北条氏康 巨星墜落篇第十九回

十一
 その翌日、新之助康光が氏康のもとに年賀の挨拶にやって来た。嫡男・小次郎を伴っている。
 実は、新之助は、とうに年賀の挨拶を済ませていたのだが、氏康から、
「久し振りに小次郎の顔を見たい。明日にでも連れてくるがよい」
 と命じられたのだ。
 康光は、長きにわたって氏康の軍配者を務めた風摩(ふうま)小太郎青渓(せいけい)の後継ぎである。
 幼い頃から、
(いずれは氏政を支えてほしい)
 という氏康の考えで、小太郎から英才教育を受けた。
 氏康とすれば、将来的には軍配者として氏政を助ける存在になってほしいという願いがあった。
 しかし、父である小太郎は、
(この子は軍配者にはなれぬ)
 と早々に見切りをつけ、足利学校に行かせなかった。努力すれば二流の軍配者になることはできるだろうが、一流の軍配者になるには天賦の才が必要であり、それはいかに努力しても身に付くものではない、と小太郎自身が身に沁みて知っていたからである。その才が新之助には欠けている、と見切ったのだ。二流の軍配者が北条氏の軍配を預かれば、北条氏が滅びる......小太郎の言葉に氏康も納得せざるを得なかった。
 小太郎の言葉通り、長ずるに従って、新之助には軍事的な才能が乏しいことがはっきりしてきた。
 その代わり、事務処理能力は人並み以上に優れているので、戦にはほとんど出ず、小田原で内政面の仕事に従事している。
 小太郎が亡くなってから、新たな軍配者を、氏康はそばに置いていない。氏康自身が軍配者になったつもりで、氏政を後見してきた。
 そのおかげで、戦に関して、氏政は、人並み程度の武将になった。政治や外交はあまり得意ではないが、家臣たちの意見に耳を傾ける素直さがあるので、難しい問題は重臣会議に諮って決めるようにすれば、大きな間違いは犯さないであろうと思える。
 氏康の目には、まだまだ頼りなく見えるものの、何とか独り立ちする体制ができた、と氏政の先行きには、それなりに安心している。
 次に考えなければならないのは、国王丸のことである。
 昨日、氏康は国王丸と天守閣に登った。
 かつて祖父・宗瑞がしたように、領地を見下ろしながら、二人だけで話をした。
 宗瑞は氏康を心配して、様々な気配りをしてくれたが、小太郎を見出して、足利学校に行かせたのも、そのひとつである。
 宗瑞の期待通り、小太郎は優れた軍配者となり、父の氏綱が亡くなってから、氏康を支えてくれた。いくつもの困難な戦を氏康が勝ち抜き、北条氏が関東における最強国になったのは小太郎のおかげだと感謝している。
(国王丸にも軍配者をつけなければならぬ)
 氏康が氏政の軍配者代わりになることができたのは、軍事的な才能に恵まれていたからで、同じことを氏政にやれと言っても無理である。氏政には、それほどの才はない。
 氏康は小次郎に期待している。
 生前、小太郎は、新之助には軍配者になる資質が欠けているが、小次郎は自分に似ている気がする、と話していた。その言葉を信じたいという気持ちである。それ故、まずは自分の目で小次郎の資質を見極めたいと考え、小次郎を連れてくるように新之助に命じた。

 新之助と共に氏康の前に出た小次郎は傍目にも、かなり緊張している顔だ。
「......」
 氏康は、じっと小次郎を見つめる。
(小さいな)
 それが第一印象である。表情も幼い。
「小次郎」
「はい」
 背筋をピンと伸ばして、小次郎が返事をする。
「そう固くならずともよい。年齢は、いくつだ?」
「十二歳になります」
「ほう、十二歳か」
 もう少し年下かと思った。それくらい小柄なのだ。
「小次郎は何が好きだ?」
「え」
 と、一瞬、驚いたような顔をしてから、
「餅が好きです。餡子の入った餅が特に......」
「馬鹿者、そういう話ではない」
 新之助が叱る。
「あ」
 小次郎が赤くなる。
「よいのだ。気にするな。後で、餡子のたくさん入った餅を土産に持たせよう。それ以外では、どうだ、剣術とか、学問とか......」
「剣術は苦手ですが、学問は嫌いではありませぬ。いや、好きでございます」
「今は何を学んでおる?」
「え~っと、『論語』と『孟子』を終えて、『大学』を学んでいます。『資治通鑑(しじつがん)』も読み始めました」
「面白いか?」
「あ......」
「正直に答えて構わぬぞ。何を言っても叱らぬように、おまえの父には言っておく。康光、よいか、小次郎を叱ってはならぬぞ」
「はい。承知しました」
 新之助が慌てて頭を垂れる。
「さあ、正直に答えよ」
「あまり面白くはありませぬ」
「学問は好きではなかったのか?」
「好きなのですが、『論語』や『孟子』はつまらないのです。『大学』はもっと退屈で、時々、眠くなってしまいます」
「そうか。では、どんな書物が好きなのだ?」
「一番好きなのは『平家物語』です。何度も読みました。『義経記』も大好きです。それに『太平記』も」
「戦物ばかりだな。義経が好きなのかな?」
「はい。大好きです」
「木曾義仲はどうだ?」
「ああ、義仲は馬鹿です」
「馬鹿か? 倶利伽羅(くりから)峠では十万、篠原の戦いでは八倍の平氏軍を破ったぞ」
「あれは、まぐれです」
「まぐれか?」
「宇治川の戦いで大敗しましたが、あれこそ、義仲の本当の姿です」
「ふふふっ、義仲には手厳しいのう。義経の、どこが好きなのだ?」
「強いところです。一ノ谷も屋島も、そして、壇ノ浦もすごいです」
「詳しいようだのう」
「どうすれば平氏軍が義経に勝てるか、何度も考えていますが、どうしても勝てません」
「そんなことをしているのか?」
 氏康が問うような眼差しを新之助に向ける。
「わたしが子供の頃、父に教わったことを小次郎にも教えました」
 新之助が答える。
「そうだったのか。小次郎、義経には勝てぬと申したが、戦というのは相手を選ぶことができぬ。どうしても義経と戦わなければならないとなったら、おまえは、どうする?」
「逃げます」
「ん? 逃げるのか」
「勝てぬ戦をするべきではありませぬ。必ず勝てるという見込みがあるときだけ、戦をするべきです。確か、『孫子』にもそんなことが書いてありました」
「おお、『孫子』も読んだか。面白いか?」
「面白いことは面白いのですが、あまり好きではありませぬ」
「なぜだ?」
「人を騙そうとする、狡いことばかり書いてあるからです」
「なるほど、そうかもしれぬ」
 氏康が、はははっ、と愉快そうに笑う。
 それから、新之助に顔を向け、
「すまぬが、これから一刻(二時間)ほど小次郎と二人だけにしてもらえぬか?」
「それは構いませぬが......」
「向こうで待っていてくれ」
「は」
 一礼して、新之助が腰を上げ、部屋から出て行く。
 二人だけになると、氏康は小姓に命じて、饅頭と茶を用意させる。それが運ばれてくると、
「遠慮はいらぬぞ。食べなさい」
「はい。いただきます」
 小次郎が饅頭を手に取り、美味しそうに食べ始める。
「あと二年か三年すれば、おまえも元服することになる。そうなれば、一人前だ。何か仕事をしなければならぬが、やりたいことはあるのか?」
「まだ、よくわかりませぬ」
「父のようになりたいとは思わぬのか?」
「父のことは大好きですし、とても尊敬していますが、父のようになりたいとは思いませぬ」
 小次郎が首を振る。
「なぜだ?」
「難しい書類を読んだり、算盤を弾いたりばかりしているからです。全然楽しそうに見えませぬ」
「では、どういう仕事をして、どういう人間になりたいのだ?」
「祖父のようになりたいです」
「ん? それは小太郎のことか」
「はい」
「小太郎が亡くなったのは五年前だから、おまえは、まだ七つだったであろう。覚えておるのか?」
「とても優しい人だったことは覚えています」
「何かを教わったか?」
「いいえ、何かを教わったことはありません。あるかもしれませんが、覚えていません。ただ......」
「何だ?」
「祖母や、父や母、それに古くから屋敷にいる者たちから祖父の話をたくさん聞きました。御本城さまや御屋形さまと一緒に戦に出かけた話をたくさん聞きました。それを聞いて、祖父のようになりたいと思いました」
「そうか」
 氏康はうなずくと、足利学校を知っているか、と訊く。
「はい。聞いたことがあります。祖父は、そこで学問に励んだと聞きました。一日中、学問をして、しかも、そのほとんどが戦に関する学問だったと」
 小次郎の目が輝く。
「おまえも学びたいか?」
「学びたいです」
「足利学校で学び、学び終えたら小太郎のように軍配者になるか?」
「そうなれたらいいと思います」
「おまえの気持ちはわかった。覚えておこう」
「わたしは足利学校に行くのですか?」
「まだ、わからぬ。行くとしても、今すぐではない。十二では早すぎるからのう。今のうちに、もっと多くのことを学ぶがよい」
「はい」
「饅頭はうまかったか?」
「とてもおいしかったです」
「ならば、土産に持って帰るがよい。用意させよう」
 康光と小次郎を送り出すと、入れ違いに氏政がやって来る。
「父上、どうなさったのですか?」
「何がだ?」
「たいそう機嫌がよさそうに見えるものですから」
「そうか。まあ、そうかもしれぬ」
 にこやかにうなずく。
(国王丸に、よい軍配者を見付けられるかもしれぬな)
 という期待が、氏康を上機嫌にさせているのだ。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

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