北条氏康 巨星墜落篇第二十八回
五
七月上旬に信玄が北信濃から越後に攻め込む構えを見せた時点で、
(武田は駿河に攻め込むつもりだ)
と、冬之助は確信し、早ければ、年内に武田と北条が干戈を交えることになると予想したが、当の北条氏には、そんなつもりは、まったくなかった。
武田の動きを警戒はしていたが、三国同盟が存在する以上、そう無茶なこともできまい、と高を括っていた。
だからこそ、八月下旬、氏政は下総に向けて小田原から出陣した。簗田氏(やなだ)の本拠・関宿(せきやど)城を落とすことが目的である。駿河とは反対方向だ。武田の今川攻めを真剣に憂慮していれば、この出陣はなかったであろう。
しかも、簗田氏を支援する豪族たちの討伐に手間取り、ようやく関宿城を包囲したのは十月中旬である。
簗田氏は万全の備えをして北条軍を待ち構えており、これを見た氏政は、
(すぐに落とすことは無理そうだ)
と判断し、長期戦を覚悟して、山王山と不動山に向かい城を拵えた。
この包囲戦には、弟の氏照(うじてる)が同行しており、二人で相談して作戦を遂行している。
関宿城を攻め落としたら、上総に転戦することを話し合う二人のやり取りを裏付ける手紙が残っているから、この時点でも、氏政は武田の動きをまったく警戒していなかったことになる。
氏康の使者がやって来て、すぐに小田原に戻るようにという伝言を受け取ったのは、十一月中旬である。
ここに至って、ようやく氏康は、
(武田は駿河を攻めるつもりだ)
という見通しを持ち、氏政と対策を講じることにしたのである。
氏政は、関宿城攻めを氏照に任せ、少数の供回りの兵だけを連れて、急遽、小田原に戻った。
「それほど事態は切迫しているのですか?」
小田原城に戻ると、すぐさま氏政は氏康と話し合いの場を持った。
「うむ......」
氏康の表情は暗い。重苦しい溜息をつきながら、氏政に状況を説明する。
それによれば、武田氏は、十月下旬から、駿河との国境付近に兵を集め出したという。
それを知って、今川氏は、武田氏の動きに呼応するように国境に兵を集結させ、甲斐との国境を封鎖したというのである。
「誘いに乗ったわけですか」
話を聞いて、氏政も溜息をつく。
今現在、武田と今川の力の差は明白である。誰が見ても、両者が戦えば、今川が負けるとわかる。
それ故、いかに武田が挑発してきても、決して誘いに乗ることなく、耐え忍ぶしかないのだ。
両者が衝突すれば、たとえ、それが小競り合いに過ぎなくても、
「相手の方から攻めてきたから、仕方なく応戦したまでだ」
という口実で、武田は駿河に攻め込むであろう。
「愚かなことを......」
「それだけではないのだ」
武田の動きを警戒した氏真は、越後に使者を送って和睦を提案し、今後は力を合わせて武田に対抗したいと長尾景虎に申し入れたのだという。
「何と......」
氏政が言葉を失う。
武田信玄と長尾景虎は不倶戴天の敵同士である。
何度となく干戈を交え、両軍はおびただしい血を流してきた。信玄と景虎が憎み合っているだけでなく、武田の者も長尾の者も相手国の者たちを憎悪している。
武田にとっては、長尾と手を組む者はすべて敵なのである。
誰にでも簡単にわかる道理なのに、なぜ、氏真にはわからないのか、それが氏政には不思議である。好んで信玄を挑発しているかのようにしか思えないのだ。
「越後に使者を送る前に、なぜ、小田原に使者を送ろうと考えなかったのでしょうか?」
武田、今川、北条の三国同盟は、まだ生きている。
今川が北条に相談を持ちかけても、武田が腹を立てる筋合いはないし、場合によっては、北条が武田と今川の仲裁役を買って出ることもできる。
「わしにもわからぬ。もう遅いわ」
氏康が首を振る。
手遅れなのである。
氏真が長尾景虎に和睦を申し入れ、今後の協力を打診した時点で、今川が武田との同盟を破棄したと捉えられても仕方がないのだ。
信玄とすれば、
「今川がわれらに敵対する真似をしたから、やむなく駿河に兵を入れた」
という大義名分を手に入れたことになる。
六
十二月六日、武田軍が駿河に侵攻した。
氏康と氏政の怖れていた事態が現実となった。
信玄は小田原に使者を送り、
「今川が密かに長尾と手を結んで甲斐を攻めようと企てたから、やむを得ず兵を出した」
と理解を求めた。
「......」
氏康と氏政は顔を見合わせ、一言も発せず、黙りこくっている。
予想通りの展開になっただけなので驚きはしなかったが、あっさり同盟を踏みにじった信玄に強い怒りを感じた。
富士川沿いに南下する武田軍は、九日には大宮城を包囲した。
今川氏真も直ちに動員令を発し、薩埵(さった)峠で武田軍を迎え撃つと決めた。
ごく常識的な作戦と言っていい。
薩埵峠は、由比(ゆい)と興津(おきつ)の間に位置する東海道の難所である。
旅人が峠を越えるだけでも大変なのに、そこで戦をするとなれば、その苦労は想像を絶する。
峠の上で待ち伏せて、攻め上ってくる武田軍に鉄砲と矢を雨あられと降らせれば、どう転んでも負けようがない。
平地で野戦になれば、戦上手の信玄には歯が立たないから、自然の要害を利用するしかないのだ。
薩埵峠を越えられてしまえば、駿府を守ることが難しいので、氏真としては、何としても、ここで踏ん張る必要がある。
薩埵峠の北に、庵原(いはら)安房守、新野式部少輔が率いる一千五百の先鋒を配置した。
わずか一千五百の兵力で武田軍とまともに戦うことなどできるはずがない。これは囮である。一戦して敗れれば、すぐさま退却し、薩埵峠に逃げ込む手筈になっている。
勝ちに乗じて武田軍が追いすがれば、薩埵峠の上で、岡部忠兵衛、小倉内蔵助の七千の今川兵が待ち構えているという寸法である。
氏真自身は、薩埵峠の南、興津の清見寺(せいけんじ)に本陣を構えた。その数は、ざっと二万だが、駿河各地から続々と兵が集まっているから、今川軍全体としては三万四千という大軍になるはずであった。
薩埵峠に本陣を置かなかったのは、それほどの大軍を配置できる場所がなかったからである。七千人でも相当に窮屈なのだ。頂上付近に七千人が集結することは不可能で、実際には、麓のあたりから頂上にかけて広く分散するという格好になっている。
(わしの出番は、あるまい)
というのが氏真の目論見である。
武田軍は薩埵峠で壊滅し、這々(ほうほう)の体(てい)で甲斐に逃げ戻ることになるはずだ。
どう考えても、すべての武田軍が薩埵峠を越えることはあり得ず、せいぜい、ごく少数の武田兵が峠を越える程度であろうから、それを氏真は叩き潰せばいい。
氏真は本陣から動くつもりはないし、その必要もないはずであった。
駿府を出た氏真が清見寺の本陣に腰を据えたのは十二日の早朝である。
同じ日、夜明け前に小田原を出た氏政は、兵を率いて箱根を越え、三島に進軍した。
氏真と氏政の動きを見れば、薩埵峠で武田軍を足止めし、北から北条軍が、南から今川軍が攻めて、武田軍を挟み撃ちにしようと企んでいたのではないか、と疑いたくなる。
そうだとすれば、今川軍の配置は、氏真の頭から出たのではなく、氏康が進言したと想像できよう。
なぜなら、今川軍が整然と動いたのは、この朝の布陣までで、実際に戦闘が始まるや、氏真も今川軍も目も当てられぬほどの醜態をさらすことになり、この日以降、氏真と今川氏は奈落の底に転がり落ちていくからである。そこには一片の整然さもない。
繰り返しになるが、この十二日、信玄は薩埵峠の北におり、氏真は南にいる。氏政は三島にいる。
この三者の位置と兵力が重要である。
氏真は三万四千、氏政は二万、合わせて五万四千。
一方の武田軍だが、信玄の本隊が二万、後詰めの部隊が五千ほどで、全体としては二万五千程度に過ぎない。
足利学校で、卒業間近の学生たちが頻繁に行う図上演習の教材にすれば、
「馬鹿馬鹿しい」
と投げ出してしまうほど大きな兵力差である。
普通に考えれば、氏真は負けようがないのだ。
ただ、実際の合戦と図上演習では大きな違いがある。ひとつには兵を率いる武将の力量が反映されないことである。
いかに兵力で勝っていようと、戦に関して素人同然の氏真と、幾多の修羅場を潜ってきた信玄では、子供と大人が相撲を取るようなものだから、まともに野戦でぶつかれば、氏真が負けるであろう。
だからこそ、薩埵峠という自然の要害に武田軍を誘い込もうとしている。これは悪い策ではない。
しかも、北条軍が迫っている。
翌日には氏政は薩埵峠に到着するから、氏真と共に信玄を挟撃できるのだ。
わずか一日である。
氏政は兵を休めず、強行軍を続けているから、厳密に言えば半日ほどであろう。
どれほど氏真が戦下手であろうと、どれほど武田軍が強かろうと、氏真の手許には三万四千という大軍がいる。どんな素人が指揮を執ったとしても、たった半日くらいであれば持ちこたえられるであろう。
が......。
それができなかった。
半日も持たなかったのである。
なぜなら、戦には、図上演習に反映されない、もうひとつの大きな要素が絡むからである。
それを調略という。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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