正月、小田原城は新年を迎えた祝賀気分とはほど遠い、沈鬱な雰囲気に包まれている。
ひとつには氏康の病が重いせいだ。
床を離れることができず、新年の挨拶に伺候した家臣たちに会うこともできないほど重篤なのである。
もうひとつは戦況の悪化である。
三年前の十二月に武田軍が駿河に侵攻して以来、武田氏と北条氏は抗争を繰り広げているが、この二年ほど北条氏が劣勢を強いられている。もはや駿河を巡る争いではなくなり、武田氏が北条氏の領国を攻めるという様相を呈しており、たびたび武田軍は武蔵、相模、伊豆に攻めこんでいる。
去年の十二月中旬、甲府を出た武田軍は足柄方面に進軍し、深沢城を囲んだ。
深沢城は小田原城の西に位置しており、ふたつの城の間には箱根山があるものの、直線距離では五里(約二十キロ)ほどに過ぎない。この城を落とされれば、小田原城の喉首に刃を突きつけられるようなものである。重要拠点だから、氏政は綱成に深沢城を守らせている。
深沢城の北条軍は二千、これを囲む武田軍は二万、これほどの兵力差があれば籠城以外に策はないが、十倍もの敵に攻め続けられれば、いずれ落城は避けられない。
それ故、綱成から氏政のもとには援軍要請が何度も来ている。
とは言え、五千くらいの兵を率いて出陣しても勝ち目はないから、少なくとも二万、できれば三万くらいの兵を率いて救援に駆けつけたいのが氏政の本音である。それだけの大軍を集めるのは容易ではない。のんびり正月気分を味わう余裕などないのだ。
氏政が重臣たちと広間で打ち合わせをしていると、氏康の小姓がやって来て、
「御本城さまが御屋形さまに会いたいと申しておられます」
と告げる。
「具合が悪いのか?」
氏政の顔が引き締まる。
「いいえ、特にお変わりはございませぬ」
「そうか」
氏政は腰を上げ、
「わしが戻るまで、その方らで、よく話し合っておくように」
と言い残して広間を出る。
急いで氏康の病室に駆けつける。
氏康は体を起こし、座椅子にもたれている。
「父上、横になっていなくてよいのですか?」
氏政が驚いたように訊く。このひと月くらい、氏康が寝ている姿しか目にしていなかったからだ。
「今日は、いくらか気分がよいのだ。熱が下がったせいかもしれぬ」
「それならよいのですが......」
氏政がうつむく。
痩せ衰えた氏康の姿を直視するのが辛いのである。
元々、氏康は細身だったが、病に冒されてからは、すっかり食が細くなってしまい、そのせいで、更に痩せてしまった。頬の肉がげっそり落ちて、頬骨が浮き上がり、眼窩が落ち窪んでいる。手足の肉も落ちて、やたらに骨ばかりが目立つ。脂肪が失われてしまったせいか、肌には艶がなく、黄ばんで乾燥している。
(これを死相というのではないのか......)
氏康の顔をちらりと見て、そんな思いが脳裏に浮かぶが、
(いや、そんな不吉なことを考えてはならぬ。父上は、元のように、きっと健康を取り戻して下さる)
そう自分に言い聞かせる。
「話し合いの最中だったのだろう。邪魔して悪かったのう」
「いいえ、構いませぬ」
「出陣するのか?」
「はい、兵が集まり次第」
「どれほど集まりそうだ?」
「まだ一万ほどですが、数日で二万にはなろうかと思います」
「深沢城を囲む武田と同じだな」
「......」
氏政が黙り込む。
今の武田軍は異様なほど強いから、同じくらいの兵力で立ち向かうのは避けるべきだとわかっている。できれば三万くらい集めたいが、それだけの兵を集めるとなれば、伊豆や相模の兵だけでは足りず、武蔵からも兵を呼び寄せなければならないが、それには時間がかかる。武蔵の兵を待っていたのでは深沢城が落とされてしまうかもしれない。
不利な状況でもすぐに出陣すべきか、有利な状況ができるのを待つか、軍議では、積極論と自重論が相半ばし、どちらにするか結論が出なかった。
氏政がその説明をする。
「二万では、今の武田には勝てぬ」
氏康がつぶやくように言う。
「武蔵の兵を呼べば、三万になります。その方がよいというお考えですか?」
「そうではない」
氏康が首を振る。
「兵は二万でよい。それだけ集まったら、すぐに出陣するがよい」
「え」
たった今、二万では勝てぬと言ったばかりではないか。にもかかわらず、二万でよいとは、どういう意味なのか......氏政が首を捻る。
「深沢城は捨てよ」
「え」
「蒲原(かんばら)城の二の舞は避けねばならぬ」
「......」
氏政が黙り込む。
一昨年の十二月、武田軍に攻撃された蒲原城が落城、城将以下、一千の兵がことごとく討ち死にした。城を守っていたのは氏康の従弟・新三郎綱重である。綱重だけでなく、弟の長順(ちょうじゅん)も討ち死にした。北条一門に連なる者たちの死に、氏康は大きな衝撃を受けた。
深沢城を守る綱成は北条氏随一の猛将である。氏政が命じない限り、決して武田軍に屈せず、徹底抗戦するに違いない。
だが、二万の武田軍にかなうはずがない。
綱成は、二千の兵と共に討ち死にするであろう。
蒲原城の悲劇を繰り返すな、と氏康は言いたいのだ。
「それならば、なぜ......?」
綱成に深沢城を捨てることを命ずるのならば、その命令を伝える使者を送ればいいだけではないか。
なぜ、自分が二万の兵を率いて出陣する必要があるのか、と氏政は首を捻ったわけである。
「こちらが弱気を見せれば、相手につけ込まれる。援軍を出さず、綱成が武田に降伏を申し入れれば、北条には戦うつもりがないのだな、と信玄に見透かされる。信玄は綱成の降伏を許さず、蒲原城と同じことをしようとするに違いない。だが、汝が二万の兵を率いて小田原を出れば、信玄は降伏を受け入れるだろう。武田は強いが、戦になれば、何が起こるかわからぬ。兵も損傷する。戦をせずに城が手に入るのであれば、それでよい......信玄は、そう考える男だ」
「なるほど」
重要拠点である深沢城を奪われるのは、北条氏にとって大打撃である。
しかし、綱成と城兵たちが全滅するような事態になれば、城を奪われる以上に深刻な打撃を受けることになる。綱成ですら武田にはかなわない、北条氏は綱成を救うことすらできない......北条氏の者だけでなく、北条氏に従う豪族たちも、そう思うであろう。そんなことになれば、北条氏の領国支配が根底から崩れかねない。
それ故、氏康は、深沢城を捨てて綱成を守れ、二千の兵を救え、と氏政を諭したわけである。
氏政が二万の兵を率いて深沢城に向かえば、信玄は、氏政が綱成と呼応して武田軍と戦うつもりだな、と疑うに違いない。
氏政も戦は下手ではないし、綱成は戦上手として知られている。
短気で大胆な上杉謙信であれば、大喜びで氏政との決戦を望むだろうが、謙信とは対照的に慎重居士である信玄は、戦を避けて実利を取るに違いない......信玄の性格を知り尽くした上で、そう氏康は判断する。
「そうせよ、と命じているわけではない。決めるのは、おまえだ。そういう考えもあると知った上で、重臣たちとよく話し合うがよい」
大きな溜息をつくと、氏康が目を瞑って前屈みになる。疲れてしまったらしい。
「もう横になって下さいませ」
「そうしよう。情けないが、体を起こしていると辛いのだ」
小姓が座椅子をどけ、氏康が床に体を横たえる。
氏政は行儀よく枕頭に控えている。
目を開けて、また氏康が話すのを待つつもりだったが、そのうち氏康の口から寝息が洩れ始める。
(だいぶ、お疲れのようだな)
静かに腰を上げると、そのまま病室を出る。
重臣たちの待つ広間に向かいながら、
(深沢城を捨てよう)
と決めた。城を捨てることで、綱成と城兵の命を救うのだ。
氏康の言いなりになるわけではない。話を聞いて、至極もっともだと判断したからである。
(さすが父上だ。わしとは、モノの見方が違っている)
舌を巻く思いである。
頼りになる父の命が消えかかっていることに氏政は深い悲しみを覚え、自分一人で北条を背負っていくことができるのだろうかと不安を感じる。北条氏の主の宿命だとわかってはいるものの、氏康が亡くなってからのことを想像すると気が重くなる。
広間に戻った氏政は、
「御本城さまと話し合ってきた。兵は二万でよい。それを率いて、直ちにわしは出陣し、深沢城の地黄八幡と力を合わせて武田と決戦する覚悟である」
と重臣たちに言う。
それまで重臣たちは、すぐに救援に向かうべきだという者と、たとえ時間はかかるにしても、武蔵からの兵の到着を待ち、武田を上回る兵力で出陣するべきだという者と、ふたつに割れて話し合いを続けていたが、氏政の下した結論に異を唱える者は、もはや、いなかった。氏政の独断ではなく、そこに氏康の判断が加わっていると聞かされれば、それが北条氏の確固たる方針だからである。
たとえ病床に横たわっているにしても、依然として氏康の威光は巨大なのだ。
この場で、氏政は、あたかも死力を尽くして深沢城を守り抜くつもりであり、そのために武田と決戦するという覚悟を示したが、もちろん、それは本心ではない。
深沢城は捨てるつもりでいるし、二万の軍勢で武田と決戦するつもりもない。
氏政の賢さは、己の力量を正確に把握していることで、同じくらいの兵力で信玄と戦えば、間違いなく自分が負けると素直に認めることができる柔軟さがある。
だが、重臣会議の場で本心を明かして、それが武田側に洩れることを警戒した。北条の諜報網は優れているが、武田の諜報網も優秀だからである。
深沢城を捨てる、武田との決戦を避ける......そんな本心を知られたら、信玄は氏政を侮って強気に出てくるに違いない。
だからこそ、氏政は本心を明かさず、強気な姿勢を崩さなかったのだ。
氏政の判断は正しかった。
重臣会議で方針が決まり、戦支度を急いでいるところに、新たな知らせが届いた。
武田の別働隊が深沢城から南下し、興国寺(こうこくじ)城を囲んだというのである。
興国寺城は、駿河と伊豆の国境付近にあり、この城を落とされれば、武田軍の伊豆侵攻を止めることができなくなる。防波堤の役割を担っている城なのだ。
戦略的にも重要だが、それ以上に、この城は、北条氏の初代・早雲庵が初めて城持ちになったという意味で、北条氏にとってはかけがえのない城なのである。興国寺城を奪われることになれば、北条氏が受ける心理的な打撃は計り知れないであろう。
氏政が弱気な態度を示し、それを信玄に知られたならば、信玄は深沢城と興国寺城のふたつの城を奪おうとしたに違いない。
深沢城には綱成と二千の兵がいるし、武田軍の来襲に備えて防備も固めてあったが、興国寺城は、それほどではない。城を預かる垪和氏続(はがうじつぐ)は猛将だが、城兵は一千ばかりで、さほど守りも固くないから、信玄が本気で攻めれば長くは持たないであろう。
実際、武田軍の攻撃を受けた興国寺城は、ほんの数日で裸城同然となり、堀も埋められ、曲輪も奪われ、わずかに本城を残すのみとなった。あと一日か二日、武田軍が攻め続ければ、興国寺城は落ちたはずである。
ところが、突如、武田軍は囲みを解き、深沢城に戻り始めた。
一月十日、氏政の率いる二万の北条軍が小田原を出たからであった。
諜報活動の結果、決戦する覚悟だなと信玄は推測したから、分散していた兵力をひとつにして北条軍を待ち受けることにした。氏政が強気を装ったことが興国寺城を救ったと言えるであろう。
氏政は、深沢城から一里(約四キロ)ほどの地点に布陣した。
すぐに攻撃を仕掛けてくるだろうと予想し、万全の迎撃態勢を取っていた武田軍は、肩透かしされた格好になる。
(なぜ、攻めて来ぬ?)
信玄が首を捻る。
この頃の武田軍の戦い方というのは、最初に軽く攻めて敵を追い込み、相手が苦し紛れに反撃してきたところを待ち構え、徹底的に叩くというやり方である。柔軟性のある戦法なのである。
最初から猛攻撃を仕掛け、そのまま敵を攻め潰そうとすれば、自分たちの損害も大きくなることを覚悟しなければならないが、押したり引いたりというやり方で柔軟に翻弄すれば、敵の被害は増えるが、武田軍の被害は最小限度に抑えられる。
信玄の采配ひとつで、武田軍は縦横無尽に正確に動く。その用兵は、あたかも将棋や囲碁の名人芸を見るかのようである。
ちなみに、この頃、足利学校では、学生たちが行う図上演習で、武田軍の合戦を教材にすることが増えている。同じ場所で、同じだけの兵力で、学生たちが敵と味方に別れて図上でコマを動かすわけだ。
現実には、どの合戦も武田軍が圧勝しているが、図上演習では、そうはいかない。武田軍が大敗することも多い。
その結果に学生たちは首を捻る。
「実際の合戦には、目に見えぬ力が働いている。それは数字で表すことができぬ故、図上でコマを動かすだけでは、武田軍は無敵ではないのだ」
冬之助は、学生たちに、そう説明する。
「目に見えぬ力とは何ですか?」
「うむ......」
冬之助が思案する。
たとえ敵より兵の数が少なくても武田軍が勝利するのは、信玄が巧みに兵を進退させて、兵力の劣勢を補うせいだ。進退の時機を誤ると、たちまち危ないことになるが、そうならないのは、勝敗を分ける紙一重の時機を信玄が逃さないからである。その進退の呼吸こそが「目に見えぬ力」なのであり、信玄の個人的な資質そのものだから、誰も真似できないし、その資質がなければ、武田軍も決して無敵ではないのである。
そう冬之助が学生たちに説明すると、
「その力を身につけるには、どうすればいいのでしょうか?」
「それは難しい」
冬之助が首を振る。
本音では、不可能だ、と言いたいであろう。
軍事的な才能は努力によって身に付くものではなく、身も蓋もない言い方をすれば、天賦の才である。
進退の呼吸を誤れば、敵に殺される。次はないのだ。失敗から学んでいくというやり方は通用しない。
日本の歴史上、本当の意味での軍事的な天才は源義経しかおらず、かろうじて、上杉謙信がそれに近い。両者に共通しているのは、兵法の常識を無視して、己の直感だけに頼って兵を動かすことである。
義経は、そのやり方で常に勝った。一度も負けたことがない。最後に衣川で敗死するが、あれは戦ではない。義経とその側近の数人を、その千倍の兵がなぶり殺しにしたに過ぎない。
上杉謙信も天才だが、それでも何度か負けている。
もっとも、同情すべき点はある。
義経が戦った敵は、例えば、平家軍などは弱かった。頭数だけは揃っているが、一人一人の兵は強くなかったし、采配を振る指揮官も無能というしかない愚劣な者ばかりである。
その点、謙信は強い相手と戦っており、その点が義経とは、まったく違う。
信玄は、義経や謙信とは違っている。
天才と呼ぶのは、ためらわざるを得ない。限りなく天才に近い秀才と言えば、いくらか当たっているかもしれない。
努力と経験によって、天才の域にまで達した稀な秀才という点で、生まれつきの天才である源義経や上杉謙信とは違うのだ。
その信玄が、戦えば必ず勝つという常勝将軍となった。
今や無敵の強さだが、短所がないわけではない。
但し、その短所は、時として信玄の最大の長所でもあり、そのおかげで、若い頃から、何度となく危地を逃れることができた。
慎重すぎることであった。思いつきで無謀なことはせず、熟慮を重ねた上で、石橋を叩いて渡るような慎重さで事を進める。それが信玄の短所でもあり、長所でもある。
単に氏政の率いる北条軍との戦いであれば、信玄もさほど慎重にならなかったであろう。警戒したのは深沢城にいる綱成の存在である。綱成の武勇は関東中に鳴り響いている。
(何か企んでいるのではないか)
と、信玄は疑った。
その疑いが信玄を慎重にさせ、氏政への攻撃を手控えさせた。
もっとも、何もしていないわけではない。
現実に戦いが行われていないときにも、信玄は敵の弱点を探し求め、合戦以外の手段で敵を屈服させることはできないものかと思案している。
その手段としては調略が多いが、そうでない場合もある。この深沢城攻めがそうであった。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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