北条氏康 巨星墜落篇第十三回
二
冬之助が景虎を訪ねて来たのは、長尾方の軍勢が足利学校周辺を荒らさないように、景虎の制札をもらうためであった。
敵地に攻め込んだとき、その土地の農村を略奪するのは珍しいことではないが、寺社を襲うのは避けるのが暗黙の了解になっている。
足利学校は寺社とは違うが、学生たちは僧形で、傍目には寺社と区別がつかないし、そもそも、足利学校の名は諸国に知れ渡っているから、本当なら、それほど略奪を怖れる必要はないはずである。
にもかかわらず、わざわざ制札をもらいに来たのは、長尾方が了解を無視して寺社も襲っており、制札がなければ、略奪から逃れる術がないということなのであろう。
その用件を告げると、
「よしよし」
景虎はふたつ返事で承知し、小姓に酒肴の支度を命じた。酒を飲みながら冬之助と語り合うつもりなのである。
酒肴が並べられ、盃に酒が注がれると、
「まずは飲もうではないか」
景虎が一息に盃を空けてしまう。
すぐさま傍らの小姓が酒を注ぐ。冬之助がちびちび酒を嘗めている間に、四杯か五杯は飲んだであろう。
(相変わらず酒が強い。いや、強すぎるようだな)
冬之助が景虎の顔をじっと見つめる。
色黒だからわかりにくいが、かなりの赤ら顔である。三十五歳という男盛りなのに、老人のように酒焼けしている。
(酒で身を滅ぼさなければよいが......)
と、冬之助は心配になる。
「わしと同じで、おまえは戦が好きな男だ。書物ばかり読んでいるのは退屈ではないのか? 戦場が懐かしかろう。いつでも戻って来てよいのだぞ」
「ありがたきお言葉ではございますが、もう戦に出る気力がありませぬ」
冬之助が首を振る。
「いくつになったかな?」
「六十一でございます」
「ふうむ、そんな歳になったのか。そうは見えぬな。十くらいは若く見えるぞ」
「毎朝、日の出と共に起き、学生たちと共に畑仕事をいたします。書物を読んだり、学生に教えるより、畑にいる時間の方が長いくらいなのです。おかげで足腰は丈夫ですし、老け込む暇もありませぬ」
「そんな生活で辛くはないのか?」
「いいえ、まったく。自分なりに楽しんでおります」
「肌艶もよいし、健康そうに見えるのは、そのせいか。人は自分の好きなこと、楽しいことをして過ごすのが一番よいわ。わしは、どうもいかんぞ......」
この頃は、何をやってもうまくいかぬのだ、と景虎が溜息をつく。
「武田と北条に鼻面を引き回されて右往左往しているが、終わってみれば、何も手に入っていない。骨折り損ばかりよ。思い返してみれば、おまえと共に小田原を攻めたり、武田と川中島で戦ったり、あの頃が最もよかったのかもしれぬ。その後は何をしてもうまくいかぬ。松山城を奪われたことで、武蔵の足がかりも岩付城くらいになってしまったし、上野では次々と武田に城を落とされている。里見と手を組んで、国府台で北条を挟み撃ちにするつもりでいたが、わしは戦に加わることもできず、何日か前までは常陸に、今は下野にいる。自分でも何をしているのかわからぬ」
「気弱なことをおっしゃってはなりませぬ」
「おまえがそばにいれば、こんなことにはなっておるまいに」
「......」
世間では景虎を無敵と怖れ、家臣たちも景虎を軍神として敬っている。
普通、総大将は本陣に腰を据え、戦の指揮は軍配者や重臣たちに任せるものだが、景虎はそうではない。すべての作戦を自分が立案し、自分が先頭になって敵陣に攻め込むというやり方をする。
無謀なやり方に思えるが、現実には、そのやり方で勝ち戦が続いているから、誰も景虎の作戦に異を唱えることなどできない。
逆に言えば、景虎の心に迷いが生じたとき、それを相談する相手もいないということである。
冬之助が軍配者として仕えていたときも景虎のやり方は同じだったが、それでも、多少は冬之助の意見に耳を傾けたし、時には、自分の案を引っ込めて冬之助の案を採用することがあった。
景虎が冬之助の軍事的な才能を認め、その才能に敬意を払っていたからであり、今の景虎には身近にそんな人間はいない。良くも悪くも孤高の存在になってしまったのである。
いかに天才と賞賛され、軍神と崇められても、実際には景虎も生身の人間である。弱気になることもあるし、心に迷いが生じることもある。
久し振りに冬之助に会って、そういう人間臭い一面が現れたのであろう。
「国府台の戦について、何か聞いているか?」
「おおよそのことは」
冬之助がうなずく。
遠慮がちに答えたが、実際には、かなり詳しく知っている。
足利学校は軍配者を養成する学校だから、諸国で行われた合戦に関しては日常的に調査が行われている。学生たちが学ぶ教材にするためである。卒業生が大名家に数多く召し抱えられているから、彼らからも報告が届く。お膝元の関東で起こった大きな合戦の詳細など、わずか数日で足利学校にもたらされる仕組みになっている。
「わしの何が間違っていた? 遠慮はいらぬから、何でも言うがいい。何を言われても怒りはせぬ」
「はい......」
冬之助が盃を置き、小首を傾げる。何から話そうかと思案する様子である。
「御屋形さまは、恐らく、北条を挟み撃ちにするおつもりだったのであろうと思います。里見殿が国府台城に北条を引きつけている間に御屋形さまが背後から忍び寄って北条を叩く......違うでしょうか?」
「その通りだ。そうするつもりでいた」
景虎がうなずく。
「しかしながら、武田が甲斐に帰らず、西上野で年を越したので、御屋形さまは動くに動けなくなってしまった」
「うむ」
「そこで北条を挟み撃ちにする考えを捨てるべきだったかと存じます」
「捨てるのか?」
「武田が西上野に残ったのは、御屋形さまが南に向かえば追撃し、武蔵のどこかで北条と挟み撃ちにするつもりだったからでしょう。御屋形さまがやろうとしたことを、今度は相手がやるわけです。それがわかっているから、御屋形さまは動きようがなくなってしまった」
「そうだ」
「北条を挟み撃ちにすることができないとわかった段階で、ふたつの道があったと思います」
「申すがよい」
「ひとつは、敢えて南に向かい、武田が追ってきた頃合いを見計らって方向を転じ、武田と決戦することです。恐らく、平井城付近が戦場になったのではないでしょうか」
「それでは、武田と北条に挟み撃ちにされると言ったではないか」
「それ故、長い戦はしませぬ。北条が上野に着かぬうちに武田と決戦するのです」
「信玄は決戦を避けるであろうよ」
「それでよいのです」
「ん?」
「いよいよ北条がやって来そうだとなれば、御屋形さまは武田陣に向かって進み、あくまでも武田が決戦を避けるのであれば、そのまま厩橋城に戻ればよいのです」
「武田はわしを足止めして、北条が着くのを待とうとしたであろう」
「北条が松山城に着いたら、御屋形さまは何が何でも厩橋城を目指して進みます。武田が追いすがってくるのならば、そこで迎え撃てばよろしいかと存じます。武田と合戦になって、北条が来ないうちに武田に勝てるのか、揉み合っているうちに北条がやって来るのか、それは実際に合戦が始まらなければわからぬことですが、敵地で挟み撃ちにされるのとは違います。武蔵にはほとんど味方が残っていませんが、上野の豪族たちの多くは、今でも御屋形さまに忠義を誓っております。御屋形さまが武田や北条と渡り合っているときに、彼らの背後を豪族たちが襲えば、かなり面白い戦になったのではないでしょうか」
「そうか。その手があったか」
景虎がぽんと膝を大きく叩いて、うなずく。
「北条勢が北上してくれば葛西城が手薄になるので、そこを里見軍が攻めればよかったのです」
「ふたつの道があると言ったな。もうひとつは、どんな道だ?」
「何もせぬことです」
「何だと?」
「武田もいつかは甲斐に帰ります。帰ってしまえば、御屋形さまを挟み撃ちにすることはできなくなってしまいます」
「だが、国府台で戦になるではないか」
「里見も何もしてはならぬのです」
「北条は二万、里見は八千だったのだぞ。何もしなければ攻め滅ぼされてしまうではないか」
「葛西城と国府台城の間には太日川があります。太日川を国府台城の外堀と考え、北条に太日川を渡らせないことに、すべての力を注ぐのです。実際には、あまりにも呆気なく北条の渡河を許してしまいました。それが敗北の理由です」
「なるほどな」
景虎が盃を傾ける。かなり酔いが回っているのか、目が血走っている。
「おまえの話を聞くと、いろいろやりようがあったのだとよくわかる。にもかかわらず、わしは最初の策に固執しすぎた。下野から常陸を抜けて国府台に向かおうというのは愚策であったわ。せめて、わしが着くまでは、何があろうと戦を始めてはならぬ、北条を渡河させるな、と里見に伝えるべきであった」
わしもまだまだ未熟者よ、と景虎が自嘲気味に笑う。
「生意気なことを申しました。お許し下さいませ」
冬之助が頭を垂れる。
「いや、よくぞ申してくれた。どんなときにも道はひとつではない。思案を巡らせれば、いくつもの道がある......そんな当たり前のことを教えてもらった。感謝するぞ」
景虎が小姓に支えられて立ち上がり、わしはもう寝る、ゆっくりしていくがよい、と言い残して部屋から出て行く。
あとには冬之助一人が残される。
気分が昂揚している。
しばし軍配者に戻ったかのような錯覚を覚えた。
景虎に自分の考えを話したが、それを実行したとしてもうまくいったかどうかはわからない。戦は生き物である。相手がいるのだ。こちらの都合だけで動くものではない。景虎が挟み撃ちにされることを警戒して作戦を変更したら、武田と北条も作戦を変更し、新たな対応策を打ち出してきたであろう。それが戦の駆け引きというものだし、そういう場面こそ、軍配者の腕の見せ所なのである。
(要は武田も北条も強いということだ)
山本勘助、風摩小太郎という長きにわたって両家を支えてきた軍配者は亡くなったが、それでも両家は強い。信玄と氏康がよほど傑出した名将だということであろう。
言うまでもなく景虎も名将である。
信玄、氏康、景虎という三人の稀代の名将が知恵を絞り合っているのだ。面白くないはずがない。できることなら、そこに自分も飛び込んで腕を振るってみたいと思わぬではない。もう少し若ければ、そうしたであろう。
だが、冬之助は六十過ぎの老人である。この時代の平均寿命を遙かに超えている。残された人生を自分の楽しみのために使うのではなく、次の世代のために使わなければならない、と己を戒めている。
(あの子たちも十歳くらいになったはずだ)
山本勘助の子・太郎丸と風摩(ふうま)小太郎の孫・小次郎のことを冬之助は思い出す。
あと何年かすれば、きっと二人は足利学校に来るであろう。偉大な父と祖父の後を継ごうとするはずである。彼らを一人前の軍配者に育てることが自分の仕事なのだ、そうしなければ、あの世で二人に合わせる顔がない、と冬之助は考える。
Synopsisあらすじ
一代にして伊豆・相模を領した祖父・北条早雲、その志を継いだ父・氏綱、そして一族の悲願・関東制覇を期する氏康――氏政に家督を譲ったものの、長尾景虎の猛攻に氏康は気の休まる時がない。危うい局面を武田信玄との同盟で凌いできたが、西から新たな危難が迫る……北条三代目の物語もいよいよ大団円!
Profile著者紹介
1961年、北海道生まれ。98年に第4回歴史群像大賞を受賞した『修羅の跫』でデビュー。
「SRO 警視庁広域捜査専任特別調査室」「生活安全課0係」シリーズを始めとする警察小説から、『早雲の軍配者』『信玄の軍配者』『謙信の軍配者』の「軍配者」シリーズや『北条早雲』全5巻などの時代・歴史小説まで、幅広いジャンルで活躍している。
〈北条サーガTHE WEB〉
http://www.chuko.co.jp/special/hojosaga/
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- 第十九回2025.04.23