北条氏康 巨星墜落篇第三十五回
十八
武田軍の小田原城攻めでは、十月一日の蓮池門付近における戦いが目立つ程度で、大がかりな戦いは行われていない。
蓮池門での戦いにしても、武田軍が迫るや、北条軍はすぐさま城内に兵を退いたので、矢合わせが行われたくらいで、白兵戦は起こっていない。
武田軍は、民家を焼き払って気勢を上げたが、どこの家にも食料は存在せず、手ぶらで陣地に戻るしかなかった。
二日と三日は何の戦いも起こっていないが、時間が経つにつれて武田軍が窮してきた。食料がないのである。戦いがあろうがなかろうが、日々、二万の兵は飯を食う。敵地で略奪して補給しなければ、あっという間に食うものがなくなる道理である。
三日の昼、食料を管理する責任者が、
「もう米がありませぬ。麦や稗(ひえ)、粟がいくらか残っていますが、二日もすればすべてなくなりまする」
と、信玄に告げた。
「そうか」
信玄は大きくうなずくと、何事か思案を始める。
夕方、信玄は重臣たちを本陣に呼び集め、
「明日、鎌倉に向かい、鶴岡八幡宮に参詣する」
と告げた。
八年前の長尾景虎と同じことをするつもりだな、と重臣たちは納得した。
景虎は鶴岡八幡宮で関東管領の就任式を行い、北条氏の面目は丸潰れになった。
信玄が参詣すれば、北条氏にとっては大きな屈辱であろう。
「それは愉快、大いに愉快」
重臣たちは手を叩いて喜んだ。
北条氏の最大の武器は諜報網である。至る所に北条の忍びの目と耳がある。武田軍が陣を払って鎌倉に向かうという情報は、その夜のうちに小田原城の氏政の耳に届いた。
氏政は短気である。
「おのれ、そこまでわれらを愚弄するか」
と腹を立てた。
話を聞いた氏康は、
「あの信玄が、そのような子供染みた真似をするとも思えぬが......」
と首を捻る。
長尾景虎は実利よりも名誉を重んじるが、信玄はそうではない。まったく逆である。
なるほど、武田軍が鎌倉に入り、信玄が鶴岡八幡宮に参詣すれば、氏康と氏政の面目は丸潰れとなり、信玄は溜飲が下がるであろう。
しかし、それだけのことである。
鎌倉に入ったところで食料が手に入るわけでもなく、領土を手に入れられるわけでもない。北条軍が鎌倉を包囲すれば、海を背にした武田軍は行き場を失う。信玄にとって、いいことは何もない。
(そんな愚かなことをするだろうか)
という疑念が胸に渦巻くものの、鎌倉に入った武田軍を包囲殲滅するという氏政の策を、氏康が承認したのは、ひとつには長尾景虎の鎌倉入りという先例があったことと、長患いで頭の働きが鈍っていたせいであろう。
氏康が健康体で、頭脳が明晰であれば、疑念が生じた時点で信玄の腹のうちを深く読み直し、武田軍の動きに応じて第二の策、第三の策を繰り出せるように手配りしたはずである。武田軍が鎌倉に向かうと決めつけ、それに対処するひとつの策しか考えないということはあり得ない。
しかし、現実は、そうなった。
四日の早朝、武田軍は小田原城周辺から退却を始め、海岸沿いに国府津から大磯へと向かう。やって来たときと逆の進路を取ったわけである。そのまま進めば、明日には鎌倉に入るであろう。
すでに氏政は、前夜のうちに江戸の諸城に何人もの使者を送っている。武田軍が鎌倉に入る頃合いを見計らって、鎌倉の北西にある玉縄城に集結するように命じたのである。江戸方面から二万、小田原方面から二万、合わせて四万の軍勢で鎌倉を包囲し、武田軍を殲滅しようという計画なのだ。
氏政は、武田軍が五日に鎌倉に入るだろうから、六日までに軍勢を集結すればいいだろうと考えた。
が......。
平塚を過ぎて武田軍は進路を変え、馬入(ばにゅう)川沿いに北上して厚木に向かった。
早馬で武田軍の動きを知った氏政は、
「しまった」
と悔しげに膝を叩く。
すぐさま病床の氏康に知らせると、
「鶴岡八幡宮への参詣というのは、われらを欺く策だったということだな」
と、うなずく。
冷静に考え直せば、信玄ほどの名将が、実利を伴わない名誉のために、自らを窮地に陥れるような愚かな真似をするはずがない。
武田軍は二万に過ぎず、のんびり鎌倉に入ったら四万の北条軍に包囲されてしまうのだ。
「三増(みませ)峠を越えて甲斐に帰るつもりであろうよ」
厚木の北、津久井の南にある三増峠を越えてしまえば、相模湖沿いに甲斐に戻ることができる。
「急いで後を追わせまするか? 武田を足止めできれば......」
今から氏政が小田原から出陣したのでは、もう武田軍に追いつくことはできないが、玉縄城付近には氏邦、氏照、綱成らの軍勢二万が待機している。彼らに出撃を命じれば、武田軍が三増峠を越えないうちに追いつくことができるだろうし、武田軍を足止めしているうちに氏政の軍勢が到着すれば、武田軍を打ち破ることができるかもしれない。
「その方に任せよう」
力のない声で、氏康が言う。
自分ならば、このまま武田軍を去らせればいいと思うが、なぜ、そうするべきなのか、血気に逸る氏政を説得するのが億劫なのである。氏政と議論する気力も体力もない。
氏康自身、いつ死んでもおかしくないほど病状が悪化していると認識している。氏康が亡くなれば、その日から氏政が北条氏の舵取りをすることになる。ならば、今、この場から任せてもいいのではないか、たとえ氏政の決断が間違っているとしても、それが当主の決断であれば、やむを得ないことだ......そう氏康は考える。
「玉縄城に早馬を送り、武田を追うように命じまする。わたしもすぐに出陣します」
「わしも行こう」
「父上には、この小田原城を守っていただきます」
「ならぬ。行くぞ」
「いいえ、わたしの指図に従っていただきます」
「そうか」
ふっと息を吐くと、氏康が体の力を抜いて目を瞑る。そんな弱々しい氏康の姿を見て、氏政の目に涙が滲む。
十九
武田軍が相模から甲斐に帰国すべく、厚木から三増峠に向かい、それを北条軍が追撃するという展開で、いよいよ、両軍の本格的な衝突が迫りつつある。
ここで一人の若武者が歴史の表舞台に登場する。
武藤喜兵衛という。
後の安房守・真田昌幸である。武田の重臣・真田幸隆の三男で、このとき、二十四歳。
ずっと先の話だが、北条氏が豊臣秀吉と対立して滅亡への坂道を転がり始めるとき、その対立の構図の中で昌幸も大きな役を演じ、北条氏滅亡の一因を作ることになる。
昌幸と北条氏の深い因縁は、この三増峠から始まると言っていい。
まだ源五郎という幼名を名乗っていた七歳のとき、昌幸は信玄(当時は晴信)の小姓として躑躅ヶ崎(つつじがさき)館に出仕した。
小姓といっても表向きの肩書きに過ぎず、実際には人質だから、何もせずにぶらぶらしていてもいいのだが、信玄の四男・四郎(後の勝頼)と年齢が近いので、
「四郎と遊ばせておけ」
と、信玄が命じた。
勝頼の遊び相手は、曾根総次郎や金丸平八郎など、昌幸を含めて六人いた。六人とも有力豪族の子弟である。その中で昌幸の評判だけが頗(すこぶ)る悪い。
勝頼の傅役(もりやく)や乳母、女房などが、
「あの子は手に負えませぬ」
と口々に信玄に訴える。
相撲を取れば、平気で勝頼を投げ飛ばすし、剣術稽古をすれば、容赦なく勝頼に打ち込む。昌幸と過ごすと、いつも勝頼は泥だらけになり、時には血を流すこともあるという。
勝頼は昌幸よりひとつ年上だが、昌幸より小柄なので、力比べをするとかなわないのだ。乱暴で手に負えないのなら、小姓役を免じて実家に戻せばよさそうなものだが、人質だから、そう簡単にはいかない。
「わしが話してみよう」
信玄は、直に昌幸から話を聞くことにした。
すぐさま昌幸を呼び、
「その方は、よく四郎を投げるそうだな」
「はい」
「皆に叱られるであろう」
「はい。叱られます。四郎さまに怪我をさせたら、どうするつもりなのだ、と」
「それでも投げるのだな。なぜだ?」
「四郎さまに強くなっていただきたいからです。父がいつも申しております。戦では何が起こるかわからぬ。自分で自分を守る力がなければ生き抜くことはできぬ、と。それ故、四郎さまに強くなっていただきたいのです」
「木刀で四郎を殴るそうではないか。危ないのではないか?」
「怪我なら治りますが、命を失えば終わりでございます。それに怪我をしているのは、四郎さまだけではございませぬ」
昌幸は胸元を開く。乳のそばに赤い痣がいくつもある。袖をめくると、二の腕にも痣がある。木刀で突かれたり、打たれたりした痕である。
「お互いさまということか」
「真剣に戦うから強くなれると思います」
「よしよし、これからも稽古に励むがよい。四郎を頼むぞ」
信玄はにこりと笑うと、菓子や饅頭を手ずから昌幸に与えた。
てっきり叱られると覚悟していたのに、誉められ、褒美をもらって、昌幸は驚いた。
昌幸は、死に至るまで、「信玄公は神の如き武将」と信玄を敬い、祭壇まで拵(こしら)えて祀ったほどだが、その始まりは、このときである。
その頃、信玄は信濃攻略に全力を傾けており、北信濃の豪族を支援する長尾景虎と何度となく干戈を交えていた。
戦続きの日々で、躑躅ヶ崎館で過ごすことなど滅多になかった。たまにいるときも、看経間(かんきんのま)と呼ばれる自室に籠もって、誰も近付くことができなかった。看経間には雪隠まであって、時には朝から夜まで籠もりきりになる。
昌幸は平気な顔で看経間に行った。一人で訪ねたのでは信玄も会ってくれないから、常に勝頼を引きずっていった。
信玄は勝頼を溺愛しており、勝頼にはいつでも会うと知っていたからだ。
ある日、昌幸と勝頼が看経間に行くと、信玄は床に大きな絵図面を広げて難しい顔をしていた。何をしておられるのですか、と昌幸が問うと、
「これはな、上田原と戸石の絵図面だ......」
信玄は、不敗の名将として知られているが、実は、その生涯で二度、危うく命を失いそうになるほどの大敗を喫している。天文十七年(一五四八)の上田原の合戦、天文十九年(一五五〇)の戸石崩れである。二度とも村上義清に敗れた。
「人は勝ち戦よりも負け戦から、より多くのことを学ぶことができる。なぜ、あのとき武田が負けたか、わしは考え続けている」
「なぜ、負けたのですか?」
「心に隙があったのだ。自分の都合ばかり考え、相手の立場になって考えなかった。どうせ勝てるだろうと高を括って、相手を甘く見ていた。だから、足をすくわれた」
敵を知り、己を知れば百戦危うからず......そう信玄はつぶやき、
「頭ではわかっていても、いざ戦が始まると『孫子』の言葉を忘れてしまう。戦は生き物で、こちらの思う通りにはならぬ。相手も必死なのだ。それ故、こちらも必死に考えねばならぬ。相手が何を考え、何をしようとしているか、まず、それを熟慮した上で、こちらがどうするかを考えなければならぬのだ。それを忘れると、こういうことになる」
信玄は二枚の絵図面を睨んだ。
そのときの信玄の厳しい表情と、その言葉を昌幸は胸に刻んだ。
昌幸の初陣は永禄四年(一五六一)九月、世に言う第四次川中島の戦いである。
昌幸は近習として信玄のそばに控えた。川中島の戦いは五回行われたと言われるが、このときが最大の激戦である。
長尾景虎の率いる越後勢は信玄の本陣にまで斬り込み、信玄に手傷を負わせた。信玄の弟・典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)を始め、名だたる武将たちが討たれた。
双方痛み分け、と言う者もいるが、昌幸はそうは思わなかった。
(御屋形さまの見事な勝利)
と感動した。
上田原と戸石の敗戦を反省し、信玄は必殺の戦法を編み出した。敵の主力と真正面から衝突し、敵の猛攻を必死にしのぐ。敵に疲れが見えたら、隠していた別働隊で背後を衝く。この戦法で最も大切なことは本陣が動かないことである。本陣が不動の位置にあるからこそ、敵も死に物狂いで攻め立て、背後に注意を払う余裕を失う。ぎりぎりまで敵を本陣に引きつけることが肝心なのだ。
第四次川中島の戦いは、その戦法が見事にはまった。唯一の誤算は、想像をはるかに上回る長尾勢の強さである。景虎の指揮に従い、一糸乱れず、毘沙門天の旗の下に戦い続けたのだ。
信玄が本陣を下げようなどと考えたら、長尾勢に飲み込まれ、武田は滅亡していたはずである。
この戦いの後、長尾勢は川中島周辺から姿を消し、北信濃における武田の支配権が確立したから、結果からすれば、信玄の勝ちだった、と昌幸は判断した。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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