北条氏康 巨星墜落篇第十回

十六
 二十六年前、この同じ土地で、北条軍は小弓公方(おゆみくぼう)・足利義明と戦った。いわゆる第一次国府台の合戦である。
 二十四歳の氏康は、父・氏綱を補佐して、大いに奮戦した。この戦いに勝利した結果、北条氏は房総半島に確固たる足場を築くことに成功した。
 五十歳となった氏康は二度目の国府台の合戦に臨もうとしている。北条氏の当主は息子の氏政だが、隠居した今も氏康こそが総司令官である。
 里見軍に悟られないように、氏康と氏政がそれぞれ一万の軍勢を国府台城の南北に布陣し終えたとき、事実上、この合戦は終わったと言っていい。
 前日の戦いで大勝利を得たしっぺ返しのように、里見義弘にはいくつもの不運が重なったが、各地に分散していた兵を国府台城に呼び戻したことが最大の不運だった。
 国府台城は、それほど大きな城ではないから、八千の兵をすべて収容することは不可能だ。大半は城外で野宿するしかない。夜が明ければ、すぐに葛西城に向かって進軍するのだから、一晩、野宿するだけのことである。
 城外で野宿する兵たちの存在が敗北の直接的な原因になるとは、里見義弘も想像できなかったであろう。
 夜が明け、里見兵が炊事を始め、弁当を用意しているところに、二万の北条軍が南北から攻めかかってきた。不意を衝かれた里見軍は大混乱に陥った。
 野宿している兵がいなければ、城門を閉ざしてしまえばいい。どれほど小さな城だとしても、そう簡単に攻め落とされることはない。北条軍の攻撃を防いでいるうちに、何らかの手立てを捻り出す余裕がある。
 野宿している兵が少なければ、やはり、同じことである。彼らを城内に入れて、城門を閉ざすのだ。
 が......。
 それができなかった。
 野宿している兵の数が多すぎるからである。
 五千もの兵が城の周囲にいる。
 彼らをすべて城に入れることは無理だし、彼らを見捨てて城門を閉ざすこともできない。
 否応なしに、すべての里見軍が城を出て、北条軍と決戦しなければならなくなった。
 普通に考えて、二万の北条軍と八千の里見軍では勝負にならない。
 しかも、不意を衝かれて里見軍は大混乱に陥っている。まともに戦えというのが無理であろう。
 指揮系統がずたずたに寸断され、それぞれが勝手に目の前にいる北条軍と戦うという、目も当てられないほどの惨状を呈した。
 昨日、北条軍も敗北を喫したが、客観的に見れば、二千の先鋒が総崩れになっただけで、第二陣以降はしっかり踏み留まって里見軍を押し返した。
 今日の里見軍は、そうではない。
 全軍が総崩れとなっている。
 半刻(一時間)も経たないうちに明らかな敗勢となり、その場で戦い続ければ、いたずらに戦死者が増えるだけというひどい有様になった。
 この様子を『北条記』では、次のように描く。

 房州勢、ただ今敵寄せんとは思ひもよらず、多く以て油断しける程に、あはてふためく。
 また用心しけるもありけれども、味方の兵どもに引き立てられ、散々に懸負......

 里見軍は、まさか北条軍がやって来るとは想像もしておらず、まるっきり油断していたので、慌てふためいたわけである。これでは戦にならない。
 もっとも、中には用心していた者もいたが、周りが大混乱に陥ってしまったので、それに巻き込まれて負け戦をすることになった、と。
 この用心していた者というのは、例えば、太田資正である。
 これまで何度となく北条軍と戦って煮え湯を飲まされてきただけに、他の者たちのように、
「今日の負け戦で北条もわれらの強さを思い知ったことであろうよ。明日は、もっと痛い目に遭わせてやる。今夜は大いに飲んで、明日の戦に備えようではないか」
 と、のんきに構えることなどできなかった。
 氏康や氏政の本隊に勝利したというのならまだしも、たかだか先鋒に勝っただけである。
 しかも、第二陣に押し返されている。
 二万の北条軍のうち、大きな打撃を受けたのは二千の先鋒に過ぎず、一万八千は無傷で残っている。二千の先鋒を皆殺しにしたわけではないから、北条軍の兵力は今も二万近いであろう。依然として里見軍の二倍以上の兵力を擁しているのだ。
 その現状を冷静に眺めれば、とても酒盛りなどして浮かれている場合でないのは明らかである。
 里見義弘は夜明けと共に葛西城を攻めるというが、それがうまくいくかどうかわからないし、逆に、こっちが攻めないうちに北条軍が攻めてきたらどうするのか?
 資正は、そう諌言したかったが、それができる立場ではない。
(御屋形さまがいて下されば......)
 資正が「御屋形さま」と呼ぶのは長尾景虎のことである。景虎の来援を待って北条軍を挟み撃ちにするというのが里見義弘の作戦だが、資正自身、他の誰よりも景虎の来援を心待ちにしていた。
 しかし、間に合わなかった。
 資正が懸念したように、北条軍は、里見義弘が動かないうちに動いた。
 その時間差が勝敗をわけたが、資正には、それが義弘と氏康の器量の差であるようにも思われる。
 乱戦の中で馬を走らせながら、
(これは、いかん)
 資正は、これ以上の戦いは無駄だと悟る。
 兵力に大きな違いがあるために、一人の里見兵を、複数の北条兵が取り囲むという戦い方になっている。これでは、まともに戦いようもなく、里見兵が次々と討ち取られていくだけだ。
 資正も刀を振るって戦った。
 いつの間にか小姓がそばからいなくなって一人になっている。周りは北条兵ばかりだ。
 刀も刃こぼれして役に立たなくなっている。刃には脂がべっとりつき、刀身が曲がって、鞘に収めることもできない。かなり疲れてもいる。
(もう、よかろう)
 資正は戦場から落ち延びることに決めた。
 一人きりになって敵兵に囲まれれば、普通は死を覚悟するのだろうが、そう簡単に死のうとは考えない。まだやり残したことがある。何とか生き延びて、もっと北条氏を苦しめるのだ。
 馬を駆って、資正が戦場から逃れようとする。
 人だけでなく、馬も疲れているのであろう。ちょっとした段差に前脚を取られて、大きく躓いてしまう。
 資正も元気なときであれば、胸を反らせて体重を後ろにかけながら、ぐいっと手綱を引いて、馬が態勢を立て直すのを助けてやっただろうが、自分も疲れていたので、馬が躓いたときに体が前傾してしまい、つまり、体重が後ろではなく前にかかってしまい、そのまま馬から投げ出されてしまった。
 したたかに背中をうち、しばらく息もできない。
 何度か深呼吸し、ようやく体を起こそうとしたとき、背後から誰かに飛びかかられて、また、ひっくり返る。
「太田美濃守殿とお見受けする」
 若い武者が資正に馬乗りになって怒鳴るように言う。
「いかにも美濃守である」
「拙者は伊豆韮山(にらやま)の在、清水又太郎と申す。美濃守殿に恨みはござらぬが、こうして戦場で出会ったのも何かの縁でござる。御首級(みしるし)をいただきたい」
「よかろう。わしの首を奪って手柄とせよ」
 資正は観念したように目を閉じる。こうなった上は、見苦しく抵抗しようとは思わない。
「わが主に御首級を実検してもらった後、きちんと葬り、懇ろに供養すると約束しますぞ」
「うむ、よろしく頼む」
 目を閉じたまま、資正が言う。
「ご覚悟なされよ」
 清水又太郎は小柄を取り出すと、資正の首に小柄を当て、えいっ、と力を込める。
 首を落とすときは、手で切ろうとするのではなく、小柄に自分の体重をかけ、その重さで首を落とすのが心得である。
 が......。
 いくら力を入れても小柄が動かない。
 清水又太郎の顔から汗がだらだら流れ落ちる。
「清水殿」
 資正が目を開ける。
「そう慌ててはいかんな。落ち着きなさい。よく見れば、わしの首に鉄の輪が巻いてあるのがわかるであろう。それを外さなければ、首を落とすことはできぬよ」
「あ」
「首の後ろに留め金がある。それを外せば、鉄の輪が取れる。そうすれば、容易に首を落とすことができる」
 さあ、そうなされよ、と資正が冷静に指南する。
「かたじけない」
 右腕で顔の汗を拭いながら、清水又太郎が鉄の輪を外そうとする。
 しかし、頭に血が上り、緊張のあまり手が震えているせいで、うまく留め金を外すことができない。
 そこに、
「殿!」
 資正の小姓、孫四郎と与次郎が駆けつける。
「おのれ、何をするか」
 二人が清水又太郎を引きずり倒す。
「ご無事ですか」
「怪我はないようだ。この者にわしの首を授けようと観念していたところだ」
「何をおっしゃるのですか」
「刀を貸せ」
「は?」
「わしの刀は使い物にならぬのだ」
「......」
 孫四郎が自分の刀を差し出す。無銘のなまくらである。
「清水殿、わしの首がほしければ、わしと立ち合いなされ。わしを討てば、北条殿が大きな恩賞を下さるであろうよ」
「卑怯ではないか。さっきは、わしに首をくれると言ったのに」
 清水又太郎が悔しそうに言う。
「愚か者め。名のある武将ならば、簡単に首を奪われぬように首輪をするのは当たり前のことであるぞ。それを知らぬ御身が愚かなのだ」
「くそっ」
 清水又太郎が資正に斬りかかる。
 落ち着きを取り戻し、いくらか疲労の回復した資正は、容易にかわすと、振り向きざま、清水又太郎の背筋を斬りつける。
 うわっ、と叫びながら、肩越しに振り返った清水又太郎の額を上段から斬り下げる。
「......」
 モノも言わずに、清水又太郎が崩れ落ち、そのまま横倒しになって絶命する。
「不思議なものだ」
 孫四郎に刀を返しながら、資正がつぶやく。
「わしは、もう死ぬつもりでいた。普通なら死んでいただろう。しかし、わしは生きている。これは天が生きよ、と命じているのだ。北条の好き勝手にさせてはならぬ、ということなのであろう」
「殿、急ぎませぬと......」
「うむ、行こう。わしは生きるぞ。こんなところで死んだりはせぬ」
 与次郎が引いてきた馬に跨がると、資正は二人を引きつれて戦場を離脱し、そのまま上総を目指して馬を走らせる。

北条氏康 巨星墜落篇

画・森美夏

Synopsisあらすじ

一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!

Profile著者紹介

1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。

「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。



〈北条サーガTHE WEB〉

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