北条氏康 巨星墜落篇第四十九回

三十
「御屋形さまは大胆なことをなさいますなあ。わたしなどには、とても真似できませぬ」
 武藤喜兵衛、すなわち、後の真田昌幸が溜息交じりに言うと、信玄が苦笑する。
 喜兵衛は、近習として常に信玄のそばにいて、主というより、師として信玄を崇めている。
 信玄も、利発で機転が利き、武将としても勇猛な喜兵衛を愛し、家臣というより、良き話し相手として遇している。まだ二十六歳の若さだが、昌幸には老成したところがあり、
(わしによく似ている)
 と感じるらしい。
 後継ぎである四郎勝頼よりも喜兵衛の方を見込んでいたフシがあり、それが他の者であれば勝頼も嫉妬したであろうが、幼い頃から共に学び共に遊んだ仲なので、信玄と喜兵衛がどれほど親しくしていても、
「喜兵衛ならば仕方あるまい」
 と気にする様子もない。
「大物が釣れそうではありませぬか」
「そうだといいが」
「真似できぬというのは、大物を釣るために御屋形さまのお命を餌にしていることでございます。他の誰にも真似できぬでしょう」
 喜兵衛がまた溜息をつく。
「こちらが万全の構えをしていたのでは、家康は城から出てこぬであろう。隙を見せねばならぬ」
「餌だけ取られて、魚も逃がす......。わたしのような凡人は、そんな心配をしてしまいます」
 今になってみると、二俣城を攻め落としてから、信玄が何を考えていたのか、喜兵衛にはよくわかる。
 信玄が二俣城の近くから動かなかったのは、信長の援軍が到着するのを待っていたのである。
 ようやく援軍が到着したので、信玄も動いた。
 だが、援軍が加わっても徳川軍は一万一千、武田軍は二万七千である。
 普通ならば、城から出ずに籠城するであろう。
 それでは困るのである。
 武田軍が西に向かえば、いずれ信長の軍勢と雌雄を決することになる。
 そのとき、武田軍の背後から徳川軍が忍び寄ってくるという状況はまずいから、何としてでも、ここで徳川軍を打ちのめしておく必要があるのだ。
 それで信玄は魚釣りをすることにした。喜兵衛の言うように、餌は信玄の命である。
 一路、西進すると見せかけて、一転して浜松城に向かう。浜松城の近くで方向を転じて三方原に向かったのは誘いである。浜松城の家康に餌を投げたのだ。家康を餌に食いつかせるために、もうひとつ、信玄は味付けをした。三方原を抜け、追分から祝田に向かう指示を出したことである。
 信玄は家康を買っている。武将としての実力を大いに認めている。
 だからこそ、駿河に攻めこむとき、家康と手を握った。
 家康が平凡な武将であれば、信玄の餌に食いつかないであろうが、優秀な武将であれば、追分から祝田に進軍する途中で攻撃すれば勝てる、と判断するに違いない。皮肉なことに、優秀だからこそ、信玄の仕組んだ罠に引っかかるのである。
 もっとも、信玄にとっても危険な罠である。
 罠にはめたつもりが、喜兵衛が心配するように、家康に餌だけ食われてしまう怖れもある。一歩間違えれば、信玄は死に、武田軍は崩壊する。
 危険すぎる賭けだが、信玄は平然と己の命を餌にする。そこに喜兵衛は信玄の凄味を感じるのだ。
 武田軍が三方原を半分ほど通り過ぎたとき、信玄の放った物見が戻り、徳川勢が浜松城を出た、と告げた。家康が率いるのは一万一千。城を空にして出陣したわけである。
(家康は、やる気だな)
 信玄がほくそ笑む。魚が餌に食いついたのである。
 ここからが肝心だ。喜び勇んで棹を強く引けば、魚は逃げてしまう。ゆっくり引き寄せなければならない。信玄の名人芸の見せ所と言っていい。
 家康が多数の忍びを放っているように、信玄も忍びや物見の兵を放っているから、徳川勢の動きは手に取るようにわかる。
「喜兵衛、家康は物見遊山のようにのろのろ進んでいるらしいぞ」
 馬を進ませながら、信玄は傍らの喜兵衛に笑いかける。
「家康は用心深く慎重だといいますから、まだ疑っているのでしょう」
「ならば、もっと餌を深く飲み込ませ、針を外そうにも外れないようにしなければならぬのう」
 世間話でもするような気安さで、信玄が言う。餌は自分の命なのに、まったく深刻に捉えていない様子である。
 家康の動きが緩慢なのは、まだ武田軍を警戒しているからだと信玄にはわかる。
 追分から祝田に行くという情報をわざと流し、実際には三方原に陣を張って待ち構えているのではないか......そう疑っているのに違いない。
(そうではない。本当に祝田に向かうと信じさせなければならぬ)
 それには、どうすればいいか?
 簡単な話である。
 追分から祝田に向けて本当に進軍すればいいのだ。
 進軍し、家康が喉の奥深くに餌を飲み込み、針がしっかり喉に食い込んだのを見計らって反転し、三方原に戻るのだ。
 それを口にすると、
「要は時間との勝負ということになりましょうな」
 喜兵衛が難しい顔でうなずく。
 策としては単純だが、采配を振るのは簡単ではない、とわかる。あまり早く反転すれば家康が逃げてしまうし、かと言って、反転が遅すぎると三方原に戻らないうちに徳川軍に攻撃されることになり、それは非常にまずい。
(なぜ、あのように楽しそうな顔をしておられるのか......)
 後の話になるが、喜兵衛は、関ヶ原の戦いで大坂方に味方したため、倅の幸村と共に九度山(くどやま)に配流された。無聊を持て余し、長い夜、幸村を相手に昔語りをするのが常だったが、そんな折、ひとつ話のように三方原の合戦について語った。
 その話の中でも、
「あのときの御屋形さまの笑顔を忘れることができぬ。戦を楽しんでおられた。あんな難しい場面で笑っていられるような武将は他におらぬ。三国志の諸葛孔明の如き御方であったよ」
 と溜息をつき、信玄を懐かしんで涙を流した。
 蛇足ながら、もうひとつ付け加えると......。
 大坂冬の陣が起こったとき、家康の率いる軍勢は大坂城を攻めあぐね、あの手この手で豊臣軍を城外に引っ張り出そうとした。
 つまり、三方原のときの信玄の立場になったわけである。
 大坂城に立て籠もる幸村には家康の焦りが手に取るようにわかった。耳にタコができるほど、昌幸から三方原の話を聞かされていたからだ。
 それ故、
(大坂城から出なければ勝てる。いずれ太閤殿下に恩顧を被った西国の大名が大坂に攻め上ってくる。そのときに城からも打って出れば、家康は為す術がない)
 そう幸村は見切った。
 もし、幸村が三方原のときの家康の立場にいれば、すなわち、豊臣軍を率いる立場にいれば、大坂の陣は豊臣方が勝利していたであろう。
 三方原における昌幸の感動が息子の幸村にも引き継がれ、四十年以上後の大坂の陣で生きることになるというのは歴史の奇妙さと言うしかない。

三十一
 一万一千の兵を率いて家康は浜松城を出た。北上して三方原を目指したものの、それほど急がなかったのは、信玄と喜兵衛が想像したように、
(罠ではないのか? 祝田に向かうと見せかけて、実際には三方原に布陣して、われらを待ち構えているのではないか)
 と疑ったのである。
 慎重でもあり、優秀でもあるからこそ、武田軍の動きを警戒した。万が一、武田軍が布陣しているとわかれば、すぐさま浜松城に引き返すつもりでいるから、ゆるゆると行軍した。
 そこに、武田軍が追分から祝田に向けて進んでいるという報告が届いた。
(本当か?)
 尚も疑いを拭い去ることができない。
 しかし、続々と同じ報告が届くから、ついには慎重居士の家康も、
(武田は祝田に行くつもりだ)
 と確信した。
 そこから急激に行軍速度を上げた。
 浜松城から三方原に行く途中、道が二俣に分かれる。ここで家康は軍勢を三つに分けた。
 信長の援軍三千と酒井忠次の一千、合わせて四千を右の道へ、石川数正、本多忠勝らの四千を左の道へ、家康自身は残りの三千を率いて、ふたつの道の真ん中を進むことにした。そこは道ではないが、野原を突っ切るだけだから、行軍に支障はない。
 軍勢を三分したのは、祝田に向かう武田軍を効率よく攻撃するためである。谷の左右から、谷底の道を行く武田軍を攻撃し、混乱する武田軍を家康の軍勢が背後から攻める......そんな作戦を想定している。
 古来、三方原の合戦に関する文献には、三方原に現れた徳川軍が鶴翼の陣を敷き、それが敗因のひとつだと記されている。鶴翼の陣とは、読んで字の如く、鶴が翼を大きく広げたように軍勢を広く展開する布陣である。
 これが敗因のひとつとされるのは、普通、鶴翼の陣は、兵力で上回る軍勢が用いる策であり、数の利を生かして、敵を包囲殲滅するときに有効だからである。武田軍の半分以下の兵力しかない徳川軍が鶴翼の布陣をすれば、武田軍を包囲するどころか、布陣をずたずたに寸断され、逆に包囲されてしまう危険がある。
 なぜ、家康が自軍に不利な鶴翼の陣を敷いたのか不可解である、家康もまだ若かったのであろう、と評されることが多いが、実際は、そうではない。
 そもそも野戦するつもりなどなく、谷間の細い道を進む武田軍を奇襲するつもりだったのだから、鶴翼の陣を敷くはずがない。結果的にそうなっただけのことである。
 軍勢を三つに分け、祝田に向かう武田軍を攻撃するつもりだったのに、いざ三方原に着いてみれば、何と、そこにはいないはずの武田軍が待ち構えていた。家康は行軍を止めた。左右にいる軍勢も、旗指物が風に靡くのが見えるほどの距離で止まっている。鶴翼の陣を敷いたと言われる所以である。
(なぜ、武田がここにいるのだ?)
 内心、家康は驚愕したであろうが、顔には出さない。ある意味、これが家康の最大の長所に違いない。心の中がどれほど波立っていたとしても、その感情が顔に出ないのである。
 できることなら、すぐさま軍を返し、浜松城に帰りたかったであろう。
 しかし、動きようがない。下手に動けば、武田軍に追撃される。逃げ切れればいいが、捕捉されれば徳川軍は壊滅する。
 家康は、空を見上げる。太陽は空の高いところにある。まだ昼過ぎなのである。
(日暮れを待つしかない)
 このまま対峙を続け、日が暮れたら夜の闇に紛れて浜松城に帰る。それが家康の希望であり、唯一の策であった。家康の頭の中に、戦うという選択肢は微塵もない。三方原のように見晴らしのいい場所で、この時代の最強軍団である武田軍と、しかも、二倍以上の兵力差があるのに、まともにぶつかれば負けるに決まっている。
 だが、日暮れまで何時間もある。
 それまでに武田軍が攻めてきたら、どうするのか?
(そのときは、どうしたものか......)
 家康にもわからない。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

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