北条氏康 巨星墜落篇第二十回
十二
二月下旬、都から氏康宛てに手紙が届いた。
差出人は足利義秋である。
後に室町幕府の十五代将軍となる義昭だ。
前年の五月、義昭の兄・足利義輝が三好三人衆や松永久秀に弑逆(しいぎゃく)された。永禄の変である。
興福寺で修行していた義秋も命を狙われ、危ういところを脱出した。
還俗し、義輝の後を継ぐことを決意した義秋は、武田信玄、長尾景虎、北条氏康の三人に書状を認(したた)めた。武力を持たない義秋は、地方から力のある武将を呼び寄せる必要があった。
最も期待したのは長尾景虎である。これまでにも兵を率いて上洛し、義輝に忠誠を誓っていたからだ。
景虎が上洛する足枷になるのは信玄と氏康である。
それ故、義秋は、氏康に景虎との和睦を強く要請したのである。同じ頃、信玄にも手紙を送っている。
氏康には衝撃だった。
これまで関東の統一ということしか考えて来なかったからだ。それが宗瑞以来の北条氏の悲願なのである。
氏康は「天下」というものを初めて意識した。京都の政治情勢には、これまで無関心だったが、北条氏が巨大になったために、氏康の意向とは関係なく、否応なしに天下を巡る政治情勢に巻き込まれることになったのである。
(わけがわからぬ......)
氏康は、すぐさま氏政を呼んだ。自分一人で決められることではなかったからだ。
「長尾との和睦ですと? あり得ませぬ」
氏政が鼻で嗤う。
十万の大軍を率いて小田原城を囲み、北条氏を滅亡の瀬戸際に追い込んだ長尾景虎を、今でも氏政は深く恨み、憎悪しているのである。
「われらに使者を寄越すくらいなら、当然、長尾にも同じような使者を送っているでしょう。しかるに、長尾は何をしているのか?」
氏政の表情が険しくなる。
「言いたいことはわかる」
氏康がうなずく。
去年の十一月末、景虎は越山し、厩橋城に入った。しばらく動かなかったが、年が明けると常陸に向かい、小田城の小田氏治を攻めた。わずか数日の攻撃で城を落とす見通しが立つと、
「後を頼む」
と、佐竹義重に攻撃を任せ、自身は南下して下総の小金城を囲んだ。
小田氏治は二月十日に降伏開城している。
小金城のすぐ南には、二年前、北条氏と里見氏が死闘を繰り広げた国府台(こうのだい)城がある。
景虎とすれば、小金城を落とし、二年前に合戦に間に合わなかった鬱憤晴らしに、国府台城と葛西城を落としてやろうという意気込みだった。
そんなことになれば、北条氏にとっては由々しき事態である。ようやく安定してきた武蔵支配の基盤が大きく揺らぐことになるからだ。
それ故、氏康は江戸城や葛西城の兵を、大量の兵糧米と共に小金城に移動させ、防備を固めさせた。
氏康の指示は、
「決して城から出るな」
ということだけである。
北条氏が景虎と戦うのは、景虎の二倍以上の兵力があるときだけで、それ以外のときは、戦わずに籠城するというのが氏康の方針である。
すでに氏政が出陣準備を進めているから、小金城は氏政が到着するまで景虎の攻撃を凌げばいい。
現に戦いが行われているときに、
「和睦せよ」
と、義秋から要請されても、氏政が素直に承知できるはずがない。
氏政とすれば、北条氏に義秋の使者が来ているからには、長尾氏にも同じ内容を伝える使者が行っているはずであり、にもかかわらず、景虎が北条方の城を攻めるのは、和睦するつもりなどないという明確な意思表示に思われたわけである。
実際には、この時点で景虎の元に義秋の使者は着いておらず、使者が来るのは三月になってからなのだが、それを氏康も氏政も知らない。
同じ頃に双方に使者がやって来て、景虎が進軍を手控えていれば、その後の歴史は大きく変わったかもしれない。
しかし、そうはならず、景虎は、その生涯で、恐らく、ただ一度という大敗北を喫することになる。
歴史の綾というものであろう。
十三
万全の準備を調えて景虎の来襲を待ち構えていた小金城を、さすがの景虎も攻めあぐねた。
元々、野戦には滅法強いが、城攻めは得意ではないし、そもそも飽きっぽい性格である。
だからこそ、落城間近の小田城を、佐竹義重に投げ渡すようなことをしたのだ。
(意気地のない奴らだ)
城に閉じ籠もって、まったく戦おうとしない小金城にうんざりし、包囲を解いて、景虎はすぐさま違う城に目を付けた。
小金城の南東にある臼井城である。
これといって特徴のない平城で、規模も大きくない。長尾軍の来襲に備えて、北条氏からは松田康郷孫太郎の手勢や古河公方(こがくぼう)・足利義氏の奉公衆など、各地から援軍が来ており、いくらか城兵の数は増えているものの、それでも二千ほどである。
臼井城は千葉氏の支城で、千葉氏が臼井城よりも、臼井城のすぐ南にある佐倉城を死守する方針を決めたため、ある意味、捨て城とされた。それでも二千の兵を入れたのは時間稼ぎのためである。小金城と同じく氏政の来援を待つためだ。
長尾軍は一万五千という大軍である。
よほど堅固であれば別だが、七倍以上の敵に攻められては、普通の平城では防ぎようがないであろう。
景虎としては、まず臼井城、次いで佐倉城を落とし、場合によっては小弓(おゆみ)城や土気(とけ)城まで落とし、下総方面を蹂躙してやろうという考えで、
(十日もあれば......)
と胸算用した。
そうなれば、さすがに北条氏も放置できないだろうから、否応なしに野戦に臨まざるを得ず、それこそ国府台あたりで決戦することができるかもしれぬ、と期待した。
葛西城や国府台城は守りが堅いし、小金城も短期間で補強され、兵力も増えている。
その点、臼井城は守りにくい平城で、兵の数も少ない。一万五千の長尾軍が包囲すれば、戦わずして降伏するのではないか、と景虎は楽観する。
臼井城の城主は原胤貞(はらたねさだ)である。
「駄目だと思えば、無理せずに城を捨てて構わぬ。佐倉城に逃げてこい」
そう指示されている。
その程度の城である。味方からも敵からも侮られている。侮られても仕方のない理由もある。
五年前、景虎が小田原攻めを決意したとき、それを力添えするため、里見氏の軍勢が房総半島を北上した。邪魔する敵は虱潰しに叩いた。
当時、臼井城は臼井久胤(ひさたね)が城主として守っていた。
これを里見方の正木信茂が攻め、あっさり攻め落とした。
正木信茂が攻めた頃と比べて、取り立てて城の守りが堅くなっているわけではない。正木軍に破壊された城壁を補修し、埋められた堀を掘り返した程度である。
新たに城主となった原胤貞が戦上手かといえば、そんなこともない。すでに六十という高齢だが、その年齢になるまで、これといって目立った軍功はない。
胤貞がやったことと言えば、外孫である臼井久胤の後見役として臼井城に入って実権を握ったことくらいである。
落城から三年後、第二次の国府台の合戦が起こり、里見軍は大敗した。その混乱に乗じて、胤貞は臼井城を奪還した。本来であれば、臼井久胤に返還するべきだったろうが、知らん顔をして自分が城主の座に就いた。これによって臼井氏は滅亡した。
悪知恵を働かせて、外孫から田舎の小城を奪い取る......胤貞の六十年の生涯で話の種になりそうなのは、それひとつしかない。
城の守りも弱いし、城主も無能なのだから、敵からも味方からも侮られるのは仕方がない。正木信茂が数日で落とした城ならば、景虎が一日で落としても不思議はないのだ。
が......。
ここに、一人の軍師が登場する。
白井胤治(たねはる)、出家して浄三(じょうさん)と号す。
この頃は、白井入道浄三と呼ばれている。
出自も年齢も不明。
その生涯については、この臼井城攻防戦の以前に何をしていたのか、この戦いの後に何をしたのか、何もわからない。
歴史上、この一瞬だけに登場した。
しかし、この一瞬が歴史を変えた。
すでに、この当時、景虎は不敗の名将、毘沙門天の化身、神の如き武将とまで呼ばれていた。それほど戦に強かった。
武田信玄との川中島の戦いでは、時に勝ち、時に負けたが、現実として、景虎も信玄も健在で、長尾軍も武田軍も縦横無尽に駆け回っている状況だから、どちらが勝ったとも負けたとも言えない。
景虎は敵に完敗したことはないのだ。
だが、臼井城攻防戦は、そうではない。
長尾軍が大敗を喫して、敗走した。
それ以前、長尾軍が敵に敗れたことはあるが、景虎がおらず、配下の武将に指揮を任せたときである。
景虎が陣頭指揮を執りながら、惨敗したのは、これ一度だけである。
歴史上、長尾景虎を完膚なきまでに破った男、それが白井入道浄三なのである。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
Newest issue最新話
- 第二十回2025.04.30