北条氏康 巨星墜落篇第二十四回

十八
 氏政の援軍が到着したとき、すでに戦は終わっていた。この援軍に、氏康は同行せず、氏政が単独で出陣した。
 五十歳を過ぎた頃から、体調に違和感を覚えることが多くなり、長い遠征に耐えうる体力がなくなったことを自覚するようになっているが、このときは、病に臥しているわけでもなく、無理すれば氏政と共に出陣できた。
 しかし、無理しなかった。
 それに関して、氏政とは何度も話し合った。
 氏政の出陣が遅れたのは、それも原因だった。
「これからは、できるだけ口を出さぬようにする。何事もおまえが決めるがよい。弟たちも支えてくれるだろう」
「なぜでございますか? それほど、お体の具合が悪いのですか」
「そうではない。いや、違うとも言えぬが、それだけが理由ではない......」
 この時代、五十を過ぎれば老人である。晩年なのだ。
 氏康も否応なしに死を意識する年齢になったということである。体調不安も抱えているし、いつ何があっても不思議ではない。
 今はまだ頭もしっかりしているし、日常生活にも不自由はない。氏康とすれば、自分が健康を保っているうちに、氏政に権力を移行し、世代交代を図りたいという考えなのである。
 氏康が隠居し、氏政に家督を譲ったのは七年前の十二月、氏政が二十二歳のときだ。そうしなければならない事情があったとはいえ、氏康の目には、あまりにも氏政は頼りなく、とても北条氏の舵取りができようとは思えなかった。
 だからこそ、隠居の身でありながら、実質的には氏康がすべてを取り仕切った。氏政を無視したわけではなく、氏政の考えを尊重しつつ、氏政を正しい方向に導こうとした。
 そういう意味では、この七年、正確に言えば、六年三ヶ月という歳月は、氏政に帝王学を伝授し、氏政を教育するための時間だったわけである。
 この七年の間に、弟の氏照や氏邦も一人前になり、氏康とすれば、
(そろそろ、氏政に任せてもよかろう)
 と考えたのであろう。
 この頃、氏康は左京大夫から相模守に転じ、氏政が左京大夫に任官している。左京大夫というのは北条氏の主の象徴だから、これを氏政に譲ったということは、氏政が名実共に北条氏の主となることを公に宣言したようなものであった。
 以後、氏康は、基本的には小田原周辺から動かず、内政に専念することになる。氏政の後方支援を受け持つことにしたわけである。
 氏政が長尾勢との戦いで苦戦するようであれば、氏康も腰を上げざるを得なかっただろうが、そういう事態は生じなかった。
 景虎が四月に帰国すると、それ以降、関東の豪族たちが続々と北条氏に膝を屈したからである。
 五月には常陸の小田氏治、下野の小山秀綱、宇都宮広綱、下総の結城晴朝らが帰順を申し入れてきた。彼らは、臼井城攻防戦で長尾軍が敗れたのを見て、
(このままでは、わしらも北条に滅ぼされてしまう)
 と慌てふためいて降伏したのである。
 長尾景虎の侵攻によって、下総や武蔵の支配が脅かされそうになったものの、これを撃退したことで、かえって北条氏の支配は強まることになった。
 戦略的には、さほど大きな意味を持たない臼井城の攻防が、北条氏と長尾氏の明暗を分けた。ひとつの合戦の勝敗が、これほど大きな政治的な影響を持つのは稀有なことと言えよう。
 氏政は臼井城から忍城に向かった。援軍に駆けつけたものの、長尾軍との合戦にはならなかったから、北条軍は無傷である。その軍勢を率いて、武蔵北部の長尾勢を滅ぼし、そのまま上野に雪崩れ込もうと考えた。
 忍(おし)城の城主は成田氏長である。
 八月下旬、氏長は、攻め込んできた北条軍を迎え撃ったが、一戦して敗れ、忍城に逃げ帰った。
 それからひと月も経たないうちに、氏長は氏政に降伏を申し入れた。同じ頃、下野の皆川俊宗、上野の由良成繁、富岡重朝らも従属した。まるで将棋倒しのように、関東の豪族たちが長尾景虎を見限り、北条氏に靡いてくるのだから氏政は笑いが止まらなかったであろう。
 十二月、関東における長尾景虎の衰退と、北条氏の優位を象徴する事件が起こった。
 厩橋城の北条(きたじょう)高広が景虎に叛旗を翻し、北条氏に寝返ったのである。
 これがどれほどの衝撃だったかといえば、謀反の一報を知らされた景虎は、たまたま食事中だったが、箸を手から落とし、しばし絶句した後、ようやく、
「嘘だろう。信じられぬ」
 と肩を落としたという。
 厩橋城の戦略的な大きさは言うまでもない。
 越後から関東に出てきたとき、景虎は、まず厩橋城に入り、ここに腰を据えて作戦を練る、というのが常なのである。景虎の関東進出の要となる城なのだ。
 それだけではない。
 臼井城で大敗を喫してから、長尾方の豪族が次々と北条氏に寝返ったが、景虎は、さして痛痒を感じていない。強い方に靡く風見鶏のような連中だから、また風向きが変われば戻ってくるだろうと高を括っていた。
 北条高広は、そういう連中とは違う。景虎の父・為景の頃から長尾に仕えている一族なのだ。
 高広は武勇に優れ、政治力もあるから、父・為景からも、兄・晴景からも、そして、景虎からも重んじられた。
 だが、才がありすぎて、先のことが見えすぎたのか、
(戦は強いが、国を保っていくことはできぬ御方よ)
 と、景虎を見切り、武田信玄と通謀して叛乱を起こした。十二年前のことである。
 景虎は、この叛乱を鎮め、本来なら、高広を斬るべきだったが、その才を惜しんで、再び重く用いた。
 それほど高広が優秀だったということである。
 だからこそ、厩橋城を預けられ、関東における政治・軍事・外交の一切を委ねられたのだ。
 景虎が越後から出てくるときは、高広一人では対応できない事態が生じ、高広が越山を要請したときだったのである。
 それほど厚く信頼していた男に裏切られた。
 景虎が衝撃を受けるのは無理もない。
 その直後、館林の長尾景長にも裏切られ、景虎は呆然とするしかなかった。
 しかも、これで終わりではなく、その後も裏切りは続くのである。
 北条氏が強さを示したことが大きいが、それだけではない。
 武田との連携がモノを言った。
 景虎に味方する豪族たち、特に上野の豪族たちは、北条軍の攻撃に備えるだけでなく、武田軍の攻撃にも備えなければならなかった。
 北条軍も強いが武田軍も強い。
 信玄は頻繁に西上野に兵を出し、着実に支配地を広げた。九月には箕輪城の長野氏業(うじなり)を屈服させている。
 景虎が無類の強さを発揮しているうちはよかったが、臼井城で敗れ、越後に引き揚げてからは、独力で武田軍と戦う羽目になった。
 豪族たちとすれば、
(北条に従うのがよいか、それとも、武田に従うべきか)
 という選択を迫られる状況だったわけである。
 どちらかを選ばなければならないとなれば、彼らは、ためらうことなく北条氏を選んだ。武田氏の支配は苛酷であり、それに比べれば、北条氏に支配される方がましだったからだ。

第三部 巨星墜落


 臼井城攻防戦で、長尾景虎を敗北させてから、ほぼ二年にわたって、北条氏は快進撃を続けた。三船台の合戦で里見氏に敗れるという波乱はあったものの、全体の流れを変えるほどの影響はなく、北条氏は下総から上総へと着々と支配圏を広げた。
 里見氏は安房に追い詰められ、青息吐息の状態に陥り、房総半島全域を北条氏が征するのは時間の問題という感じである。
 その間、武田氏は西上野に兵を入れ、長尾方の城を次々に落とした。
 業を煮やした景虎が越後から出てくることもあったが、厩橋城が北条方に寝返ったため、その北にある沼田城に入るしかなく、さほど大きな城ではないから、すべての兵を収容することもできず、かなりの不自由を強いられた。失地回復すべく、北条や武田に味方する上野や下野の豪族たちを攻めたが、思うような戦果を上げることができなかった。
 この二年は、北条氏と武田氏が積極的に攻勢をかけ、長尾氏は、それを受け止めるのに精一杯という感じで、このままの状態が続けば、遠からず関東から駆逐されるだろう、というところまで長尾氏は追い込まれた。
 それもこれも、北条氏と武田氏の二人三脚が、緊密に効率よく機能したからである。ふたつの国の同盟関係が、これほどうまくいくというのは滅多にあることではない。
 だが、北条氏と武田氏の同盟というのは、二国間だけの同盟ではなく、今川氏を含めた三国同盟が基本になっている。
 飛ぶ鳥を落とす勢いの北条氏と武田氏と違って、今川氏は凋落の一途を辿っている。
 凋落の原因は、今川義元が桶狭間で敗死したことである。それをきっかけに徳川家康(永禄九年十二月に松平から徳川に改姓)が叛旗を翻し、三河、遠江から今川勢を追い払い、今では駿河を窺うまでになっている。
 本来であれば、同盟国である武田氏と北条氏が今川氏を助けるべきだが、この二氏にはかなりの温度差がある。
 北条氏は、今川氏に対して何の領土的な野心もなく、同盟を忠実に履行しようというのが氏康と氏政の方針である。北条氏が優しいとか誠実だとかいうのではなく、そうすることが北条氏にとって有益だからである。駿河が乱れることが最も困るのだ。
 武田氏は、そうではない。
 元々、甲斐という山国に逼塞していた武田氏の悲願は港を持つことである。海に出ることができれば、飛躍的に貿易が拡大するからだ。
 甲斐から信濃、西上野へと領土を広げても、まだ海には届かない。海に出るには、相模、駿河、遠江、越後のいずれかに攻め込むしかないが、強国ばかりで、とても手出しできなかった。今でも相模の北条、遠江の徳川、越後の長尾は強い。駿河の今川だけが弱体化している。
 信玄の目には、
(今こそ海に出る絶好機)
 と映ったであろう。
 昨日や今日の思いつきではない。
 すでに二年前、駿河侵攻の方針に異論を唱えた嫡男・義信の一派が信玄の手で一掃されている。
 それ以来、信玄は、着々と駿河侵攻の準備を重ねてきた。家康との関係を深めるため、家康の後ろ盾となっている織田信長の養女を勝頼の妻に迎えたのも、その布石である。
 すぐに動かなかったのは、いくつか難題があったからだ。
 ひとつは、長尾景虎の動向である。
 信玄の駿河侵攻に乗じて、景虎が北信濃に出てくると厄介なことになる。景虎を越後に足止めする策を講じる必要があった。
 ひとつは、今川の内情である。
 氏真が阿呆だということは信玄にもわかっているが、意外にも、家中はそれなりにまとまっている。氏真が政治や軍事を祖母の寿桂尼(じゅけいに)に丸投げしているためである。寿桂尼が堅実な舵取りをしているので、力が衰えつつあるとはいえ、それほど急激に衰えているわけではない。今すぐ駿河に攻め込めば、武田氏もかなりの損害を覚悟しなければならない。
 ひとつは、北条氏の意向である。
 北条氏が同盟を遵守し、今川に味方すれば、駿河制圧は難航するであろう。
 つまり、駿河に攻め込むには、三つの難題があるのである。
 どれも一筋縄ではいかないことばかりだが、信玄は焦らない。
(何とかすればよい。それらを何とか片付ければ、駿河が手に入るのだ)
 信玄の最大の長所は我慢強さである。
 三つの難題を克服するために、時間をかけて、じっくりと工夫を凝らした。子供が模型作りに夢中になるような熱心さで取り組んだ。
 その工夫は、実を結びつつある。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/

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