北条氏康 巨星墜落篇第五回
六
十一月下旬、長尾景虎は、関東に向けて出陣した。雪に阻まれて行軍が難航し、厩橋(まやばし)城に入ることができたのは閏(うるう)十二月十九日である。
越後にいる間に氏康に武蔵の大半を奪い返され、上野では武田信玄と氏康が協力して、景虎に味方する城を次々に攻め落とす......そんな状況に猛烈に腹を立てていたから、直ちに武田・北条の連合軍との決戦に臨む覚悟だった。
安房の里見義弘に、
「今度こそ小田原の伊勢(北条氏)を滅ぼす」
それ故、里見氏も下総から武蔵に攻め込んで太田資正(すけまさ)を助けてやってほしい、と書状を送った。
一方、信玄と氏康の方針は決まっている。
景虎との決戦を避けるのだ。
いずれ越後に帰るとわかっているから、上野にいる間は相手にせず、景虎が帰国したら、また上野の豪族たちを攻めればいい。上野には武田や北条に対抗できるほど力のある豪族はおらず、景虎がいなければ楽な戦ができるのである。
そういう信玄と氏康のやり方に景虎は怒り、
「何と姑息で狡猾なのだ」
と、ますます二人に対する憎しみを募らせる。
氏康は松山城に入り、信玄は西上野に兵を退いた。
氏康は今回の景虎の越山の目的を、常陸の佐竹義昭の要請に応じたものではないか、とみている。佐竹義昭の宿敵・小田氏治(うじはる)を討伐するためである。
その見通しが正しければ、いずれ景虎は厩橋城を出て、常陸に向かうはずである。
そうなったら、また信玄と氏康が合流して長尾方の城を攻めるという約束になっている。
見通しが外れ、景虎が厩橋城から動かないようであれば、信玄は甲斐に帰国し、氏康は松山城で年を越すことになる。
ここまでは、信玄と氏康の思惑通りだった。
が......。
下総から届いたひとつの報告が二人の目論見に齟齬を生じさせた。
その報告を聞いたとき、
「嘘だろう」
と、氏康は愕然とした。
太田康資(やすすけ)が里見に寝返ったというのである。
七
太田道灌(どうかん)を祖とする太田氏は、今では江戸太田氏と岩付太田氏に分かれている。
江戸太田氏の康資は北条氏に味方し、岩付太田氏の資正は敵対している。
道灌が築いた江戸城は、元々、江戸太田氏の本拠だった。
道灌から子の資康(すけやす)、孫の資高(すけたか)へと引き継がれたが、四十年ほど前、資高が扇谷上杉氏を裏切り、北条氏に帰参したことで北条氏の城になった。
資高は自分が引き続き江戸城を預かるつもりでいたが、そうはならず、北条氏の重臣である富永直勝、遠山直景の二人が江戸城の支配を委ねられた。
それ以来、江戸城の支配権を手に入れることが江戸太田氏の悲願となった。
資高が亡くなって、康資は十七歳で太田の家督を継いだ。
康資の母は氏綱の娘で、康資にとって氏康は母方の伯父に当たる。元服したとき、「康」の一字を偏諱として賜り、養女(実父は遠山綱景)を妻として与えられたから、氏康から手厚く処遇されていたわけである。
もっとも、氏康は、血縁関係だけで厚遇するほど甘い男ではない。康資の武勇を見込んだ。その期待に応え、康資は氏康に従って多くの戦に参陣し、人を驚かすような大きな手柄をいくつも立てた。
氏康に忠勤を励み、北条氏のために粉骨砕身して働いたのは、
(いつかは江戸城を預けて下さるだろう)
という期待があったからである。
江戸城が無理だとしても、せめて城持ちになりたいというのが康資の切実な願いだったに違いない。
景虎に奪われた葛西城を攻めたときも、大いに奮戦した。目を瞠るほどの働きであり、氏康が葛西城を奪還するに当たって最大級の功績があったと言っていい。
康資は葛西城を預からせてもらえるものと楽観した。それに見合う働きをしたという自負もあった。
しかし、そうはならず、葛西城は義父・遠山綱景に与えられた。
長尾景虎に奪われる以前、綱景が葛西城の城主だったから、ごく当たり前の処置だったが、康資は、そう思わなかった。
(どれだけ働いても認めてもらうことができぬ。北条にいたのでは、いつまでも城持ちになることはできぬということか......)
と絶望し、氏康を恨んだ。
鬱屈した思いを抱えて悶々としているところに、同族の太田資正から誘いの手が伸びた。
わしを見よ、上杉の御屋形さま(景虎)に忠勤を励んだおかげで、今では岩付の城主になっている。以前は松山城も支配していた。御屋形さまは心の広い御方だから、働きに見合った恩賞を惜しみなく与えて下さる。しかるに北条は、どうだ? いくら励んでも、古くから仕えている遠山や富永ばかりを重んじて、汝は軽んじられているではないか。御屋形さまは越後から上野に入った。里見は安房から攻め上って武蔵に攻め込む構えだ。汝もわれらに味方せよ。太田一門が手を携えて里見と力を合わせれば、葛西城も江戸城も落とすことができよう。そうすれば、御屋形さまは汝に江戸城を下さるであろう。葛西城も預けて下さるかもしれぬ。今こそ父祖伝来の由緒ある城を奪い返す千載一遇の好機ではないか......。
資正の説得に心を動かされ、ついに康資は謀反を決意した。葛西城の近くに在陣している味方の兵を引き連れて、葛西城と向かい合う位置にある里見方の国府台(こうのだい)城に走ったのである。
康資の裏切りを知り、同道を拒んで離脱して葛西城に逃げ戻った兵も多かったから、康資に従った兵の数は一千ほどに過ぎない。
しかし、一千の兵力が寝返ったという事実以上に、氏康が身内として厚遇していた康資が裏切ったという政治的な意味が大きく、だからこそ、氏康は愕然としたのである。
里見軍と睨み合っている北条軍にも動揺が広がり、遠山綱景だけでは手に負えなくなりつつあったから、本当であれば、氏康は直ちに松山城から葛西城に向かうべきであった。
だが、氏康は葛西城ではなく、小田原に向かった。
八
「父上、葛西城からまた使者が来ましたぞ。このまま何もしないでいるのは、まずかろうと存じます。いくらかでも兵を送ってはいかがでしょうか?」
氏政が言う。
「うむ......」
氏康は煮え切らない。
「その方は、どう思うぞ?」
氏政が康光(やすみつ)に顔を向ける。
「このままではまずいでしょうが、かと言って、兵を小出しにするのは、よいこととは思えませぬ」
「では、どうするのだ。何もしなければ、里見に葛西城を奪われてしまうではないか」
氏政が怒りを露わにする。
「しかし、迂闊に動けば、長尾が......」
「ううむ、長尾か。厄介だのう」
氏政がちっと舌打ちする。
「......」
氏康は黙りこくっている。
相手が里見だけであれば、何も迷うことはないのである。全軍を率いて葛西城に向かえばいい。
それができないのは、上野に長尾景虎がいるからである。
氏康たちが葛西城に向かうのを知って、景虎が上野から武蔵に入れば、北条軍は挟み撃ちにされる怖れがある。
最悪なのは、里見軍に手こずっている間に背後に景虎が布陣することだ。
北条軍は葛西城に孤立し、身動きが取れなくなってしまう。
たとえ最悪ではなくとも、例えば、里見軍を撃退してから長尾軍と対峙することになったとしても、氏康としては不本意な戦いを強いられることになる。
長尾景虎に対する作戦の根幹は決戦を避けることである。にもかかわらず、葛西城を巡って、景虎と決戦することになれば、これまで緻密に組み立ててきた戦略が瓦解する怖れがある。
氏康が動けば、景虎も動く。
それが出陣をためらわせている理由なのだ。
このまま氏康が動かなければ、葛西城を失うことになるかもしれないが、所詮、それは局地戦に過ぎない。北条氏そのものは、びくともしない。
しかし、氏康が出陣し、どこかで景虎と決戦することになれば、それは北条氏の存亡を賭けた戦いになる。戦の重みが違うのである。
景虎に勝てるという見通しがあれば決戦してもいいわけだが、とても勝てそうにないと認めているから決戦を避けるのである。
氏政はいかにして里見軍を撃退するかということだけに心を奪われているが、氏康はそうではない。里見ではなく、景虎の動向を案じているわけであった。考えていることがまったく違うのだから、一向に方針が決まらないのは当然であった。
(葛西城を捨てるか......)
城主の遠山綱景を見捨てるのは忍びないが、北条氏を守り抜くには、そうするしかない......そう覚悟を決めつつあったとき、
「武田より使者が参りました」
と小姓が告げる。
「おう、武田殿からか」
当初の予定通り、甲府に引き揚げるのであろうが、わざわざ知らせてくるとは律儀な御方よ、と氏康は感心する。
上野での戦い、ご苦労でございました、無事に帰国されることを願っておりまする、と型通りの挨拶を返すことを考えながら、武田の使者を引見する。
その使者が発したのは、思いがけない言葉であった。
「西上野で年越しすることに決めました。長尾が南に向かうようなら、武田は追尾しましょう」
という信玄の意思を伝えたのである。
「おおっ」
思わず氏康は膝を叩く。
これほどの馳走はない。
信玄が帰国せず、西上野に居座り続けるというのは、つまり、長尾景虎を牽制してくれるという意味なのである。
氏康が葛西城に向けて出陣し、それを知った景虎が氏康の追撃を図れば、その景虎の後を信玄が追い、武蔵のどこかで氏康と共に景虎を挟み撃ちにしようという申し出なのである。
景虎は戦に関しては鼻が利く男である。
信玄の強さも知っている。
武田軍が西上野にいる限り、景虎も上野から迂闊に動くことができないはずである。
「武田殿は頼りになる味方ですなあ」
氏政が感激し、子供のように無邪気に喜ぶ。
もちろん、氏康とて嬉しくないはずはない。
信玄のおかげで後顧の憂いなく、葛西城の救援に向かうことができる。
が......。
戦国の世で生き残っている大名は、純粋な親切心や同情心で兵を動かすことはない。そこには必ず打算がある。損得勘定で動くのだ。
(いつか、どこかで、この借りを返してくれ、と言われるかもしれぬな)
それが気になる。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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- 第十九回2025.04.23